第八十七話 潜入者
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 4:12 地下 ボイラー室 】
仮面の男がいた。
「おまえ、どう見ても潜入者だよなぁ?」
ヴァンは黙って男を観察する。体格、姿勢、手にした武器。
「それとも脱走者かぁ?」
男は戦棍を肩に担いで、ヴァンを見下ろす。
「おまえこそ、不法侵入者だろ」
「ひひ、違いねえ。......で? だから? だからなに?」
ヴァンは眉根を潜めた。異変に気付いたミコトは、通風孔の中でじっとしている。
「仲間を連れて、全員ここから出て行け」
「やだ、それは無理。オレ達は、金が要るんだよ。この国を世直しするための金がなあ?」
「そんなの他所でやれ」
「生意気を言うガキだな。死にてえのか?」
「死なない」
「おまえ、オレ達が子供に手を出せないと知って、調子に乗ってるな?」
「知らない。いいから、どっか行け」
ヴァンは身体を半身にして、右手を前に出して構えながら、腰の裏に差した短剣の柄に左手を添えた。
相手には自分の身体を遮蔽にして、刃がある事を見せない構えだ。
突き出した手を拳に変える。
子供が素手で戦おうとしている。男はそう誤解した。ヴァンが持つ戦いの勘。無意識的で本能的な策略だ。
「へっ、一丁前に構えやがって」
ヴァンは応じない。男の足幅を見る。位置と角度を見る。重心の傾きを見る。呼吸を聴く。
「怖じ気づいたか? なあ、おい」
無視。
「おいコラ。何とか言えや!」
男は遂にイラつきの限界に達して、戦棍で殴り掛かった。単に力任せに振り下ろすだけの直線的な一撃だ。
ただ、子供を傷付けて殺された仲間の事もあり、即死しないように頭ではなく肩口を狙った一撃だ。もし当たれば、死にはしなくとも、鎖骨か肩の間接骨が折れるか砕ける。
ヴァンは咄嗟に身を低くして、短剣を抜いた。刃は逆手持ちだ。
金属同士の衝突音。男の振るった戦棍の軌道に、そっと置いておくだけの短剣。押し込まない。押し込まれもしない。
摩擦音と共に、戦棍の先端が床へと落ちた。
その落下による衝撃音が止む前に、ヴァンは蟷螂の手鎌に似た動きで刃を動かし、武器を持つ男の右手甲を引っ搔いた。
「痛ぇ⁉」
その程度の痛みで武器を手放してしまう男。ヴァンは一瞬の隙を逃さず、戦棍の柄を蹴り倒して踏んだ。狼狽する男。ヴァンは、手の中で短剣を回転させて順手持ちに切り替える。
「ひっ⁉」
その男の顔面に向かって、刃を突き向けようとするヴァン。だが、男の顔があまりにも惨めで、情けなくて、ヴァンは一瞬だが躊躇した。食わないのに殺すこと、そもそも人間を殺すこと、初めての経験に戸惑ってしまった。
「こんガキゃぁっ‼」
だが男は一切の躊躇いもなく、その隙にヴァンの腹を正面から蹴り飛ばした。どれだけ鍛えていても、一瞬の隙を突かれてしまえば、体重の軽い子供は簡単に吹き飛ぶ。背中を通風孔の入り口にぶつける。
「ヴァン⁉」
ミコトが思わず声を上げた。苦悶の表情を見せるヴァン。
「ビビらせてんじゃねぇぞ、コラ!!」
ヴァンの左手首が男に掴まれた。瞬間的に、意識がそっちへ向いてしまう。
衝撃。
次の瞬間、ヴァンは鼻柱に痛みを感じる。男が肘を打ち込んでいた。
衝撃。衝撃。衝撃。
掴んで殴る。単純だが、体格差と腕力差を生かす合理的な戦闘法。
技術を殺す単純。
ヴァンは、殴られながらも、鼻柱で受けたのは最初の一撃だけに留めた。二発目からは、顎を引いて額や頬骨で受けるようにした。
空いた右手も防御に置くが、構わずその上から肘を連続で叩き込まれる。
「ヴァン! ヴァン‼」
ミコトは叫んだ。伝説の騎士ヴァルクと何合かの打ち合いに渡り合えたヴァンが、目の前でチンピラ風情にタコ殴りにされている。
今にも零れそうなほど、ミコトの目に涙が滲む。信じられなかった。
「手間、掛けさせるんじゃねぇよ、くそガキが......」
男がヴァンの手首を掴んだまま、高々と持ち上げる。鼻血を垂れ流し、目の上も腫れているが、それでもヴァンは、身を捩らせて足掻いた。刃も手放さない。
「まだ暴れるかよ。しつけぇ‼」
男の拳がヴァンの腹に入った。
ヴァンの息が詰まる。腹の奥が潰れたみたいに熱くなり、次の呼吸が入ってこない。
「やっと大人しくなったか、くそガキ」
嘔吐感に耐えるヴァン。まだ目は死んでいない。薄っすらと、目を見開く。
影が見えた。黒く大きくて、丸い。......樽?
