第九十六話 ルナ
おなかが空いていた。
寒かった。
物心ついた時、父も母もいなかった。
自分には名前すらなかった。
名前という素敵な贈り物が、この世界にあるなんてこと、それまで知りもしなかった。
だけど......。
──ルナ。
あの子供たちは、自分をそう呼んだ。
その子供は、食べ物をくれた。
居心地の良い場所をくれた。
遠い所へ連れていってくれた。
大きな空のキラキラを見せてくれた。
ひげがピンと伸びた。
目に硝子の眼鏡をつけた女の子が、その子供と仲良くなった。
とても幸せだった。
幸せだったのに。
とても騒がしくなった。
イヤな匂いのする大人達が、たくさんやって来た。
子供達が泣いていた。
叩かれて、血が出ていた。
血の匂い?
ああ、これは自分の血だ。
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 20:46 七聖学院 北側芝生 】
校舎の屋根、その上にいた見張りの男が、気まぐれに携帯式弩の矢弾を放った。
特に理由はない。
強いて挙げるなら、動いていたから。
鼠だったか猫だったかは気にしていない。
だから死んだか生きているかも、気にしなかった。
「おい、おまえ。今、何を射った?」
「さあ? ドブネズミじゃないか?」
ルナには、人間達の会話が聞こえていた。言葉の意味までは判別できない。
だが、その声に嫌悪した。
この痛い何かを放ったのは、あの人間達なのだと理解した。
今、ルナには心の中に抗い難い命令があった。
エドワード。
あの森の香りがする子供が、そっと覚えさせてくれた名前と、微かな匂い。
そこへ行く。
たったそれだけの単純な指示。それが、ルナの理解している全てだった。
ルナは高い知能を持つ魔獣でもなければ、特別に飼育され訓練を受けた使い魔でもない。
動物伝令の呪文は、知能の低い動物に伝令の命令を与える呪文。
ただ、この術式は、動物に高度な理解力まで与えない。
動物は術者の知識と印象を頼りに動くだけで、自分で受取人を探したり、複雑な道順を判断したりはしない。
通常であれば。
だが、この時のルナは違った。
子供達が、何かを託したことを感じていた。
理解できる知性ではない。
理解しようとする感性だ。
ルナにとって、魔法の命令は切っ掛けに過ぎなかった。
痛む後ろ足。ふらつく身体。
立たなきゃ。
子供達にお願いされたんだ。
立って歩かなきゃ。
ルナは立ち上がった。
血の匂いがする。でも、たくさんの血じゃない。
後ろ足も痛い。けれど、足はまだ地面を押せた。
歩こう。
でもこの芝生は危ない。見通しが良すぎる。
引き返す。
さっき飛び降りた窓を見る。
森の香りがする子供、ハリエットが胸に手を当てていた。
こっちを見て安堵しているようだ。
ルナは、ぴんと尻尾を伸ばした。
歩けるって見せた。
ルナは西を目指した。建物に沿って歩き出した。
少し歩くと、頭上で窓の開く音がした。ルナは、その場に伏せた。
「クソ面倒くせぇことになった」
体格の大きな人間が、窓から身を乗り出した。
臭い匂いのする煙を吸ったり吐いたりしている。
ルナは、じっと動かない。
「そう言うな。ボスにも考えがある」
「考え? 言って見ろ。ヴェナリスに殺処分される未来なんざ笑えねえぞ」
部屋の中にいる誰かと、何かしら話をしているようだ。ルナは、魔法の命令が、早く行けと急かす衝動を抑えて、今は見つからないように努めた。
「一部だが、身代金は手に入った」
「その金はもう流したんだろ」
「ああ。あの方へな。代金としては十分だ」
「で、例の奥の手ってわけか」
「そうだ。これがある限り、街の衛兵隊はもちろん、緋鋼海兵隊にも負けないさ」
大男が、窓の外に臭くてイヤな匂いのする灰を落とした。
ルナは目を閉じて、顔を背けた。目がしぱしぱする。
「それに生き延びれば、神聖共和国が我々を受け入れてくれる」
「それも信用ならねえけどな」
大男がゴミを捨てて、窓を閉めた。
ルナは気になって、その乾いた葉っぱを丸めたようなゴミの匂いを嗅いだ。
ついつい匂いを確かめてしまうのは、魔法よりも強い強制力。猫の本能だ。
臭い。
ツンとする刺激に顔を背ける。
ルナはその場を直ぐに離れて、七聖学院の入り口がある方に向かった。
植え込みに隠れ、柱に隠れ、道の縁石の低い陰に隠れて進む。
大きな水溜まりがあって、夜でも水が逆さに吹き出る変な場所に来た。
水飛沫を浴びないように、決して近付かないように歩く。
建物が崩れた場所に来た。
そこから先は、子供達に出てはいけないと教えられた場所だ。
ルナは向こうを覗き見た。
鉄の匂いがする大きな板が、たくさん並んでいた。
怖そうな人達も、たくさんいた。
ここはダメだ。
ルナは湖のある南側に行くことにした。
後ろ足が、だんだん重くなってきた。
ちょっと後ろを振り返ると、赤い点々が残っていた。
ルナは前を見た。
ちょっと頭がぼーっとする。
歩いた。
植え込みと、土の道がある場所に来た。
壁がある。
子供より背が高い壁だ。
今の足で、跳び上がれるか分からない。
でも、いつもなら跳べた。
失敗できない。
たぶん二回は跳べない。足が痛い。
前足をそろえる。
土を押して確かめる。
後ろ足をそろえる。
痛くて少しズレた。
ちゃんとそろえる。
跳ぶ。
壁の上に乗れた。
立てなかった。身体が揺れる。落ちる。
向こう側に落ちることを選ぶ。
背中から落ちた。
草があったけど、痛かった。
ケガした後ろ足から、血が出た。
もう後ろ足は使えない。痛い。
ルナは三つの足で立った。
不恰好に歩いた。
たくさん歩いた。
ちょっとだけかもしれない。
歩けるまで歩いた。
エドワードは、こっちにいる気がする。
倒れた。
立たなきゃ。
立てない。
立って歩きたいのに。
眠くなってきた。
何も考えられなくなる。
............。
......。
「あにき、なんか倒れてやすぜ」
「死んでるなら放っておけ」
誰かの声が聞こえた。
ルナは薄く目を開けた。
「こいつ、生きてる」
「ケガしてるじゃねえか」
「人を呼んで来やしょうか?」
「連れてった方がいい」
ルナは、汗と古い布、糞と尿、掘った草の根と、土の匂いがする男たちに抱えられた。
あれ?
