第八十八話 総責任者
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 5:25 七聖学院 講堂 】
朝陽の遠い足音が聞こえても、講堂の床は、冷たかった。
式典や集会で使うはずの場所に、寄宿舎の生徒達が座らされている。壇上には仮面の男達。出入口にも、戦棍と携帯式弩を持った仮面の連中が立っていた。
目と口以外を覆う板金の仮面。額から上の部分は、渦巻き模様。
あれは多分、脳を表している。何かしらの意味があるのだろうか?
宗教学にも紋章学にも、そこまで詳しくない俺では、それ以上の分析はできない。
こいつらの目的は何だ? 身代金か? 犯行声明は出すのか? 分からない。まだ材料が足りない。
俺は舌打ちをして、天井を見上げた。
照明は消えている。魔導灯も、各自が身に付けている魔道具も全て、まるで息を止めたように沈黙している。
第六位列術式魔法、魔法遮断場。
講堂全体ではない。俺達が集められている場所だけ、その遮断領域の中に沈められていた。
俺はハリエット姉さんの方を見る。
姉さんは、泣き出しそうな下級生達の背を撫でていた。何かを言って慰めるのではなく、何度も小さく頷いている。眩しい。姉さんは天使か女神か。
しかし、その優しさに甘えて、その下級生達は、姉さんの膝元から離れようとしない。まあ、今は緊急時だから許してやるとしよう。
「ハリス、大丈夫?」
「ああ、問題ないよ。姉さん」
俺はローティを見た。こっちはイネヴェアの膝元で横になっていた。額から血を流している。布で押さえて貰ってはいるが、呼び掛けへの返事が遅い。視線も揺れている。何度か瞬きをして、ようやく誰かの顔を見る。
「ローティ、大丈夫? あたくしの声が聞こえて?」
「......うるせぇ」
声は出た。だが、いつもの調子ではない。
イネヴェアは何も言い返さなかった。布を押さえる手だけが、少し強くなった。流石に今だけは、普段の調子でローティを雑に扱いはしない。
クリスとアディは、肩を寄せ合うように座っている。エインは二人の側で周りを見ている。そして何かを指折り数えている。あれは多分、何か重要なことを考えている。
その近くで、オーレリアが唇を尖らせている。講堂に連行される時から、ずっとブツブツ文句を言っている。
「手帳を奪うなんて、記録文化への重大な冒涜なのよぅ」
「オーレリア、今は黙ってろ」
俺が小声で言うと、オーレリアは頬を膨らませて、こっちを睨んできた。まだ睨むだけの余裕はあるらしい。
フェルトンは、皆から少し離れた場所にいた。顔色が悪い。膝の上で組んだ手が、何度もほどけて、また組み直される。
口だけは閉じているが、視線は床に落ちたままだった。いつもの強がりも出ない。
誰も大きな声を出さない。床を見ている者、膝を抱えている者、何度も唇を舐める者。講堂の広さと静けさだけが、不安を後押しするかのように、やけに目立った。
マリアンナ先輩が立ち上がりかけた。何か物申す、という感じだ。
その手を、ミシェル先輩が握った。マリアンナ先輩は一度だけ目を閉じ、また座った。
リーゼは俯いたまま、エルマーの袖を掴んでいる。エルマーは、その手を隠すように上着の端を掛け直した。
こういう時、支えられる者が傍にいるのは、きっと心強いだろう。
俺は大人達を見た。
校長先生がいる。ぷーちゃんを抱きしめて、酷く怯えている。
ジークハルト先生は、大怪我をしている。治療すらさせて貰えない。
寝間着姿のキャサリンさんもいる。給仕服でない姿を見るのは珍しい。
俺は、ここにいない者を数えた。
