第九十話 真実
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 6:15 七聖学院西側 本部天幕 】
「あの噂とは?」
「二十年前、学生時代の噂ですよ。......星見の塔」
「星見の塔、あの事件ですか......」
「はい。ハンナ・エードラ。......そして、シェリーヌ・ロダン」
クィジルは目を伏せて、哀悼の意を示した。
「あの時、月級だった我々は、先輩達の事をよく知りません」
「知っているはずですよ。ハンナは自殺、シェリーヌは失踪。......噂の通りです」
「クィジル先生、それはみんな聞いています。......ですが、学院内で失踪だなんて有り得ない。その先を教えて下さい」
「それを知ってどうしますか」
「結論から尋ねます。シェリーヌ先輩が失踪したのは、秘密の抜け道。......その中に閉じ込められた。違いますか?」
クィジルは沈黙した。深く、長く息を吐いた。
「そうですね。......おそらくあれは、餓死していました」
「去年、子供達が発見した死者の日記、あれの仕業ですか?」
「確証はありません。ですが、私個人の見解としては、シェリーヌ・ロダンはハンナに復讐されたと見ています。......しかし、よくそこまで辿り着いたものですね」
「同窓生が、三人も学院で働いているものですから」
「あぁ、彼等か......、なるほど、合点がいった。分かりました。今更、過去の不祥事を隠した所で意味はない。......抜け道があれば、そこから内部に侵入できます。今回の事件に役立てた方がいい。そういう事ですね?」
「はい。出入口は何処にありますか?」
「星見の塔一階。螺旋階段の裏側に、地下へ通じる隠し階段があります」
「その先は?」
「北側の森、そのどこかです。しかし残念ながら、土砂崩れで埋まってしまっているので、今は使えません」
「位置は分かりますか?」
「うろ覚えで良ければ、案内はできます。ですが......」
「問題ありません。我々で掘削を行います」
【 同日 6:45 七聖学院 講堂 】
魔法遮断場の領域から外れた場所。
体育用のマットが敷かれ、傍らには治療を終えたジークハルト先生と、ローティがそこで横になっている。
その傍らには、ハリエットが跪いていた。
「大自然神の娘にして、生命の守護者──豊穣の姫神よ」
祈りの言葉が紡がれる。
「生まれたばかりの苗を守る御手よ」
その両脇に仮面の男達が立ち、ハリエットの一挙手一投足を監視している。
「裂けた皮に若葉を、流れた血に春の息を、痛みの奥に、ふたたび巡る命を」
校長先生と他の生徒達は、領域境界線の内側で見守っている。
「この者の傷を、森が折れた枝を包むように癒やしたまえ」
柔らかな光に包まれたハリエットの手が、ローティの頭を優しく包む。
「──軽傷治癒」
流れ出た血は乾いたまま、戻ることは無い。切れた皮膚と血管が、微細に何度も何度も動く光の糸で、縫合するかのように結ばれていく。
それで意識の揺れまで消えるわけではない。けれど、流れ続けていた血だけは、ようやく止まった。
「治療は終わりましたか? 用が済んだなら、さっさと領域内に戻ってください」
術士幹部が、イラつきを隠さずに急かした。
ハリエットは落ち着いて答える。
「いいえ、まだ患部の血を拭き取って、それから......、栄養を与える必要があります。それに小さい子達も、みんなお腹が空いてます。そろそろ朝食にして貰えませんか?」
「あぁん? メシだぁ? 贅沢なんか言ってんじゃねぇぞ」
戦士幹部が凄む。
ハリエットは、壇上の椅子に座る男、ヴネオンへと視線を向ける。
「また泣きだされても困る。メシぐらい食わせてやれ」
ほっと息を吐いて、ハリエットは頭を下げた。
「おい、そこの飯炊き女。何人か女生徒を連れて、全員分の飯を用意しろ」
指名されたキャサリンは、毅然と立ち上がった。
「お言葉ですが、食事の用意を女性だけがするという考え方は、当学院では教えておりません」
ヴネオンは目を細めた
「......特に、家庭科の授業においては、男女の分け隔てなく、掃除、料理、洗濯、裁縫、身の周りの最低限の事を行えるように指導して参りました」
キャサリンは、寝間着の袖を一度だけ握り、それから離した。
「従って、家庭科の成績。特に料理実技の成績が良かった上位5名を連れて行きますが、宜しいでしょうか?」
「いいだろう。メシが用意できるなら何でもいい」
「ご配慮、ありがとうございます。......では、五位から呼び上げます」
キャサリンは生徒達に向き直った。
「ミシェル・シルヴァード」
「はい!」
生徒会長を務めるミシェル。誰もが当然の人選だと納得した。直ぐ隣で、マリアンナが両手を胸の前で組み、瞳を輝かせて見上げている。
