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第九十話  真実

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 6:15 七聖学院西側 本部天幕 】

「あの噂とは?」

「二十年前、学生時代の噂ですよ。......星見の塔」

「星見の塔、あの事件ですか......」

「はい。ハンナ・エードラ。......そして、シェリーヌ・ロダン」

 クィジルは目を伏せて、哀悼の意を示した。

「あの時、月級モント・クラスだった我々は、先輩達の事をよく知りません」

「知っているはずですよ。ハンナは自殺、シェリーヌは失踪。......噂の通りです」

「クィジル先生、それはみんな聞いています。......ですが、学院内で失踪だなんて有り得ない。その先を教えて下さい」

「それを知ってどうしますか」

「結論から尋ねます。シェリーヌ先輩が失踪したのは、秘密の抜け道。......その中に閉じ込められた。違いますか?」

 クィジルは沈黙した。深く、長く息を吐いた。

「そうですね。......おそらくあれは、餓死していました」

「去年、子供達が発見した死者の日記デッドマンズ・バイブル、あれの仕業ですか?」

「確証はありません。ですが、私個人の見解としては、シェリーヌ・ロダンはハンナに復讐されたと見ています。......しかし、よくそこまで辿り着いたものですね」

「同窓生が、三人も学院で働いているものですから」

「あぁ、彼等か......、なるほど、合点がいった。分かりました。今更、過去の不祥事を隠した所で意味はない。......抜け道があれば、そこから内部に侵入できます。今回の事件に役立てた方がいい。そういう事ですね?」

「はい。出入口は何処にありますか?」

「星見の塔一階。螺旋階段の裏側に、地下へ通じる隠し階段があります」

「その先は?」

「北側の森、そのどこかです。しかし残念ながら、土砂崩れで埋まってしまっているので、今は使えません」

「位置は分かりますか?」

「うろ覚えで良ければ、案内はできます。ですが......」

「問題ありません。我々で掘削を行います」


【 同日 6:45 七聖学院 講堂 】

 魔法遮断場アンチマギーフェルトの領域から外れた場所。

 体育用のマットが敷かれ、傍らには治療を終えたジークハルト先生と、ローティがそこで横になっている。

 その傍らには、ハリエットが跪ひざまずいていた。

「大自然神ネイジャスの娘にして、生命の守護者──豊穣の姫神ナジカよ」

 祈りの言葉が紡がれる。

「生まれたばかりの苗を守る御手よ」

 その両脇に仮面の男達が立ち、ハリエットの一挙手一投足を監視している。
 
「裂けた皮に若葉を、流れた血に春の息を、痛みの奥に、ふたたび巡る命を」

 校長先生と他の生徒達は、領域境界線の内側で見守っている。

「この者の傷を、森が折れた枝を包むように癒やしたまえ」

 柔らかな光に包まれたハリエットの手が、ローティの頭を優しく包む。
 
「──軽傷治癒キュア・クライナー」

 流れ出た血は乾いたまま、戻ることは無い。切れた皮膚と血管が、微細に何度も何度も動く光の糸で、縫合するかのように結ばれていく。

 それで意識の揺れまで消えるわけではない。けれど、流れ続けていた血だけは、ようやく止まった。

「治療は終わりましたか? 用が済んだなら、さっさと領域内に戻ってください」

 術士幹部が、イラつきを隠さずに急かした。

 ハリエットは落ち着いて答える。

「いいえ、まだ患部の血を拭き取って、それから......、栄養を与える必要があります。それに小さい子達も、みんなお腹が空いてます。そろそろ朝食にして貰えませんか?」

