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第九十一話 仕込み

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 10:32 星見の塔 】

 気配が迫っている。

 ミコトが入り口の方を見ている。

「違う。そっちじゃない」

 おれは部屋のあちこちを見回す。

 大望遠鏡が設置してあったはずの台。丸くて大きな天窓。壁。......壁の外?

「壁の外? まさか......」

「え? だってここ、五階ぐらいの高さあるよね?」

 おれはミコトに台の陰へ行くように手で合図して、ルナも差し出した。

「......あ、うん。分かった」

 ミコトはルナを抱きかかえて、細い支柱の陰に隠れた。完全に隠れるには頼りないが、何もないより少しはマシだ。おれも短剣ダガーを抜いて、別の支柱の陰に隠れる。

 天窓の外に人影が見えた。

 硬質な金属の音。

 窓の隙間から刃が差し込まれている。外れた錠が床に落ちた。

 ミコトの肩が跳ねた。ルナの耳がピンと立った。

 誰かが侵入してきた。おれは機先を制するために、着地の瞬間を狙って飛び出した。

 黒い装束。顔にはお面。

 敵だ。

 今度は迷わない。殺さずに無力化できる場所を狙う。太腿だ。

 ん? こいつ、太腿がむきだしだぞ?

 そう思った直後、手首が掴まれた。引き込まれる。

 やばい。おれは突き出した腕を戻す。

 ──え?
 
 おれの身体が宙を舞っていた。

 多分、関節の逆をとられた。戻すタイミングで、力も利用された。

 こいつ、巧い。

 衝撃。石床の硬い感触。

「うっ」

 おれは相手の顔を見た。

 天窓から差し込んで来る陽を背に、耳のあるお面がのぞき込んでいる。

 ん。......耳?

「ちょっと、ヴァン。いきなり危ないじゃない」
 
 聞き覚えのある声だ。

 「つばめお姉さま⁉」

 ミコトの声で、おれは我に返った。白い狐の仮面を外して、つばめさんがおれを見ている。ちょっと、恥ずかしくなる感じの黒い装束。おれは、これを知ってる。

 「......ニンジャ?」

「ああ、それは忍者ですね。つばめさん、くノ一だったんですか?」

 クノイチ?

「そんな言葉、よく知ってたわね。......まあ、昔ちょっとね。ほら、起きて」

 つばめさんに助け起こされながら、おれは尋ねる。

「つばめさん、なんでここに?」

「それはこっちの台詞よ。......あ、その前にちょっと待って」

 つばめさんが目を閉じた。何度も頷いてる。

「よかった。この高さなら繋がる」

 ......繋がる?

