第九十五話 抵抗者
【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 19:38 七聖学院 厨房 】
布が裂ける音がした。
キャサリンは悲鳴を呑み込むしかなかった。
口を塞がれ、腕を押さえつけられ、背中が調理台に押し当てられる。冷たい木の感触が、薄い衣服越しに伝わった。
仮面の男が、喉の奥で笑った。
「大人しくしてろ」
キャサリンの目が、調理台の下へ動いた。何とか腕を伸ばす。集めておいた武器まで届かない。
キャサリンは空いていた指先を調理台の縁に掛け、身体を捩った。男の手が肩を掴む。その瞬間、彼女は調理台の下へ手を伸ばした。
届いた。
何を掴んだかは判らない。とにかく、柄を外側にして取りやすいように置いておく。たったそれだけの、ハリスの小さな気遣いが役に立った。
「この......!」
振りかぶる余裕はなかった。
キャサリンは横殴りに、男の顔へ鉄製の肉叩きを打ち込んだ。
反射的に腕で防がれた。
「ぐっ」
男の身体が一瞬だけ揺らいだ。
だが、倒れるに至らない。
キャサリンは直ぐに手首を抑えられた。
「てめぇ......」
男の目が、仮面の奥で血走った。
「おい、そこのおまえも手伝え! 押さえろ!」
入口の扉を塞いでいた三人目の男が、施錠しながら舌打ちをした。
「ああ、分かってる」
その男が近付いてくる。
キャサリンは息を詰めた。三人掛かりで押さえ込まれたら、もう抵抗は難しい。
近付いてきた仮面の男が、腰を落とした。
次の瞬間。
ごっ、と鈍い音が厨房に響いた。
「いひゃっ⁉」
キャサリンの脚を押さえていた男が、変な声を上げた。
背後から股間を蹴り上げられていた。
「おま、......な、......?」
何事かと振り返る男の顔面に、フライパンが叩き付けられた。
殴られた男が崩れ落ちる。
そのフライパンを握っていた男が、仮面を引き剥がして床へ投げ捨てた。
無精髭。
荒れた髪。
見慣れた、憎まれ口の似合う顔。
「俺のキャサリンに手ぇ出してんじゃねえ!」
「......え⁉」
驚くキャサリン。
三人目は、変装していたゴーンズだった。
ゴーンズは勢いと怒りに任せてフライパンを振り上げ、もう一人の男へ叩き込もうとした。
「なんだてめえ!」
「きゃっ」
だが、男はキャサリンを乱暴に突き飛ばして床に落とすと、両手でフライパンを受け止めた。
「通りすがりの用務員だよ!」
ゴーンズが床を踏み鳴らし、肩からぶつかった。
フライパンを奪い合って、男とゴーンズが厨房の中央でもつれ合う。棚が揺れ、乾ききっていない木皿が一枚落ちて甲高い音を鳴らした。
倒れたキャサリンは床から体を起こした。
肩の破れた布を押さえる暇はない。彼女は調理台の端、小麦粉袋に目を向ける。
男がゴーンズの腹へ膝蹴りを入れる。
ゴーンズが歯を食いしばった。
「この野郎......!」
「どけ、髭面!」
男にフライパンが奪われた。
その瞬間、キャサリンは粉袋を両手で掴み、中身を男の顔へ叩きつけるように投げた。
白い粉が爆ぜた。
「うわっ、目が!」
男が仮面の隙間を押さえる。
ゴーンズは逃さなかった。
膝を沈め、下からの拳を突き上げる。
男の顎が衝撃に跳ね上がった。
仮面がずれ、男の身体が後ろへ倒れる。背中が流し台にぶつかり、そのまま床へ沈んだ。
厨房に、荒い息だけが残った。
ゴーンズはしばらく拳を握ったまま、倒れた男達を見下ろしていた。二人とも動かない。完全に気絶している。
キャサリンは破れた肩口を押さえ、ゴーンズを見た。
「......助かりました。ありがとうございます」
「礼なんざいい」
ゴーンズは顔を背けた。
「ふう。気になったから、ついて来てよかったぜ」
キャサリンは、転がった木皿、小麦粉にまみれた床、転がる仮面を見た。それから、ゴーンズの横顔へ視線を戻す。
「ところで、さっき」
「......何だ」
「俺の、って言いました?」
ゴーンズの肩が止まった。
「うっ、それは......」
「言いましたよね」
「言葉のあやだ」
「そうですか」
「そうだ」
キャサリンは少しだけ笑った。
【 同日 19:42 七聖学院 講堂準備室 】