「あぁん? メシだぁ? 贅沢なんか言ってんじゃねぇぞ」

 戦士幹部が凄む。

 ハリエットは、壇上の椅子に座る男、ヴネオンへと視線を向ける。

「また泣きだされても困る。メシぐらい食わせてやれ」

 ほっと息を吐いて、ハリエットは頭を下げた。
 
「おい、そこの飯炊き女。何人か女生徒を連れて、全員分の飯を用意しろ」

 指名されたキャサリンは、毅然と立ち上がった。

「お言葉ですが、食事の用意を女性だけがするという考え方は、当学院では教えておりません」

 ヴネオンは目を細めた

「......特に、家庭科の授業においては、男女の分け隔てなく、掃除、料理、洗濯、裁縫、身の周りの最低限の事を行えるように指導して参りました」

 キャサリンは、寝間着の袖を一度だけ握り、それから離した。

「従って、家庭科の成績。特に料理実技の成績が良かった上位5名を連れて行きますが、宜しいでしょうか?」

「いいだろう。メシが用意できるなら何でもいい」

「ご配慮、ありがとうございます。......では、五位から呼び上げます」

 キャサリンは生徒達に向き直った。

「ミシェル・シルヴァード」

「はい!」

 生徒会長を務めるミシェル。誰もが当然の人選だと納得した。直ぐ隣で、マリアンナが両手を胸の前で組み、瞳を輝かせて見上げている。

「ハリス・ヤクトブレオ」

「俺か......、はい」

 学年一位の秀才だ。これも誰もが納得した。ハリエットが、うなずいた。

「エイン・カローナ」

「......はい」

 髪色は目立つのに、言動の目立たない娘が注目を浴びた。隣でイネヴェアが小さく拍手をしている。

「オーレリア・キルシュ」

「はいなのよぅ」

 学年二位の記録魔として有名な娘だ。あれこれ手先が器用だと噂されている。これも皆が納得した。

「ウォルター・ヒギンズ」

「......え?」

 まさか、という声が上がった。ウォールが、自分を指差した。

「お返事」

「......は、はい!」

「以上、五名を連れて、厨房へと向かわせて貰います」

 キャサリンは寝間着姿のまま、優雅な淑女の礼をやってみせた。


【 同日 7:03 七聖学院 星見の塔 】

 星見の塔。

 上階の石床は、冷えていた。

 石壁は夜の冷たさを抱いたまま、窓の外には、朝になりきれない空が薄く広がっている。遠くで人の声がしたような気もするけれど、ここまで届く頃には、風の音と区別がつかなくなっていた。

 わたし達は、壁際に身を寄せて座っていた。何とか監視の目を掻い潜って、塔の上までやって来たけれど、徹夜で動き回っていたから、もうへとへとに疲れていた。

 ルナはヴァンの膝の上で丸くなっている。時々、耳だけをぴくりと動かすけれど、鳴かない。賢い子だ。今、声を出してはいけないことを、ちゃんと分かっている。

「ゴーンズさんは、あのまま置いて来て良かったのでしょうか」

「師匠なら大丈夫だ」

 ヴァンは短く言った。

「ちゃんと、あいつは縛った。口布もした。箱にも入れた」

 あの箱は、ちょっと可哀想だった気もする。

「それに、師匠はうまくやる」

「信じてるんですね」

「信じてる」

 ヴァンは強く言い切った。息が白くなった。

 ここは学院よりも古い建物で、最新の暖房設備がない。ボイラー室から流れて来る温かい空気も、ここまで届かない。

「寒くないか」

 ヴァンが小さな声で聞いた。

「少しだけ」

「こっち」

 ヴァンは迷わず、自分の外套の端をわたしの肩に掛けてくれた。

「あ、でもこれじゃ、ヴァンが寒くなっちゃいます」

「おれは平気」

「平気じゃない時も、きみはそう言います」

「じゃあ、少し寒い」

 正直でよろしい。

 そう思ったら、こんな状況なのに、少しだけ笑ってしまった。

「何だよ」

「いいえ。ヴァンらしいなと思って」

「おれらしいって、何だ」

「本当は優しいのに、素直じゃないところ」

「優しくなんか、ない」

 ヴァンは、顔を背けた。

 暗がりでも、耳が少し赤くなったのが分かった。

 こんな時なのに、反応が可愛いなと思ってしまう。

「ふふ......、ツンですねえ」

「何だそれ。......というか、ミコトも変だ」

「わたしですか?」

「こんな時に笑う」

「思わず顔が......」

「怖くないのか」

「怖いです」

 嘘はつけなかった。

 怖い。怖くて、手の先が少し冷たい。外で何が起きているか分からないことも、ヴァンが怪我をして、血を流したことも、すべて。今の全部が怖い。

「でも、ヴァンがいるので」

「おれがいても、守れない時もある。さっきとか...」

「それでも、です」

 ヴァンは膝の上のルナを撫でた。ルナは目を閉じたまま、喉の奥で小さく鳴った。

「冬の間、一緒に暮らしたの、楽しかったですね」

「急に何だ」

「思い出したんです。アルフォンス先生のお家」

 暖炉。薪。灰。黒麦麺。ルナのお皿。つばめ先生のお茶。ヴァンが割った薪を運んで、わたしが暖炉にくべたこと。洗濯物を干す時、冷たい布で指先がかじかんだこと。朝、窓の外が白くなっていて、ルナが変な顔をしていたこと。