「今、アルフォンスと話をしてるの。二人に出会ったって、報告してるところよ」

 みー。

「ごめんなさい。二人と一匹だったわね」

 話? 多分、アルフォンス先生の魔法だろう。

 ゴーンズさんの話だと、マナとマギを連れて先に脱出したらしいけれど、ちゃんと無事だと分かって安心した。

「さて、こんなところで二人に会っちゃったら、あたしも少し予定変更ね」

「予定、ですか?」

「そう。あいつら全部、あたしが一人ずつやっつける予定だった」

「すげえ。前に兄貴が言ってた通りだ」

「なんて言ってたの?」

「忍者は悪魔デーモンみたいにコワイって......、それって、つばめさんのこと?」

「あいつ、何を教えてんのよ。大丈夫よ。ヴァンくぅん、つばめお姉さんは、コワイ人じゃないからね~?」

「うそだ。......さっきの、本気だったら、おれ殺されてた」

「殺さないって。それに、すぐに誰か分かったし。......それより、その顏。酷い怪我してるじゃない」

「おれたちで、敵を一人やっつけた。今は地下室の箱に入れて、ゴーンズさんが見張ってる」

「まったくもう、無茶して......」

 つばめさんは、おれの顔を両手で包むと、目を閉じて、呼吸を整えた。

 呪文じゃない。これは、別の何かだ。呼吸。とても深くて、長い呼吸。

 おれの傷から、痛みが薄くなっていく。腫れも少し引いていくような気がした。

「つばめ先生、魔法は使えないんじゃ?」

 その通りだ。おれも今まで、つばめさんは魔法を使えないと思っていた。だけど、これは魔法みたいな神秘的な力だ。

 でも違う。これは多分、兄貴が前に言ってた技術体系、呪文とは根本から異なる業わざ、生物の肉体を巡る力を上手に使う方法。体術の延長線上にあるもの。

氣術ゼーレン。

 そうだ。この温かい力。人の命と、呼吸を紡いで生まれる力。これが噂に聞く氣術ゼーレンに違いない。まさか、こんな身近に使い手がいたなんて。

「はい、これでよし。とりあえずは、マシになったでしょ」

「うん、ありがとう。......今の、氣術ゼーレン?」

「ヴァルクから聞いたのね。ええ、そうよ。あなたも機会があったら、エイデンから学ぶといいわ」

「エイデンさんも、氣術ゼーレンを?」

「ええ、もちろん。あの武神館ヴァッフェンゴット出身だからね。きっと、あたしなんかよりも、技とか仕込むの上手いと思う」

「そうか。今度、エイデンさんに聞いてみよう」

 ミコトが首を傾げている。多分、なんの話かよく分からなかったのだろう。後で教えてあげよう。

 でも、ミコトだったら、恋愛の女神アーノウズ様の巫女なんだから、その内に神聖魔法が使えるようになる気がするけれど。

「......あ、そうそう。そんなことより、ちょっと着替えなきゃ」

「そうか」

「ヴァン?」

「ん?」

 ミコトに両目を抑えられた。

「そうか、じゃ、ありません。お姉さまのお着換えだから、ヴァンは、あっち向いてて」

 おれは強制的に回れ右させられた。


【 同日 11:08 七聖学院 厨房 】

 厨房は、妙に静かだった。

 出入口には仮面の男が二人。俺達は監視されていた。

 鍋の中では残り野菜のスープが煮えている。備蓄のパスタは短く折って茹でた。

「ウォルター・ヒギンズ。鍋を見なさい。底が焦げないように」

「は、はい」

 キャサリンさんの指示に、ウォールが長い木べらを両手で握って、大鍋の中身をかき混ぜている。

 俺は小麦粉の袋を動かすふりをして、作業台の下を見た。

 包丁と、鉄串。それから料理鋏。

 どれも武器ではない。だが、使い方次第では武器になる。全部まとめて大ざるに入れて、邪魔にならない位置、目立たない位置へ少しずつ寄せた。だが目標とする数には足りない。

 オーレリアが横目で見た。何も言わない。

 俺が文字を書き込んで、作業台の端に置いた紙。オーレリアが手に取り、そっと開いて中を見る。

「これは大変なことのよぅ」

 紙を閉じると、エインの方へと差し出した。

「......花火の時も、こんな風だったのね」

 続けてミシェル先輩。

「これは、命懸けだぞ」

 ウォールだけが首を傾げている。

「それ、何を書いてるの?」

「献立だ」

「和語で?」

「和之国料理だからな」

「そういうものなの?」

「そういうものだ」

 その時、見張りの一人が近付いて来た。

「おい。何をしている」

 男が紙を覗き込む。

 和語で書かれた献立。材料。手順。分量。そう見えるはずのもの。

「読めねぇぞ」

 キャサリンさんが、一歩前へ出た。

「本来、本日は和之国に伝わる料理を振る舞う予定でした。これは、その献立と手順でございます」

「和之国?」

「はい。異国料理は、分量と順序を間違えると味が崩れますので」

 男は紙を睨んだ。

「だったら、そこのガキは何で読めねぇんだ」

 ウォールが指された。

「え。ぼく?」

「おまえ、読めねぇんだろ」

「読めません」

 事実だ。

「ぼくは和語の成績は悪くて......。料理実技はできますけど、和語はできません」

 オーレリアの肩が、ほんの少し震えた。

 笑うな。

「......妙な真似はするなよ」

「もちろんでございます」

 キャサリンさんは、眉ひとつ動かさなかった。いつもなら、授業中に手紙なんて回していようものなら、見つかって廊下に立たされるか、掃除当番の罰を受けているだろう。

 男が戻る。

 キャサリンさんは改めてレシピの紙を見て、中身をじっと読んだ。

[ 本日の献立 ]