マナ様とマギ様。
アルフォンス先生。
ゴーンズ師匠。
ヴァンと、ミコト。
六人も不在だ。
壇上の中央には、赤黒い魔道衣の男がいた。椅子に座っている。
病的に青白い肌。金色の目。血色の悪い唇。その左端には、環状の鈍い銀色が光っている。
男は、解剖鋏のような杖を手にしていた。長い柄の先で、二枚の刃が閉じている。
あいつが敵の総責任者、ボスで間違いない。
その横に、黄土色の線が入った仮面の男。体格が桁外れに大きい。ぼさぼさの長い髪が仮面の縁から垂れており、首も肩も太い。戦士だろうか。腕を組んで立っているだけで、かなりの威圧感だ。
反対側には、青色の線が入った仮面の男。細身で灰青の魔道衣を着ている。フードを目深に下ろして、短杖を持っている。連行される途中で見た術士達と違って、首から大きな装飾が目立つ護符を提げている。
この三人が、首謀者と幹部だ。残りの何十人もいるであろう連中は、おそらく雇われただけの手下だ。
その時、講堂に入って来た一人の手下が、その術士の幹部に耳打ちする。術士幹部が、仮面の奥からこちらを見た。
「再度、尋ねます。マギ皇弟殿下と、マナ皇妹殿下は、どこにいますか?」
誰も答えない。知らないし、知ってても教えない。
「ゴルァ‼ どこにいるかって、聞いてんだろがッ‼」
戦士の幹部が大声を張り上げた。下級生の何人かが、首をすくめた。
「ぼく達は、知りません」
生徒を代表して、ミシェル先輩が返答した。少し声が震えている。
「地下にもいない。塔にもいない。では、どこへ?」
「分かりません」
幹部達のイラつきは見て分かった。術士の幹部は爪を噛み、ウロウロし始めた。戦士の幹部は腕を組み、ずっと靴先で床を叩いている。
「もうよい」
中央の男。ボスらしきそいつが、口を開いた。ゆっくりと立ち上がる。
その男は戦士の幹部よりも背が低いにも関わらず、もっと大きく見えた。
「おそらく、もう逃げたのだ。我々よりも一足早く、瞬間移動を使って、遠くへ逃げたに違いない」
アルフォンス先生もいない。その見立ては正しいと思う。だとすれば、こいつらは目的を失ったことになるはずだが、果たしてそれで俺達を解放してくれるのか?
到底そうは思えない。
「残された者共よ。よく聞け! 皇族は逃げた。おまえ達を置いて、逃げたのだ!」
なんて言い草だ。二人が残って、この戦力を相手に何ができる。逃げて正解だ。
だが、それを分からない下級生達は、皇族に対して不信を抱くかもしれない。こいつ、それを狙っているに違いない。
「皇族は、国は、おまえ達のことなど何とも思っていない! それが現実だ!」
誰も言い返さない。いいや、言い返せない状況。でも、何か言い返したい気持ちを、必死に我慢している者達だっている。特に、マリアンナ先輩や、オーレリア。
その時、校長先生の抱いていた犬。白い毛を桃色に染め、ふわふわした小型犬。ぷーちゃんが、その腕から飛び降りた。
「ぷ、ぷーちゃん、待つざます」
壇上の三人に向かって、ぷーちゃんは懸命に吠えた。
生徒達も、大人達も黙っていた。
一番小さな犬だけが吠えた。
「うるせぇぞ! その犬を黙らせろ! 蹴り殺すぞ!」
戦士の幹部。その怒鳴り声が、講堂に響いた。
校長先生の肩が跳ねた。
「そ、それはダメざます!」
走り寄って、ぷーちゃんを抱き上げた。ぷーちゃんは胸元に押し込まれるように抱かれ、まだ小さく唸っていた。
校長先生は、完全に怯えきっていた。ぷーちゃんを抱いて、震えている。
戦士の幹部は鼻を鳴らした。
「犬もガキも、うるせぇのは変わらねぇな」
その時、俺の肩を指が叩いた。振り返ると、ウォールがいた。