「ハリス・ヤクトブレオ」
「俺か......、はい」
学年一位の秀才だ。これも誰もが納得した。ハリエットが、うなずいた。
「エイン・カローナ」
「......はい」
髪色は目立つのに、言動の目立たない娘が注目を浴びた。隣でイネヴェアが小さく拍手をしている。
「オーレリア・キルシュ」
「はいなのよぅ」
学年二位の記録魔として有名な娘だ。あれこれ手先が器用だと噂されている。これも皆が納得した。
「ウォルター・ヒギンズ」
「......え?」
まさか、という声が上がった。ウォールが、自分を指差した。
「お返事」
「......は、はい!」
「以上、五名を連れて、厨房へと向かわせて貰います」
キャサリンは寝間着姿のまま、優雅な淑女の礼をやってみせた。
【 同日 7:03 七聖学院 星見の塔 】
星見の塔。
上階の石床は、冷えていた。
石壁は夜の冷たさを抱いたまま、窓の外には、朝になりきれない空が薄く広がっている。遠くで人の声がしたような気もするけれど、ここまで届く頃には、風の音と区別がつかなくなっていた。
わたし達は、壁際に身を寄せて座っていた。何とか監視の目を掻い潜って、塔の上までやって来たけれど、徹夜で動き回っていたから、もうへとへとに疲れていた。
ルナはヴァンの膝の上で丸くなっている。時々、耳だけをぴくりと動かすけれど、鳴かない。賢い子だ。今、声を出してはいけないことを、ちゃんと分かっている。
「ゴーンズさんは、あのまま置いて来て良かったのでしょうか」
「師匠なら大丈夫だ」
ヴァンは短く言った。
「ちゃんと、あいつは縛った。口布もした。箱にも入れた」
あの箱は、ちょっと可哀想だった気もする。
「それに、師匠はうまくやる」
「信じてるんですね」
「信じてる」
ヴァンは強く言い切った。息が白くなった。
ここは学院よりも古い建物で、最新の暖房設備がない。ボイラー室から流れて来る温かい空気も、ここまで届かない。
「寒くないか」
ヴァンが小さな声で聞いた。
「少しだけ」
「こっち」
ヴァンは迷わず、自分の外套の端をわたしの肩に掛けてくれた。
「あ、でもこれじゃ、ヴァンが寒くなっちゃいます」
「おれは平気」
「平気じゃない時も、きみはそう言います」
「じゃあ、少し寒い」
正直でよろしい。
そう思ったら、こんな状況なのに、少しだけ笑ってしまった。
「何だよ」
「いいえ。ヴァンらしいなと思って」
「おれらしいって、何だ」
「本当は優しいのに、素直じゃないところ」
「優しくなんか、ない」
ヴァンは、顔を背けた。
暗がりでも、耳が少し赤くなったのが分かった。
こんな時なのに、反応が可愛いなと思ってしまう。
「ふふ......、ツンですねえ」
「何だそれ。......というか、ミコトも変だ」
「わたしですか?」
「こんな時に笑う」
「思わず顔が......」
「怖くないのか」
「怖いです」
嘘はつけなかった。
怖い。怖くて、手の先が少し冷たい。外で何が起きているか分からないことも、ヴァンが怪我をして、血を流したことも、すべて。今の全部が怖い。
「でも、ヴァンがいるので」
「おれがいても、守れない時もある。さっきとか...」
「それでも、です」
ヴァンは膝の上のルナを撫でた。ルナは目を閉じたまま、喉の奥で小さく鳴った。
「冬の間、一緒に暮らしたの、楽しかったですね」
「急に何だ」
「思い出したんです。アルフォンス先生のお家」
暖炉。薪。灰。黒麦麺。ルナのお皿。つばめ先生のお茶。ヴァンが割った薪を運んで、わたしが暖炉にくべたこと。洗濯物を干す時、冷たい布で指先がかじかんだこと。朝、窓の外が白くなっていて、ルナが変な顔をしていたこと。
あの家は、わたしにとって、この世界で初めての冬の家だった。
「掃除も、洗濯も、料理も。薪をくべるのも、灰を集めるのも、ルナのお世話も。全部、楽しかったです」
「全部か」
「はい」
「薪割りは、そんなに楽しくない」
「でも、毎日やってくれました」
「必要だったから」
「それでも、嬉しかったです」
ヴァンは少しだけ顔を背けた。
「また、やりたいです」
「薪割りを?」
「それもです。掃除も、料理も、ルナのお世話も。また一緒にやりたいです」
「......普通のことばっかりだな」
「うん。普通のことがいいです」
戦うことでも、逃げることでも、誰かを助けるために走ることでもない。
朝起きて、火を入れて、食事を作って、勉強して、少し喧嘩して、また仲直りして、夜になったら眠る。そんな、何でもない一日。
「爺ちゃん......」
「ヴァン?」
「ううん、何でもない。ちょっと思い出しただけ......、おれの家族」
「家族? ヴァルクさん?」
「兄貴とはまた違う。その前の家族。......普通のことばっかりの、家族」
「家族......」