 俺の方を一瞥した。視線を戻した。

[ 包丁、麺棒、火掻き棒、油瓶、鉄串、肉叩き、料理用鋏を作業台下へ。 ]

 キャサリンさんは、作業台の下を確認した。視線を戻した。

[ 敵の人数、武器、移動の間隔を記録。 ]

 オーレリアを一瞥。視線を戻した。

[ 今は従う。絶対に先に動かない。 ]

 俺はキャサリン先生をじっと見た。目が合う。ゆっくりと頷いてみせる。

「いいでしょう。私は認めます。......ですが、スープの仕込みには、味噌を使います。つばめ先生が皆さんに故郷の味をと、かつて寄贈してくれたものがあります。それを使ってください」

 ウォール以外の全員が、笑顔になった。


【 同日 11:54 七聖学院 講堂 】

 食事は皆に行き渡った。

 ミソスープには、短く折ったパスタが入っている。それと小麦粉を練って焼いた薄いパン。

 星級の小さい子達は、まだ不安そうにしながらも、木椀を両手で抱えていた。温かいものが胃に入るだけで、泣き声はずいぶん薄くなる。

 だが、全員が落ち着いたわけではない。

「......嫌だ」

 最初は、小さな声だった。

 フェルトンが、木椀を持ったまま震えている。朝の時とは様子が違う。

「嫌だ。こんなところにいたくない。僕を帰せ。僕はブラスシルド家の人間だぞ。こんな場所に閉じ込めていいわけがないだろ」

「フェルトン、落ち着け。みっともないぞ」

 ミシェル先輩が声を掛けた。

「嫌だ! 落ち着けるわけがないだろ! ここは危険だ。危険なんだよ! どうしてみんな分からないんだ!」

 分かっている。

 誰だって分かっている。

 けれど、それを声に出さず、飲み込んでいるだけだ。

「帰せ! 今すぐ帰せ! 僕だけでもいい。金なら父上が払う。だから、僕を――」

「フェルトン・ブラスシルド」

 ジークハルト先生の声が、講堂を裂いた。

 フェルトンの肩が跳ねる。

「返事」

「......は、はい」

「食事中に立ち上がるな」

「で、でも」

「返事」

「......はい」

 ジークハルト先生は、壁際に背を預けて座っていた。治療は受けたが、顔色は悪い。額の血は拭われ、傷も閉じている。それでも、全快には程遠い。なのに、声と気迫は少しも揺るがない。