 あの家は、わたしにとって、この世界で初めての冬の家だった。

「掃除も、洗濯も、料理も。薪をくべるのも、灰を集めるのも、ルナのお世話も。全部、楽しかったです」

「全部か」

「はい」

「薪割りは、そんなに楽しくない」

「でも、毎日やってくれました」

「必要だったから」

「それでも、嬉しかったです」

 ヴァンは少しだけ顔を背けた。

「また、やりたいです」

「薪割りを?」

「それもです。掃除も、料理も、ルナのお世話も。また一緒にやりたいです」

「......普通のことばっかりだな」

「うん。普通のことがいいです」

 戦うことでも、逃げることでも、誰かを助けるために走ることでもない。

 朝起きて、火を入れて、食事を作って、勉強して、少し喧嘩して、また仲直りして、夜になったら眠る。そんな、何でもない一日。

「爺ちゃん......」

「ヴァン?」

「ううん、何でもない。ちょっと思い出しただけ......、おれの家族」

「家族? ヴァルクさん?」

「兄貴とはまた違う。その前の家族。......普通のことばっかりの、家族」

「家族......」

「ミコトの家族は、どうしてる?」

「わたしの家族は......」

 女神様からは、元の世界には戻れないと聞いていた。

 ヴァンの手を握りたくなったけれど、自分で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。

「......もう会えません」

「そうか......」

 それから少しの間、何も言わなかった。

 わたしはヴァンの横顔を見た。煤や埃が少しついている。頬に薄い擦り傷もある。それでも、わたしにとっては、誰よりも見慣れた顔だった。

「ヴァン」

「何だ」

「わたし、ずっと思っていたんです」

「何を」

 わたしは、ゆっくり息を吸った。

 この世界に来た日。何も分からず、湖に落ちた日。

 何も分からないまま、そのまま死にそうだった時。 

「わたしを最初に見つけてくれたのが、ヴァンで良かったです。ありがとう、ヴァン」

 ヴァンは、すぐには答えなかった。

 ただ、わたしの肩に掛けられていた外套の端を、少しだけ握り直した。

「おれで、よかったのか」

「はい」

「本当に?」

「うん。大好きです」

 ヴァンは真っ赤になって顔を伏せた。

 膝の上のルナが、片目だけ開けて、ヴァンを見上げる。

「......なら、よかった」

 声が、小さかった。

 強くなろうとしている男の子が、今だけは迷子の子犬みたいに見えた。

 わたしはそっと手を伸ばした。ヴァンの髪に触れる。少し乱れていた髪を、指先で整える。

 ちょっと、ごわごわしてる。いつか髪を洗ってあげないと。

「子供扱いしてる」

「少しだけ」

「おれは子供じゃない」

「ふふ、そうですね。知っています」

「じゃあ、何で撫でる」

「撫でたくなりました」

「......そうか」

 ヴァンは文句を言いかけたように見えた。

 けれど、言わなかった。

 むしろ、少しだけ頭をこちらへ預けてくる。

 ああ。

 やっぱり子犬だ。

「ミコト」

 そう言って、ヴァンはさらに少し近付いた。

 近い。

 本当に近い。

 肩と肩が触れて、膝の上のルナが少し迷惑そうに身じろぎした。ヴァンはわたしの顔を見て、それから目を逸らして、また見た。

「ミコト」

「はい」

 ヴァンが、わたしの肩に頭を乗せた。

「ヴァン?」

「少し、目を閉じてもいいか?」

 胸の奥が、静かに熱くなった。

 外では、学院が襲われている。みんなが捕まっている。わたし達も、いつ見つかるか分からない。それに、まだちょっと恥ずかしい。

 でも。

「いいですよ」

 言ってしまった。

「怪我もしてるんです。少しは寝てください」

「じゃあ、少し寝るかもしれない」

「うん」

 ルナが、ヴァンの膝から降りた。

 床に前足をついて、伸びをして、それからなぜか、わたしの方へやって来る。