講堂準備室は、本来なら舞台道具や備品を置くための部屋だった。しかし、今は校長室から持って来た来客用のソファ、寄宿舎からかき集めた布団やクッション、厨房から持って来た料理、酒瓶、その他の雑多な物で溢れていた。
「それで、見逃して欲しいと嘆願に来たわけか?」
ヴネオンが言った。ソファに座り、寛いだ姿勢で、机に両足を乗せている。
つばめは、肩を落とす。表情は弱く、声は低い。
「ええ、そうよ。マディアラス・ヴネオン、あたしを含めて、貴方の考えに賛同する者もいるって話。......ヴェナリス皇帝のこと、嫌っている人もいるの」
「あの男を嫌う者など、吐いて捨てるほどいるだろうさ」
「だったら、そんな者達を殺す必要はどこにも無い」
ヴネオンは頭の後ろで両手を組んで枕にした。
「だが、おまえ達は恩恵を受けている。嫌ってはいようと、皇族家の者と学院に通い、貴族として裕福な暮らしを行っている。その断罪を願う者は多い」
「あの子達の立場なら、それは仕方がないじゃない」
「修道女、そもそも君は勘違いをしている。私は政治になど興味はない」
「そう。やっぱりね」
つばめは、一歩だけ近付いた。
どんな防御魔法が仕込んであるかも分からない。目的が悟られてもいけない。
近付き過ぎない。警戒されない距離。
「禁断の知識神の信徒。あなたにとっては皇宝具を手に入れる事がすべて。政治的な不満は、人を雇うための方便。......そうなんでしょ?」
ヴネオンの金色の目が細くなった。
「気付いていたか」
「それぐらいはね。これでも一応、修道女ですもの」
「ふん、確かにそうだ。あれさえ手に入れば、後はどうなろうと知ったことではない。それ程までに、あの強大な力と、神々の知識を独占している皇家は、実に罪深いのだ」
つばめは答えず、静かに聞いた。
彼女が隠し持つ魔導具は、オーレリアの特製品。小型魔法人形の部品と、その命令文を模写した金属片、それらを一つの装置として組み上げた。
作動条件は二つ。
一つ目の条件、この魔導具と起爆装置が、至近距離にあること。
二つ目の条件、その状態でオーレリア自身が有効距離内から遠隔操作すること。
ヴネオンが背にした壁の向こう。
部屋の外。
北側廊下の壁際。
一度に何名もの女子が北側トイレを使うことで、人為的に行列を作る。大勢の女子達が協力する事によって成立する作戦。
その最後尾。壁越しの有効距離内で、オーレリアが待機しているはずだった。
「ツバメ・クジョウ」
ヴネオンが名前を呼んだ。
「我々は邪教の烙印を押されているが、単に無知に対する抵抗者であるに過ぎない」
「無知なる者は、奪われるから?」
「そうだ。情報と教育の格差が、搾取と歪んだ構造を生む。今度は、我々が奪う側に回るべきだ。皇家からも、神々からですら」
「神々も?」
「ああ、そうだ」
その時。
つばめの懐で、特製魔導具がかすかに震えた。
そもそも、部品取りに使われた小型魔法人形は、記録帳を齧る不届き者を撃退するために用意されたものだった。
けれど、オーレリアが改造し、記録の管理用に文字消去と文図複写の機能が組み込まれている。それらはオーレリアが普段から使い慣れている魔導具であり、機能であった。
何に対して書き込むかは、事前に術式へ組み込まれている。この場合は起動装置の内部に使われている送信用の制御核部品だ。
つばめが対象を選ぶ必要はない。
詠唱を完成させる必要もない。
ただ、時間を稼ぐ。
「ツバメ・クジョウ、貴様の信奉する神はなんだ?」
「うーん、緋鋼皇國の民だから、緋鋼建国神様ってことになるんじゃない?」
「なんだ、その言い草は」
「あたし、神様なんていない場所で育って来たから、神格っていう存在は敬うけれど、頼み事はしないの。自分で何とかやって来たから」
「ならば今回も、自分で何とかすると?」
「そうよ。今は神格なんかに頼むより、あなたに頼む方がずっと話が早いから、そうしてるだけ」
ヴネオンは、声を立てずに笑った。
つばめは、ヴネオンから目を離さなかった。
魔導具の微振動は続いている。
文字消去。
起爆装置に記されていた命令文が、音もなく薄れていく。しかし、完全に消えてしまえば、保護用の呪文書式が異常を拾う。
文図複写。