「フェルトン。椀を置け」

「はい」

「ブラスシルド家と言ったな」

「はい」

「ならば、恐怖に命令権を渡すな」

 フェルトンは俯いた。

「......はい」

「よろしい。食事を続けなさい」

 講堂に、また静けさが戻った。

 俺は、フェルトンを見た。情けない。確かに情けない。

 だが、あいつの恐れは間違っていない。ここは危険だ。帰りたいと思うのも当然だ。騒がないだけで、俺だって同じことを考えている。

 それにフェルトンは──。

 その時、壇上の水晶が淡く光った。

 十二時。

 次の連絡の時間だ。

 赤黒い魔道衣の男、ヴネオンが椅子に座り直す。術士幹部が念話水晶ゲダンク・スフィアを調整し、淡い光が像を結んだ。

 水晶の向こうに、天幕の中が映る。

 エドワード少佐がいた。

 姉さんの目が、その姿に向いた。

 俺達でも、校長先生でもない。真っ直ぐに、水晶の向こうのエドワード少佐を見ている。

 何かを言うわけではない。ただ、少しだけ指先が動いた。少佐との関係性を、敵に悟られてはいけないと、そう考えているに違いない。

『マディアラス・ヴネオン』

 エドワード少佐の声が届く。

『期限について、再度交渉したい。金貨三十万枚と、要求された三つの皇宝具インペリアル・レガシー。いずれも正午までに用意できるものではない』

「では一部だけでも先ずは差し出せ。誠意を見せろ」

『そう思って、少しは準備した。一部の保護者から打診が来ている』

 ヴネオンは笑った。

「相変わらず話が早いな、海兵隊」

『身代金を支払う。だから、自分の子だけでも先に解放してほしい、というものだ』

 講堂の空気が、わずかに変わった。

 誰の親だ。

 誰が解放される。

 自分はどうなる。

 そんな考えが、声にならないまま広がっていく。

 ヴネオンは、ゆっくりと生徒達を見渡した。

「なるほど。親というものは、どこの家も自分の子が可愛いらしい」

『返答は?』

「考えておこう」

『負傷者の追加治療は継続させろ』

「それも考慮する」

『人質全員の安否確認も、定時で継続させてもらう』

「要求が多いな」

『人質を生かして交渉材料にする気があるなら、当然の確認だ』

 ヴネオンは、しばらく黙った。

 それから、袖の中へ手を入れた。

「では、こちらからも一つ、確認しておこう」

 取り出されたのは、小さな魔導具マギテクだった。

 黒く細長い小さな箱。細い溝。赤い石のようなもの。中央には、小さな押し込み式の突起。

 何なのかは分からない。

 だが、分からないからこそ、胸の奥が冷えた。

「これが何か分かるか?」

 水晶の向こうで、エドワード少佐の表情が消えた。

 ヴネオンは楽しそうに微笑む。

「起爆装置だ」

 誰かが、息を呑んだ。

「この学院のあちこちに、爆弾を仕掛けた」

 フェルトンの木椀が、かた、と鳴った。

 ヴネオンは赤い石の上に指を置く。

「誰かが逃げる。誰かが忍び込む。誰かが余計な真似をする。おまえ達が突入する。その時は――」

 そこで一度、言葉を切った。

 講堂の誰もが、その指を見ていた。

「学院ごと、吹き飛ばす」

 フェルトンの恐れは、正しかった。

 誰も、もう笑えなかった。

 俺達は、計画の変更を余儀なくされた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月8日 銀狼曜日 10:32 星見の塔 】

 気配が迫っている。

 ミコトが入り口の方を見ている。

「違う。そっちじゃない」

 おれは部屋のあちこちを見回す。

 大望遠鏡が設置してあったはずの台。丸くて大きな天窓。壁。......壁の外?

「壁の外? まさか......」

「え? だってここ、五階ぐらいの高さあるよね?」

 おれはミコトに台の陰へ行くように手で合図して、ルナも差し出した。

「......あ、うん。分かった」

 ミコトはルナを抱きかかえて、細い支柱の陰に隠れた。完全に隠れるには頼りないが、何もないより少しはマシだ。おれも短剣ダガーを抜いて、別の支柱の陰に隠れる。

 天窓の外に人影が見えた。

 硬質な金属の音。

 窓の隙間から刃が差し込まれている。外れた錠が床に落ちた。

 ミコトの肩が跳ねた。ルナの耳がピンと立った。

 誰かが侵入してきた。おれは機先を制するために、着地の瞬間を狙って飛び出した。

 黒い装束。顔にはお面。

 敵だ。

 今度は迷わない。殺さずに無力化できる場所を狙う。太腿だ。

 ん? こいつ、太腿がむきだしだぞ?

 そう思った直後、手首が掴まれた。引き込まれる。

 やばい。おれは突き出した腕を戻す。

 ──え?
 
 おれの身体が宙を舞っていた。

 多分、関節の逆をとられた。戻すタイミングで、力も利用された。

 こいつ、巧い。

 衝撃。石床の硬い感触。

「うっ」

 おれは相手の顔を見た。

 天窓から差し込んで来る陽を背に、耳のあるお面がのぞき込んでいる。

 ん。......耳?

「ちょっと、ヴァン。いきなり危ないじゃない」
 
 聞き覚えのある声だ。

 「つばめお姉さま⁉」

 ミコトの声で、おれは我に返った。白い狐の仮面を外して、つばめさんがおれを見ている。ちょっと、恥ずかしくなる感じの黒い装束。おれは、これを知ってる。

 「......ニンジャ?」

「ああ、それは忍者ですね。つばめさん、くノ一だったんですか?」

 クノイチ?