「どうした?」
「エインさんから伝言」
俺が目線を向けると、エインが頷きを返した。その隣には、キャサリンさんもいて、一緒にこっちを見ている。
「なんだって?」
「この人数をここに閉じ込めるなら、食料も水も足りなくなるって......」
なるほど、エインが数えていたのはそれか。キャサリンさんから、備蓄状況を聞いたのだろう。こいつらの目的は分からないけれど、補給が必要になるタイミングが、必ずどこかで訪れるはずだ。
「わかった。交渉してみるか」
その時だった。
「おい、おまえ達! ぼ、僕達を、直ぐに解放しろ!」
フェルトン。おまえ、何を。
「僕は、フェルトン・ブラスシルド。きゅ、九大貴族だぞ」
「あぁん? なんだこのガキ......」
戦士の幹部が、睨む。
「待て」
ボスが止めた。フェルトンを興味深そうに見る。
「......なるほど、ブラスシルド。......九大貴族ですか」
「そ、そうだ。......フェルトン・ブラスシルド......だ!」
「なるほどなるほど、わざわざ九大貴族の御子息に名乗って頂いたのだ。こちらも名乗りでお返しするのが、礼というもの」
芝居のような大仰な礼を見せながら、その男は名乗った。
「我が名は、マディアラス・ヴネオン。この腐った国を、解く者──」
「そ、そうか......、ちゃんと僕達を解放すれば、今なら軽い罰で済むように頼んでやる。だから、今す......」
ちゃきり。
解剖鋏の杖先。あの音が鳴る。
「もう、戻っていいぞ。フェルトン」
「ひっ......」
人が塵になる瞬間を見た者なら、その音を聞いただけで、固まってしまうだろう。フェルトンも例外じゃない。すごすごと戻る。
「他に、何か言いたい事のある者はいるか?」
「......帰りたい」
星級の小さな女の子だった。その呟きが、二度目には叫びに変わった。
「おうちに、帰りたいっ!」
そして、泣き出してしまった。まずいぞ、これは......。
「わたしも!」
「ボクも!」
「帰りたいよお!」
「うわああん、帰りたい!」
悲しみと恐怖。抑圧された感情が、たった一人の綻びから、全体に感染して行く。
集団恐慌だ。
「みんな! 落ち着いて!」
「そうよ。泣かないで......!」
ミシェル先輩や、姉さんが声をかけるも、収まる気配はない。
「おい、責任者は誰だ?」
ヴネオン。襲撃者達のボスは尋ねた。何人かの学生が顔を見合わせる。校長先生に注目が集まる。
「......ひっ、あ、あたくしざます」
ちゃきり。
「なら、この騒ぎはおまえの責任だ。おまえを殺せば、少しは静かになるか?」
子供達の泣き声が、さらに大きくなった。
ヴネオンは、鋏杖の先を校長先生に向けた。校長先生は、あの場面を目撃していないから、あれの本当の怖さをまだ知らない。
「へへ、そいつはいい。ガキ共を黙らせるには、責任者を一人殺すのが早い」
戦士の幹部が、両手の指をワキワキとさせた。
「ボスぅ、その女。オレに締め殺させてくれよぉ」
「好きにしろ」
ヴネオンは杖を降ろした。
校長先生が、ぷーちゃんを抱いたまま、じっと見つめ合っている。
ふと顔を上げた。
「あたくしが、責任者ざます」
「ああ、だからぁ?」
戦士の幹部が詰め寄る。
「あたくし......が! 責任者、ざます!」
「おいおい、どうした」
「この、アンディアナ・ルクル。煮るなり焼くなり、好きにしても構わないけれど」
声がそこで少し途切れた。ぷーちゃんの耳が伏せられた。
「子供達に手を出す事は、絶対に許しません」
戦士の幹部が笑った。校長先生の膝も笑っているのが、俺には見えた。