「ミコトの家族は、どうしてる?」
「わたしの家族は......」
女神様からは、元の世界には戻れないと聞いていた。
ヴァンの手を握りたくなったけれど、自分で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
「......もう会えません」
「そうか......」
それから少しの間、何も言わなかった。
わたしはヴァンの横顔を見た。煤や埃が少しついている。頬に薄い擦り傷もある。それでも、わたしにとっては、誰よりも見慣れた顔だった。
「ヴァン」
「何だ」
「わたし、ずっと思っていたんです」
「何を」
わたしは、ゆっくり息を吸った。
この世界に来た日。何も分からず、湖に落ちた日。
何も分からないまま、そのまま死にそうだった時。
「わたしを最初に見つけてくれたのが、ヴァンで良かったです。ありがとう、ヴァン」
ヴァンは、すぐには答えなかった。
ただ、わたしの肩に掛けられていた外套の端を、少しだけ握り直した。
「おれで、よかったのか」
「はい」
「本当に?」
「うん。大好きです」
ヴァンは真っ赤になって顔を伏せた。
膝の上のルナが、片目だけ開けて、ヴァンを見上げる。
「......なら、よかった」
声が、小さかった。
強くなろうとしている男の子が、今だけは迷子の子犬みたいに見えた。
わたしはそっと手を伸ばした。ヴァンの髪に触れる。少し乱れていた髪を、指先で整える。
ちょっと、ごわごわしてる。いつか髪を洗ってあげないと。
「子供扱いしてる」
「少しだけ」
「おれは子供じゃない」
「ふふ、そうですね。知っています」
「じゃあ、何で撫でる」
「撫でたくなりました」
「......そうか」
ヴァンは文句を言いかけたように見えた。
けれど、言わなかった。
むしろ、少しだけ頭をこちらへ預けてくる。
ああ。
やっぱり子犬だ。
「ミコト」
そう言って、ヴァンはさらに少し近付いた。
近い。
本当に近い。
肩と肩が触れて、膝の上のルナが少し迷惑そうに身じろぎした。ヴァンはわたしの顔を見て、それから目を逸らして、また見た。
「ミコト」
「はい」
ヴァンが、わたしの肩に頭を乗せた。
「ヴァン?」
「少し、目を閉じてもいいか?」
胸の奥が、静かに熱くなった。
外では、学院が襲われている。みんなが捕まっている。わたし達も、いつ見つかるか分からない。それに、まだちょっと恥ずかしい。
でも。
「いいですよ」
言ってしまった。
「怪我もしてるんです。少しは寝てください」
「じゃあ、少し寝るかもしれない」
「うん」
ルナが、ヴァンの膝から降りた。
床に前足をついて、伸びをして、それからなぜか、わたしの方へやって来る。
「ルナ?」
恐る恐る手を伸ばすと、ルナは逃げなかった。むしろ、頭をわたしの掌に押し付けてきた。
柔らかい。
温かい。
「......認められたな」
「え? 何に?」
「ルナに」
ヴァンが少しだけ得意そうに言った。
ルナは、わたしの膝に前足を掛け、当然のような顔で丸くなろうとする。ヴァンがその背を撫でると、ルナは小さく喉を鳴らした。
ゆっくりと時間が流れた。
どこかで朝の小鳥が鳴いていた。
「ヴァン、寝た?」
「ううん、起きてる」
「寝てください」
「眠れない」
「困りましたね。......何か、お話でもしましょうか」
「うん」
わたしは天窓の方を見上げた。
ゆっくりと太陽光の入って来る角度が変わって行く。
明る過ぎる空。星は見えない。
「......もし」
「もし?」
「わたしが、またどこかへ迷子になったら」
ヴァンの腕が、少しだけ強くなった。
「また、見つけてくれますか?」
「迷子にさせない」
わたしは笑った。
「もしもの話です。また、見つけてね」
「分かった。見つける」
わたしは、また笑った。
素直に嬉しかった。
「どこにいても?」
「どこにいても」
「本当に?」
「本当に」
わたしは、ヴァンの服を少しだけ握った。
ヴァンならきっと、いや、本当に見つけてくれる。
「約束ですよ」
「ああ」
その返事を聞いて、安心してしまったのだと思う。
緊張が少し緩んだ。
体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと浮かび上がってくる。ヴァンの腕は温かく、ルナの体も温かかった。
目を閉じる。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
そう思った。
いつ眠ったのか、分からなかった。
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──。
不穏な気配に、目が覚めた。
ヴァンが片膝立ちになって、わたしの口元を手で押さえていた。
「静かに。誰か来る」