「そんな言葉、よく知ってたわね。......まあ、昔ちょっとね。ほら、起きて」

 つばめさんに助け起こされながら、おれは尋ねる。

「つばめさん、なんでここに?」

「それはこっちの台詞よ。......あ、その前にちょっと待って」

 つばめさんが目を閉じた。何度も頷いてる。

「よかった。この高さなら繋がる」

 ......繋がる?

「今、アルフォンスと話をしてるの。二人に出会ったって、報告してるところよ」

 みー。

「ごめんなさい。二人と一匹だったわね」

 話? 多分、アルフォンス先生の魔法だろう。

 ゴーンズさんの話だと、マナとマギを連れて先に脱出したらしいけれど、ちゃんと無事だと分かって安心した。

「さて、こんなところで二人に会っちゃったら、あたしも少し予定変更ね」

「予定、ですか?」

「そう。あいつら全部、あたしが一人ずつやっつける予定だった」

「すげえ。前に兄貴が言ってた通りだ」

「なんて言ってたの?」

「忍者は悪魔デーモンみたいにコワイって......、それって、つばめさんのこと?」

「あいつ、何を教えてんのよ。大丈夫よ。ヴァンくぅん、つばめお姉さんは、コワイ人じゃないからね~?」

「うそだ。......さっきの、本気だったら、おれ殺されてた」

「殺さないって。それに、すぐに誰か分かったし。......それより、その顏。酷い怪我してるじゃない」

「おれたちで、敵を一人やっつけた。今は地下室の箱に入れて、ゴーンズさんが見張ってる」

「まったくもう、無茶して......」

 つばめさんは、おれの顔を両手で包むと、目を閉じて、呼吸を整えた。

 呪文じゃない。これは、別の何かだ。呼吸。とても深くて、長い呼吸。

 おれの傷から、痛みが薄くなっていく。腫れも少し引いていくような気がした。

「つばめ先生、魔法は使えないんじゃ?」

 その通りだ。おれも今まで、つばめさんは魔法を使えないと思っていた。だけど、これは魔法みたいな神秘的な力だ。

 でも違う。これは多分、兄貴が前に言ってた技術体系、呪文とは根本から異なる業わざ、生物の肉体を巡る力を上手に使う方法。体術の延長線上にあるもの。

氣術ゼーレン。

 そうだ。この温かい力。人の命と、呼吸を紡いで生まれる力。これが噂に聞く氣術ゼーレンに違いない。まさか、こんな身近に使い手がいたなんて。

「はい、これでよし。とりあえずは、マシになったでしょ」

「うん、ありがとう。......今の、氣術ゼーレン?」

「ヴァルクから聞いたのね。ええ、そうよ。あなたも機会があったら、エイデンから学ぶといいわ」

「エイデンさんも、氣術ゼーレンを?」

「ええ、もちろん。あの武神館ヴァッフェンゴット出身だからね。きっと、あたしなんかよりも、技とか仕込むの上手いと思う」

「そうか。今度、エイデンさんに聞いてみよう」

 ミコトが首を傾げている。多分、なんの話かよく分からなかったのだろう。後で教えてあげよう。

 でも、ミコトだったら、恋愛の女神アーノウズ様の巫女なんだから、その内に神聖魔法が使えるようになる気がするけれど。

「......あ、そうそう。そんなことより、ちょっと着替えなきゃ」

「そうか」

「ヴァン?」

「ん?」

 ミコトに両目を抑えられた。

「そうか、じゃ、ありません。お姉さまのお着換えだから、ヴァンは、あっち向いてて」

 おれは強制的に回れ右させられた。


【 同日 11:08 七聖学院 厨房 】

 厨房は、妙に静かだった。

 出入口には仮面の男が二人。俺達は監視されていた。

 鍋の中では残り野菜のスープが煮えている。備蓄のパスタは短く折って茹でた。

「ウォルター・ヒギンズ。鍋を見なさい。底が焦げないように」

「は、はい」

 キャサリンさんの指示に、ウォールが長い木べらを両手で握って、大鍋の中身をかき混ぜている。

 俺は小麦粉の袋を動かすふりをして、作業台の下を見た。

 包丁と、鉄串。それから料理鋏。

 どれも武器ではない。だが、使い方次第では武器になる。全部まとめて大ざるに入れて、邪魔にならない位置、目立たない位置へ少しずつ寄せた。だが目標とする数には足りない。