「許さねぇと、どうなるんだ?」
ジークハルト先生が、校長先生の横に立った。
「アンディアナ校長、貴女の覚悟、私も支えます」
「ジークハルト先生......」
ぷーちゃんが、小さく鳴いた。
「おいおい、いきなり何を言ってんだぁ?」
その睨みを無視して、ジークハルト先生は、ヴネオンの方へ視線と言葉を投げる。
「マディアラス・ヴネオン殿。私が泣きわめく子供達を管理し、黙らせる。故に、無用な殺生は控えて頂きたい!」
ヴネオンの片眉が持ち上がった。
「ほう? やってみろ」
「機会に感謝する」
ジークハルト先生が、俺達に向き直った。ろくな治療もされないまま、立っているのもやっとのはずだ。こんなの誰が見ても分かる。
額から流れた血は、拭き取り切れずに赤く固まっている。足だって、多分あれは折れている。肩口にも血が滲んでいる。なのに。
──直立不動。
「先生......」
「ジークハルト先生」
泣いていた子供達も、その姿から目を離せないでいた。
「総員ッ! 起立ッ!」
条件反射。
日々の訓練。
それだけではない。
最初にミシェル先輩とマリアンナ先輩が、当然だが俺も、姉さんも立ち上がった。
イネヴェアに支えられて、ローティも立ち上がった。
遅れて立ち上がる子達もいたが、下級生の子と手を繋いで、みんな立ち上がった。
「気を付けッ!」
姿勢を正す。泣いている子も、みんな同じくそうした。
「呼吸を整えろッ!」
泣くなではない。否定ではない。
すべきこと、行動。次へ向かう肯定。
吸う音が、ばらばらに重なった。鼻水をすする音も混じっていた。
「吐けッ!」
震えていた。でも泣き声が薄くなった。
「もう一度、吸えッ!」
校長先生もジークハルト先生の真剣な表情の隣で、必死に真似をして息を吸って、吐いている。
「前を見ろッ!」
俺は、ジークハルト先生を真っ直ぐに見据えながら、その後ろにいる敵の姿も、周囲の敵の数も、二階席にいる敵の数も、こっそりと、その配置と共に確認した。
座ったままでは得られなかった情報が、手に入った。
「今より、アンディアナ校長の訓戒がある。清聴ッ!」
ジークハルト先生が、一歩下がり、その場所を校長先生に譲った。
「ここで、あたくしに任せて下さるのね」
「はい。貴女は我々の総責任者ですから」
校長先生は目を伏せ、それから開いた。
「愛する七聖学院生徒の皆様、今、あたくし達は、大変に恐ろしい状況に置かれているざます」
校長先生の声は、まだ少し震えていた。でも、生徒の誰も笑わなかった。
「しかし、ちゃんと規律を守ること。それが今、皆様自身を守る一番確かな方法ざます。だから皆様、勝手な行動は慎むざます」
それは無理だな。既にヴァンが自由の身だ。もう遅い。だが今は、それでいい。
「それから、これは訓戒としてではなく、校長命令として聞くざます」
生徒の誰もが、清聴した。
「全員、生きて帰るざます。以上!」
その言葉を、胸に刻んだ。
「着席ッ!」
ジークハルト先生の号令に、皆が規律正しく膝を抱えて床に座った。
「ヴネオン殿。これで、問題ありませんな?」
ジークハルト先生の問いに、ヴネオンは肩で笑いながら、ゆっくりと拍手をした。
「いやはや、実に見事だ。調教が行き届いている。平民の子では、こうはいかぬ」
「これは教育だ」
「どちらでもいい。殺すのは止めだ」
「ちっ」
戦士の幹部が舌打ちをしやがった。あいつ、危険だ。
その時、手下が一人やって来て、術士の幹部に耳打ちをした。
「ボス」
「どうした?」
術士の幹部が、ようやく爪を噛むのをやめた。
「声明の準備が整いました」