「ルナ?」

 恐る恐る手を伸ばすと、ルナは逃げなかった。むしろ、頭をわたしの掌に押し付けてきた。

 柔らかい。

 温かい。

「......認められたな」

「え? 何に?」

「ルナに」

 ヴァンが少しだけ得意そうに言った。

 ルナは、わたしの膝に前足を掛け、当然のような顔で丸くなろうとする。ヴァンがその背を撫でると、ルナは小さく喉を鳴らした。

 ゆっくりと時間が流れた。

 どこかで朝の小鳥が鳴いていた。

「ヴァン、寝た?」

「ううん、起きてる」

「寝てください」

「眠れない」

「困りましたね。......何か、お話でもしましょうか」

「うん」

 わたしは天窓の方を見上げた。

 ゆっくりと太陽光の入って来る角度が変わって行く。

 明る過ぎる空。星は見えない。

「......もし」

「もし?」

「わたしが、またどこかへ迷子になったら」

 ヴァンの腕が、少しだけ強くなった。

「また、見つけてくれますか?」

「迷子にさせない」

 わたしは笑った。

「もしもの話です。また、見つけてね」

「分かった。見つける」

 わたしは、また笑った。

 素直に嬉しかった。

「どこにいても?」

「どこにいても」

「本当に?」

「本当に」

 わたしは、ヴァンの服を少しだけ握った。

 ヴァンならきっと、いや、本当に見つけてくれる。

「約束ですよ」

「ああ」

 その返事を聞いて、安心してしまったのだと思う。

 緊張が少し緩んだ。

 体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと浮かび上がってくる。ヴァンの腕は温かく、ルナの体も温かかった。

 目を閉じる。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 そう思った。

 いつ眠ったのか、分からなかった。

 ──────────。

 ──────。

 ────。

 ──。

 不穏な気配に、目が覚めた。

 ヴァンが片膝立ちになって、わたしの口元を手で押さえていた。

「静かに。誰か来る」
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第九十話  真実

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 6:15 七聖学院西側 本部天幕 】

「あの噂とは?」

「二十年前、学生時代の噂ですよ。......星見の塔」

「星見の塔、あの事件ですか......」

「はい。ハンナ・エードラ。......そして、シェリーヌ・ロダン」

 クィジルは目を伏せて、哀悼の意を示した。

「あの時、月級モント・クラスだった我々は、先輩達の事をよく知りません」

「知っているはずですよ。ハンナは自殺、シェリーヌは失踪。......噂の通りです」

「クィジル先生、それはみんな聞いています。......ですが、学院内で失踪だなんて有り得ない。その先を教えて下さい」

「それを知ってどうしますか」

「結論から尋ねます。シェリーヌ先輩が失踪したのは、秘密の抜け道。......その中に閉じ込められた。違いますか?」

 クィジルは沈黙した。深く、長く息を吐いた。

「そうですね。......おそらくあれは、餓死していました」

「去年、子供達が発見した死者の日記デッドマンズ・バイブル、あれの仕業ですか?」

「確証はありません。ですが、私個人の見解としては、シェリーヌ・ロダンはハンナに復讐されたと見ています。......しかし、よくそこまで辿り着いたものですね」

「同窓生が、三人も学院で働いているものですから」

「あぁ、彼等か......、なるほど、合点がいった。分かりました。今更、過去の不祥事を隠した所で意味はない。......抜け道があれば、そこから内部に侵入できます。今回の事件に役立てた方がいい。そういう事ですね?」

