10
リンが中学受験のためにずっと練習してきたのが、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』。ラフマニノフ自身がうつ病から回復した際に、担当してくれた医師に捧げた曲だ。
ずっとスランプで、自分の音に自信が持てないのもそうだったが、受験の日になにかが降りてきたと、そう言っていた。
ぼくもそうだ。祖父母は模試の結果が悪かったことを「たまたま調子が悪かった」と慰めてくれたが、母からは呆れの視線を浴びせられた。気持ちを切り替えたくて、本を読んだり、気持ちを紛らわせるためにランニングをしたりもした。でもなにも変わらなかったのに、ランニングから戻って来て、何気なくラジオをつけた時に流れてきたのが、「Klar(クラー)」
の音楽だった。
忘れもしない。ユニット名と同じ、「Klar(クラー)」という曲だった。
まるで自分の中の、凍り付いたものをすべて溶かして、洗い流してくれるかのような、せせらぎのような、陽だまりのような、なんともいえない涼やかで均整なみっつの楽器の音。
ぼくがなのかに伝えたかったのは、たぶん、これなのだと思う。
自信だけでは人を揺さぶる音は出せない。苦悩を知り、人を知り、感情を知るからこそ、動かせるものがある。でもそれは決して能動的ではないし、驕るものでもない。ただ、ただ、自分の中にある葛藤を弱みではなく、それすらも強みだと切り替えられた人だけが出せる音。それが、リンとヨウの調べだ。
人はだれしも様々な苦悩を抱えて、それを押し隠して生きている。なにも出せない人もいれば、それを言葉として、誰かを攻撃することで解消する人もいる。人知れず泣く人も、命を閉じる人も。
そんな人たちが、もし、リンとヨウの音を聞いていたら、どんなふうに響いたのだろうか。ぼくは様々なピアノ音楽を聴いてきたが、このふたりが奏でる音以上に、透明で、傷を肯定してくれるものを知らない。
ぼくはもう、スマホの画面が見れなかった。
『その子がこの番組を聞いてくれているかどうかはわからないけれど、ネットラジオで放送後一週間は聞けるので、届くといいなと思っています』
『さりげなく宣伝したね、この子』
『そういうところがあるんですよ』
ヨウが「抜け目ないから」と笑う。
ぼくからのメールを読み上げたあと、曲紹介に入る前のあのセリフを、ぼくは未だに覚えている。