 オーレリアが横目で見た。何も言わない。

 俺が文字を書き込んで、作業台の端に置いた紙。オーレリアが手に取り、そっと開いて中を見る。

「これは大変なことのよぅ」

 紙を閉じると、エインの方へと差し出した。

「......花火の時も、こんな風だったのね」

 続けてミシェル先輩。

「これは、命懸けだぞ」

 ウォールだけが首を傾げている。

「それ、何を書いてるの?」

「献立だ」

「和語で?」

「和之国料理だからな」

「そういうものなの?」

「そういうものだ」

 その時、見張りの一人が近付いて来た。

「おい。何をしている」

 男が紙を覗き込む。

 和語で書かれた献立。材料。手順。分量。そう見えるはずのもの。

「読めねぇぞ」

 キャサリンさんが、一歩前へ出た。

「本来、本日は和之国に伝わる料理を振る舞う予定でした。これは、その献立と手順でございます」

「和之国?」

「はい。異国料理は、分量と順序を間違えると味が崩れますので」

 男は紙を睨んだ。

「だったら、そこのガキは何で読めねぇんだ」

 ウォールが指された。

「え。ぼく?」

「おまえ、読めねぇんだろ」

「読めません」

 事実だ。

「ぼくは和語の成績は悪くて......。料理実技はできますけど、和語はできません」

 オーレリアの肩が、ほんの少し震えた。

 笑うな。

「......妙な真似はするなよ」

「もちろんでございます」

 キャサリンさんは、眉ひとつ動かさなかった。いつもなら、授業中に手紙なんて回していようものなら、見つかって廊下に立たされるか、掃除当番の罰を受けているだろう。

 男が戻る。

 キャサリンさんは改めてレシピの紙を見て、中身をじっと読んだ。

[ 本日の献立 ]

 俺の方を一瞥した。視線を戻した。

[ 包丁、麺棒、火掻き棒、油瓶、鉄串、肉叩き、料理用鋏を作業台下へ。 ]

 キャサリンさんは、作業台の下を確認した。視線を戻した。

[ 敵の人数、武器、移動の間隔を記録。 ]

 オーレリアを一瞥。視線を戻した。

[ 今は従う。絶対に先に動かない。 ]

 俺はキャサリン先生をじっと見た。目が合う。ゆっくりと頷いてみせる。

「いいでしょう。私は認めます。......ですが、スープの仕込みには、味噌を使います。つばめ先生が皆さんに故郷の味をと、かつて寄贈してくれたものがあります。それを使ってください」

 ウォール以外の全員が、笑顔になった。


【 同日 11:54 七聖学院 講堂 】

 食事は皆に行き渡った。

 ミソスープには、短く折ったパスタが入っている。それと小麦粉を練って焼いた薄いパン。

 星級の小さい子達は、まだ不安そうにしながらも、木椀を両手で抱えていた。温かいものが胃に入るだけで、泣き声はずいぶん薄くなる。

 だが、全員が落ち着いたわけではない。

「......嫌だ」

 最初は、小さな声だった。

 フェルトンが、木椀を持ったまま震えている。朝の時とは様子が違う。

「嫌だ。こんなところにいたくない。僕を帰せ。僕はブラスシルド家の人間だぞ。こんな場所に閉じ込めていいわけがないだろ」

「フェルトン、落ち着け。みっともないぞ」

 ミシェル先輩が声を掛けた。

「嫌だ! 落ち着けるわけがないだろ! ここは危険だ。危険なんだよ! どうしてみんな分からないんだ!」

 分かっている。

 誰だって分かっている。

 けれど、それを声に出さず、飲み込んでいるだけだ。

「帰せ! 今すぐ帰せ! 僕だけでもいい。金なら父上が払う。だから、僕を――」

「フェルトン・ブラスシルド」

 ジークハルト先生の声が、講堂を裂いた。

 フェルトンの肩が跳ねる。

「返事」

「......は、はい」

「食事中に立ち上がるな」

「で、でも」

「返事」

「......はい」

 ジークハルト先生は、壁際に背を預けて座っていた。治療は受けたが、顔色は悪い。額の血は拭われ、傷も閉じている。それでも、全快には程遠い。なのに、声と気迫は少しも揺るがない。