「はい。出入口は何処にありますか?」

「星見の塔一階。螺旋階段の裏側に、地下へ通じる隠し階段があります」

「その先は?」

「北側の森、そのどこかです。しかし残念ながら、土砂崩れで埋まってしまっているので、今は使えません」

「位置は分かりますか?」

「うろ覚えで良ければ、案内はできます。ですが......」

「問題ありません。我々で掘削を行います」


【 同日 6:45 七聖学院 講堂 】

 魔法遮断場アンチマギーフェルトの領域から外れた場所。

 体育用のマットが敷かれ、傍らには治療を終えたジークハルト先生と、ローティがそこで横になっている。

 その傍らには、ハリエットが跪ひざまずいていた。

「大自然神ネイジャスの娘にして、生命の守護者──豊穣の姫神ナジカよ」

 祈りの言葉が紡がれる。

「生まれたばかりの苗を守る御手よ」

 その両脇に仮面の男達が立ち、ハリエットの一挙手一投足を監視している。
 
「裂けた皮に若葉を、流れた血に春の息を、痛みの奥に、ふたたび巡る命を」

 校長先生と他の生徒達は、領域境界線の内側で見守っている。

「この者の傷を、森が折れた枝を包むように癒やしたまえ」

 柔らかな光に包まれたハリエットの手が、ローティの頭を優しく包む。
 
「──軽傷治癒キュア・クライナー」

 流れ出た血は乾いたまま、戻ることは無い。切れた皮膚と血管が、微細に何度も何度も動く光の糸で、縫合するかのように結ばれていく。

 それで意識の揺れまで消えるわけではない。けれど、流れ続けていた血だけは、ようやく止まった。

「治療は終わりましたか? 用が済んだなら、さっさと領域内に戻ってください」

 術士幹部が、イラつきを隠さずに急かした。

 ハリエットは落ち着いて答える。

「いいえ、まだ患部の血を拭き取って、それから......、栄養を与える必要があります。それに小さい子達も、みんなお腹が空いてます。そろそろ朝食にして貰えませんか?」

「あぁん? メシだぁ? 贅沢なんか言ってんじゃねぇぞ」

 戦士幹部が凄む。

 ハリエットは、壇上の椅子に座る男、ヴネオンへと視線を向ける。

「また泣きだされても困る。メシぐらい食わせてやれ」

 ほっと息を吐いて、ハリエットは頭を下げた。
 
「おい、そこの飯炊き女。何人か女生徒を連れて、全員分の飯を用意しろ」

 指名されたキャサリンは、毅然と立ち上がった。

「お言葉ですが、食事の用意を女性だけがするという考え方は、当学院では教えておりません」

 ヴネオンは目を細めた

「......特に、家庭科の授業においては、男女の分け隔てなく、掃除、料理、洗濯、裁縫、身の周りの最低限の事を行えるように指導して参りました」

 キャサリンは、寝間着の袖を一度だけ握り、それから離した。

「従って、家庭科の成績。特に料理実技の成績が良かった上位5名を連れて行きますが、宜しいでしょうか?」

「いいだろう。メシが用意できるなら何でもいい」

「ご配慮、ありがとうございます。......では、五位から呼び上げます」

 キャサリンは生徒達に向き直った。

「ミシェル・シルヴァード」

「はい!」

 生徒会長を務めるミシェル。誰もが当然の人選だと納得した。直ぐ隣で、マリアンナが両手を胸の前で組み、瞳を輝かせて見上げている。

「ハリス・ヤクトブレオ」

「俺か......、はい」

 学年一位の秀才だ。これも誰もが納得した。ハリエットが、うなずいた。

「エイン・カローナ」

「......はい」

 髪色は目立つのに、言動の目立たない娘が注目を浴びた。隣でイネヴェアが小さく拍手をしている。

「オーレリア・キルシュ」

「はいなのよぅ」

 学年二位の記録魔として有名な娘だ。あれこれ手先が器用だと噂されている。これも皆が納得した。

「ウォルター・ヒギンズ」

「......え?」

 まさか、という声が上がった。ウォールが、自分を指差した。

「お返事」

「......は、はい!」

「以上、五名を連れて、厨房へと向かわせて貰います」

 キャサリンは寝間着姿のまま、優雅な淑女の礼をやってみせた。


【 同日 7:03 七聖学院 星見の塔 】

 星見の塔。

 上階の石床は、冷えていた。

 石壁は夜の冷たさを抱いたまま、窓の外には、朝になりきれない空が薄く広がっている。遠くで人の声がしたような気もするけれど、ここまで届く頃には、風の音と区別がつかなくなっていた。