犬の匂いもする。
ふわふわした犬。
いつも、からかって遊んでいた犬。
変なおばさんの匂いがする犬。
あれの匂いもする。
あれあれ?
いつも遊んでほしそうな、白い髪の子。
あの子供の匂いもする。
近い。
エドワードの近くまで来てる気がする。
でも疲れた。
もう目を開けていられない。
「アルフォンスの旦那、怪我は治りますか?」
温かい。気持ちいい。
「はい、もう大丈夫ですよ。おや? これは......、エドワード少佐を呼んできて下さい」
エドワード?
「これは、素晴らしい」
「え、なんすかこれ。めっちゃ細かい点々が書いてあるだけなんじゃ?」
「うんにゃ、なんぞ字が書いちゅうぞ」
「はい。これで拡大して見て下さい」
「これは、敵の人数、配置、武器、全て書かれている」
「それを子供達が調べて送って来たじゃと? 信じられん」
「ですが大隊長。食事を配った数から、犯人達の人数も正確に把握されている。後はこちらが正確に突入時間を教えれば、その時刻に合わせて、内部で陽動と攪乱を行ってくれると書いてあります」
「むぅ......」
「それだけではありません。これは、初歩の初歩、術式印で書かれています」
「それがどうしたんじゃ、文字を書く魔法じゃろ?」
「おじさん、魔法についてもっと勉強しなよ」
「こら、エリー」
「だってこれ、本来は長文なんて刻めない魔法だよ? 紋章や、符号、簡単な署名ぐらいしか刻めない」
「そうだったのか」
「そうなの。それを何度も何度も重ね掛けして、これを作っている。しかも、圧倒的な縮小サイズ。気の遠くなるような作業を、襲撃から四十五時間ちょっと、この短時間でやってのけるなんてすごいわよ」
「猫に無理なく運ばせる事ができる紙のサイズを考えて、そこに最大限、情報を濃縮した形だ」
「そう、それに一日に使える呪文の数を考えても、情報が集まる前から作成を開始していないと説明がつかない。それこそ、襲撃された直後から作り始めてる計算になるわ」
「そんなに凄いのか」
「凄いなんてもんじゃないわよ。むしろ脅威的かも。これ書いたの誰なの?」
「ハリス・ヤクトブレオ、いつか私にとって、義理の弟になる少年だよ」
ルナには何の話だかさっぱり分からないが、大人達が何か興奮気味に話していることは分かった。
「突入は今夜。全員が寝静まった後、子供達だけ先に早起きできる3時から5時の間が望ましい。......とある」
「まったく呆れる。突入時刻を指定してくる人質なんぞ、初めて聞いたわい」
「だが合理的だ。爆弾の無効化にも既に成功している公算が高い。つばめもいるし、間違いないだろう」
「ただの保健教師ではないのか?」
「否」
「有り得ない話だ」
「そがなわけないろう」
「多分、違いますね」
「お、おう......」
「エリー、最短で編成を替え、配置を動かし、突入可能な時間は何時になるか、今すぐ演算してくれ」
「任せて。うーん、......最短で3時45分前後」
「では、4時を突入時刻とする」
「はっ、直ぐに準備させます」
「合図は探照灯で、ルナエ符号と暗号を使ってくれとある」
「生徒達は、講堂の中じゃろ。あそこは周りを廊下で囲まれていて、外の様子を確認できないはずでは?」
「一人、自由に動いてる者がいる」
「誰だ、そのやんちゃは?」
「ヴァン・ラドーレ、わしの自慢の弟じゃき」
「お手柄じゃないか」
「お手柄といえば、この二人もです。猫を見つけた」
「あにき、オレたちお手柄らしいですぜ」
「一番の大手柄ってやつなら、御褒美くれ」
「馬鹿を申すな。最大の功労者は、この最も小さき者ぞ」
この匂いは覚えてる。神父とか呼ばれてる大人だ。
いつものように撫でられた。
「みー」
ルナは小さく鳴いて、目を細めた。
天幕の外で、探照灯が夜空を向く。
突入作戦が、動き始めた。