「フェルトン。椀を置け」

「はい」

「ブラスシルド家と言ったな」

「はい」

「ならば、恐怖に命令権を渡すな」

 フェルトンは俯いた。

「......はい」

「よろしい。食事を続けなさい」

 講堂に、また静けさが戻った。

 俺は、フェルトンを見た。情けない。確かに情けない。

 だが、あいつの恐れは間違っていない。ここは危険だ。帰りたいと思うのも当然だ。騒がないだけで、俺だって同じことを考えている。

 それにフェルトンは──。

 その時、壇上の水晶が淡く光った。

 十二時。

 次の連絡の時間だ。

 赤黒い魔道衣の男、ヴネオンが椅子に座り直す。術士幹部が念話水晶ゲダンク・スフィアを調整し、淡い光が像を結んだ。

 水晶の向こうに、天幕の中が映る。

 エドワード少佐がいた。

 姉さんの目が、その姿に向いた。

 俺達でも、校長先生でもない。真っ直ぐに、水晶の向こうのエドワード少佐を見ている。

 何かを言うわけではない。ただ、少しだけ指先が動いた。少佐との関係性を、敵に悟られてはいけないと、そう考えているに違いない。

『マディアラス・ヴネオン』

 エドワード少佐の声が届く。

『期限について、再度交渉したい。金貨三十万枚と、要求された三つの皇宝具インペリアル・レガシー。いずれも正午までに用意できるものではない』

「では一部だけでも先ずは差し出せ。誠意を見せろ」

『そう思って、少しは準備した。一部の保護者から打診が来ている』

 ヴネオンは笑った。

「相変わらず話が早いな、海兵隊」

『身代金を支払う。だから、自分の子だけでも先に解放してほしい、というものだ』

 講堂の空気が、わずかに変わった。

 誰の親だ。

 誰が解放される。

 自分はどうなる。

 そんな考えが、声にならないまま広がっていく。

 ヴネオンは、ゆっくりと生徒達を見渡した。

「なるほど。親というものは、どこの家も自分の子が可愛いらしい」

『返答は?』

「考えておこう」

『負傷者の追加治療は継続させろ』

「それも考慮する」

『人質全員の安否確認も、定時で継続させてもらう』

「要求が多いな」

『人質を生かして交渉材料にする気があるなら、当然の確認だ』

 ヴネオンは、しばらく黙った。

 それから、袖の中へ手を入れた。

「では、こちらからも一つ、確認しておこう」

 取り出されたのは、小さな魔導具マギテクだった。

 黒く細長い小さな箱。細い溝。赤い石のようなもの。中央には、小さな押し込み式の突起。

 何なのかは分からない。

 だが、分からないからこそ、胸の奥が冷えた。

「これが何か分かるか?」

 水晶の向こうで、エドワード少佐の表情が消えた。

 ヴネオンは楽しそうに微笑む。

「起爆装置だ」

 誰かが、息を呑んだ。

「この学院のあちこちに、爆弾を仕掛けた」

 フェルトンの木椀が、かた、と鳴った。

 ヴネオンは赤い石の上に指を置く。

「誰かが逃げる。誰かが忍び込む。誰かが余計な真似をする。おまえ達が突入する。その時は――」

 そこで一度、言葉を切った。

 講堂の誰もが、その指を見ていた。

「学院ごと、吹き飛ばす」

 フェルトンの恐れは、正しかった。

 誰も、もう笑えなかった。

 俺達は、計画の変更を余儀なくされた。
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