 わたし達は、壁際に身を寄せて座っていた。何とか監視の目を掻い潜って、塔の上までやって来たけれど、徹夜で動き回っていたから、もうへとへとに疲れていた。

 ルナはヴァンの膝の上で丸くなっている。時々、耳だけをぴくりと動かすけれど、鳴かない。賢い子だ。今、声を出してはいけないことを、ちゃんと分かっている。

「ゴーンズさんは、あのまま置いて来て良かったのでしょうか」

「師匠なら大丈夫だ」

 ヴァンは短く言った。

「ちゃんと、あいつは縛った。口布もした。箱にも入れた」

 あの箱は、ちょっと可哀想だった気もする。

「それに、師匠はうまくやる」

「信じてるんですね」

「信じてる」

 ヴァンは強く言い切った。息が白くなった。

 ここは学院よりも古い建物で、最新の暖房設備がない。ボイラー室から流れて来る温かい空気も、ここまで届かない。

「寒くないか」

 ヴァンが小さな声で聞いた。

「少しだけ」

「こっち」

 ヴァンは迷わず、自分の外套の端をわたしの肩に掛けてくれた。

「あ、でもこれじゃ、ヴァンが寒くなっちゃいます」

「おれは平気」

「平気じゃない時も、きみはそう言います」

「じゃあ、少し寒い」

 正直でよろしい。

 そう思ったら、こんな状況なのに、少しだけ笑ってしまった。

「何だよ」

「いいえ。ヴァンらしいなと思って」

「おれらしいって、何だ」

「本当は優しいのに、素直じゃないところ」

「優しくなんか、ない」

 ヴァンは、顔を背けた。

 暗がりでも、耳が少し赤くなったのが分かった。

 こんな時なのに、反応が可愛いなと思ってしまう。

「ふふ......、ツンですねえ」

「何だそれ。......というか、ミコトも変だ」

「わたしですか?」

「こんな時に笑う」

「思わず顔が......」

「怖くないのか」

「怖いです」

 嘘はつけなかった。

 怖い。怖くて、手の先が少し冷たい。外で何が起きているか分からないことも、ヴァンが怪我をして、血を流したことも、すべて。今の全部が怖い。

「でも、ヴァンがいるので」

「おれがいても、守れない時もある。さっきとか...」

「それでも、です」

 ヴァンは膝の上のルナを撫でた。ルナは目を閉じたまま、喉の奥で小さく鳴った。

「冬の間、一緒に暮らしたの、楽しかったですね」

「急に何だ」

「思い出したんです。アルフォンス先生のお家」

 暖炉。薪。灰。黒麦麺。ルナのお皿。つばめ先生のお茶。ヴァンが割った薪を運んで、わたしが暖炉にくべたこと。洗濯物を干す時、冷たい布で指先がかじかんだこと。朝、窓の外が白くなっていて、ルナが変な顔をしていたこと。