ヴァンがそう思った直後。
木の鳴る乾いた響きの奥に、重く鈍い衝突音が混じった。
「しつけぇのは、てめぇだ‼」
崩れ落ちる男の背後には、壊れたばかりの樽の破片を握るゴーンズ・ウィリスが立っていた。肩で息をしている。
「大丈夫か、ヴァンっ!」
ヴァンは両膝を床について、何とか倒れずに言葉を絞り出した。
「ゴーンズ、......さん」
「ヴァン、ヴァン!」
ミコトも通風孔から這い出て来た。ヴァンに縋り寄る。ハンカチを取り出し、出血箇所を拭う。
「あぁ、やっぱり眼鏡の嬢ちゃんも一緒だったか。二人とも無事で良かった。」
床に倒れ伏して呻く男。まだ意識が残っている。
「こいつ、とどめ刺しとくか......」
「だめ! ゴーンズさん、殺しちゃだめです」
ハンカチを片手で押さえながら、ヴァンも口を開いた。
「そう、情報を聞き出さないと......」
「違う。そうじゃない、そうじゃないの......」
ミコトが涙目で首を振る。
「さっき、それで躊躇してやられた」
「それでも、ヴァンに人殺しになって欲しくない」
「ミコト。こいつらは犯罪者だ。殺されても文句の言えねぇ事をしてる」
「でも......」
「分かってる。殺しなんて子供がする事じゃねぇ。やるなら俺がやる。だが今は殺さねぇで、どこかに縛って閉じ込めておこう」
捕虜一名、確保。
【 同日 5:03 水晶湖 】
夜の水晶湖は、昼間に見せる透明な青さを失い、月明かりを映す黒い鏡となって学院の南側に広がっていた。
その湖面を乱すことなく、一つの人影が水面近くを泳いでいた。その視線の先には、七聖学院に高く聳え立つ星見の塔があった。
その者は、十分に校舎が見える距離まで来ると、水中へ身を沈めた。流れるように湖底へ向けて身体を傾け、そのまま深く潜っていった。
ずんぐりむっくりとした潜水服。背負った革袋から伸びた空気管が潜水兜に繋がっている。
水晶湖 はその名の通り透明度が高く、夜でも月光がかなりの深さまで届いている。頭上で揺れていた銀色の光は、潜るにつれて細く、淡くなり、やがて濃い藍色の水へ溶けていった。
その者は潜水したまま湖底を進んで行く。水底から一定の距離を保ち、身体を伸ばして進んだ。腕を大きく掻く必要はない。脚を軽く打つだけで前へ進んでいく。魚の群れが接近を察して左右へ散ったが、それ以外に動くものは見当たらなかった。
やがて湖底が緩やかに持ち上がり始め、暗闇の向こうに学院側の岸が見えてきた。その者は速度を落とし、まず水面近くまで浮上して周囲を探った。桟橋からは十分に離れている。岸にも人影はなく、学院の窓から漏れる灯りもここまでは届いていなかった。
その者は浅瀬まで水中を進み、最後の数歩だけ水を分けて岸へ上がった。
陸に上がると、途端に衣服の重さが感じられる。全身に張りついた布から水が滴り、足元の土へ黒い染みを作っていく。この状態で学院へ入れば、水滴だけで侵入経路を教えて歩くようなものだった。
その者は周囲に人の気配がないことを確かめ、濡れた潜水服を脱いでいった。
薄い月明かりに、白い肌が映える。
その下に着こんでいた衣装は、黒を基調としてはいるものの、一般的な服装とはかなり趣が違った。肩から腕は大きく露出し、胴を覆う布も胸元と腰回りを中心とした必要最小限のものしかない。脇腹から腹部にかけても肌が覗き、脚部も動きを妨げないよう太腿の大半が露わになっている。
その者は潜水用の兜を脱ぎ捨てた。
黒く艶のある長い髪が、月光の下で燕翼のように広がった。
ツバメ・クジョウ。
忍者。
ツバメは潜水服をまとめて茂みの奥へ隠し、腰帯と忍具の位置を確かめ、小刀の固定を指先で確かめる頃には、先ほどまで湖を渡っていた潜水服姿は消え、闇へ溶け込む忍者の姿だけが残っていた。
『アルフォンス。上陸したわ』
『思念結合の調子は良好ですか?』
『そうね、良好なんじゃない? それじゃ、今から忍び込むけれど、そっちから話し掛けないでね。集中が乱れるから』
『了解です。くのいち』
『その呼び方はやめて。今は抜け忍だし、あたしは忍者として行くんじゃない。今は教え子たちの為に行くの』
『そうでしたね。ミス・クジョウ』
『その呼び方されるのも、そろそろ終わりかしらね』
ツバメは学院へ向かった。
潜入作戦、開始。