 あの家は、わたしにとって、この世界で初めての冬の家だった。

「掃除も、洗濯も、料理も。薪をくべるのも、灰を集めるのも、ルナのお世話も。全部、楽しかったです」

「全部か」

「はい」

「薪割りは、そんなに楽しくない」

「でも、毎日やってくれました」

「必要だったから」

「それでも、嬉しかったです」

 ヴァンは少しだけ顔を背けた。

「また、やりたいです」

「薪割りを?」

「それもです。掃除も、料理も、ルナのお世話も。また一緒にやりたいです」

「......普通のことばっかりだな」

「うん。普通のことがいいです」

 戦うことでも、逃げることでも、誰かを助けるために走ることでもない。

 朝起きて、火を入れて、食事を作って、勉強して、少し喧嘩して、また仲直りして、夜になったら眠る。そんな、何でもない一日。

「爺ちゃん......」

「ヴァン?」

「ううん、何でもない。ちょっと思い出しただけ......、おれの家族」

「家族? ヴァルクさん?」

「兄貴とはまた違う。その前の家族。......普通のことばっかりの、家族」

「家族......」

「ミコトの家族は、どうしてる?」

「わたしの家族は......」

 女神様からは、元の世界には戻れないと聞いていた。

 ヴァンの手を握りたくなったけれど、自分で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。

「......もう会えません」

「そうか......」

 それから少しの間、何も言わなかった。

 わたしはヴァンの横顔を見た。煤や埃が少しついている。頬に薄い擦り傷もある。それでも、わたしにとっては、誰よりも見慣れた顔だった。

「ヴァン」

「何だ」

「わたし、ずっと思っていたんです」

「何を」

 わたしは、ゆっくり息を吸った。

 この世界に来た日。何も分からず、湖に落ちた日。

 何も分からないまま、そのまま死にそうだった時。 

「わたしを最初に見つけてくれたのが、ヴァンで良かったです。ありがとう、ヴァン」

 ヴァンは、すぐには答えなかった。

 ただ、わたしの肩に掛けられていた外套の端を、少しだけ握り直した。

「おれで、よかったのか」

「はい」

「本当に?」

「うん。大好きです」

 ヴァンは真っ赤になって顔を伏せた。

 膝の上のルナが、片目だけ開けて、ヴァンを見上げる。

「......なら、よかった」

 声が、小さかった。

 強くなろうとしている男の子が、今だけは迷子の子犬みたいに見えた。

 わたしはそっと手を伸ばした。ヴァンの髪に触れる。少し乱れていた髪を、指先で整える。

 ちょっと、ごわごわしてる。いつか髪を洗ってあげないと。

「子供扱いしてる」

「少しだけ」

「おれは子供じゃない」

「ふふ、そうですね。知っています」

「じゃあ、何で撫でる」

「撫でたくなりました」

「......そうか」

 ヴァンは文句を言いかけたように見えた。

 けれど、言わなかった。

 むしろ、少しだけ頭をこちらへ預けてくる。

 ああ。

 やっぱり子犬だ。

「ミコト」

 そう言って、ヴァンはさらに少し近付いた。

 近い。

 本当に近い。

 肩と肩が触れて、膝の上のルナが少し迷惑そうに身じろぎした。ヴァンはわたしの顔を見て、それから目を逸らして、また見た。

「ミコト」

「はい」

 ヴァンが、わたしの肩に頭を乗せた。

「ヴァン?」

「少し、目を閉じてもいいか?」

 胸の奥が、静かに熱くなった。

 外では、学院が襲われている。みんなが捕まっている。わたし達も、いつ見つかるか分からない。それに、まだちょっと恥ずかしい。

 でも。

「いいですよ」

 言ってしまった。

「怪我もしてるんです。少しは寝てください」

「じゃあ、少し寝るかもしれない」

「うん」

 ルナが、ヴァンの膝から降りた。

 床に前足をついて、伸びをして、それからなぜか、わたしの方へやって来る。

「ルナ?」

 恐る恐る手を伸ばすと、ルナは逃げなかった。むしろ、頭をわたしの掌に押し付けてきた。

 柔らかい。

 温かい。

「......認められたな」

「え? 何に?」

「ルナに」

 ヴァンが少しだけ得意そうに言った。

 ルナは、わたしの膝に前足を掛け、当然のような顔で丸くなろうとする。ヴァンがその背を撫でると、ルナは小さく喉を鳴らした。

 ゆっくりと時間が流れた。

 どこかで朝の小鳥が鳴いていた。

「ヴァン、寝た?」

「ううん、起きてる」

「寝てください」

「眠れない」

「困りましたね。......何か、お話でもしましょうか」

「うん」

 わたしは天窓の方を見上げた。

 ゆっくりと太陽光の入って来る角度が変わって行く。

 明る過ぎる空。星は見えない。

「......もし」

「もし?」

「わたしが、またどこかへ迷子になったら」

 ヴァンの腕が、少しだけ強くなった。

「また、見つけてくれますか?」

「迷子にさせない」

 わたしは笑った。

「もしもの話です。また、見つけてね」

「分かった。見つける」

 わたしは、また笑った。

 素直に嬉しかった。

「どこにいても?」

「どこにいても」

「本当に?」

「本当に」

 わたしは、ヴァンの服を少しだけ握った。

 ヴァンならきっと、いや、本当に見つけてくれる。

「約束ですよ」

「ああ」

 その返事を聞いて、安心してしまったのだと思う。

 緊張が少し緩んだ。

 体の奥に溜まっていた疲れが、ゆっくりと浮かび上がってくる。ヴァンの腕は温かく、ルナの体も温かかった。

 目を閉じる。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 そう思った。

 いつ眠ったのか、分からなかった。

 ──────────。

 ──────。

 ────。

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 不穏な気配に、目が覚めた。

 ヴァンが片膝立ちになって、わたしの口元を手で押さえていた。

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