消去と同時に、オーレリアが金属片に写した命令文が、起爆装置側の制御核部品へと書き足されていく。
途中で構文がおかしい事になる。しかし、起動する前であれば、それは問題視されない。呪文書式の不在こそが警告対象であり、オーレリアはその構造を熟知していた。
一文字。
一文字。
順番に、丁寧に、書き足されていく。
ヴネオンの笑いが収まった。
「面白い女だ。少し考えておく」
「うん、そうして貰えると助かるわ」
つばめは、催促するように片手を差し出した。
「それで、その答えはいつ貰える?」
「今すぐは出せんな」
「そう。残念」
差し出した手を戻して、つばめは大きな溜め息を吐いた。
「だが、貴様は殺すには惜しい。美貌だけではない。その考え方も」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
最後の線が、制御核部品へ刻まれた。
魔導具のかすかな震えが止まった。
上書きは完了した。
つばめは、ようやく小さな息を吐いた。
「では、戻っていいかしら。子供達が心配なの」
「行け」
ヴネオンが手を振った。
「だが、修道女。私を騙せると思うなよ」
「怖いことを言うのね」
「事実だ。裏切者は殺してきた」
「覚えておくわ」
つばめは軽く頭を下げ、講堂準備室を出た。
扉が閉じる直前、起爆装置は何も変わらない顔で、机の上に置かれていた。
【 同日 20:16 七聖学院西側 本部天幕 】
天幕の外で、鎧の金具が鳴った。
ヴァルク・ラドーレ。
エイデン・アインホルン。
幕が上がり、衛兵の装備を身に着けた二人が入って来る。
エドワードが一度だけ目を細めた。
「意外と似合ってるじゃないか」
エイデンが袖口を整えた。
「新人の頃を思い出す」
ヴァルクは肩を回し、借り物の胸当てを軽く叩いた。
「ほんに懐かしいのう」
クラウゼン大隊長が腕を組む。
「マナ殿下、マギ殿下の頼みでなければ、こんな特例、承知できんという事を忘れるな。伝説の騎士とやらが、どれほどのものかは知らないが......」
エリーが目を丸くした。
「えー? 知らないんですか?」
エリーは、ヴァルクの隣に来て、その腕にしがみついた。
「女性隊員の間じゃ、噂ですよお?」
エイデンが、横目でヴァルクを見る。
「相変わらずの人気者だな」
エリーが上目遣いで見上げる。
「あのぉ、サインとか貰ってもいいですかぁ?」
ヴァルクは困ったように眉を下げた。
「そういうがは苦手なんじゃが、とりあえずこん事件ば片付いてからにゃあ」
「やったぁ」
「人気者だな」
「二回も言わんでえい」
天幕の外から、衛兵が駆け込んできた。
「報告!」
エドワードが地図から顔を上げる。
「掘削班から報告。学院北側で、地下坑道を発見しました!」
天幕の空気が変わった。
アルフォンスが、地図上の北側を指で押さえる。
エドワードは一度だけ頷いた。
「これで、後は報告を待つだけだ。そうだね?」
天幕の端。
椅子に座っていたローティが、ゆっくりと顔を上げた。
額の包帯はまだ痛々しい。だが、その目は沈んでいない。
「ああ」
ローティは頷いた。
「俺たちは負けない」
少しだけ間を置き、口の端を上げる。
「ヴァンの言葉だ」
【 同日 20:45 七聖学院 北側トイレ 】
外はもう暗い。さっきまで廊下を埋めていた女子達の列も、今はない。
廊下の明かりはトイレの奥まで届かず、窓の向こうに広がる芝生は、夜の色に沈んでいる。
ハリエットは、ルナを抱えて個室へ入っていた。
便座の上に乗り、背伸びをする。
「ヴァン、これ」
天井の通気口が、ほんの少し開いた。
汚れた指が伸び、ハリエットの差し出した紙切れを受け取る。
「ハリスの指示?」
「うん」
ヴァンは開いて中身を読むと、短く息を吐いた。
「分かった。もう行く」
「うん、気を付けて」
ハリエットは便座から降り、ルナを床に下ろした。
ルナは尻尾を立て、足元をくるりと回る。
「ごめんね、ルナ。お願い」
「みー」
ハリエットは首輪の代わりに、細い首紐をルナへ結んだ。小さく折り畳んだ紙を、濡れないよう油紙で包み、首紐に括り付ける。
そして膝をつき、ルナの額に指先を置いた。
「小さき生命、小さき足よ」
白っぽい黄緑色の淡い光が、指先に灯る。
「この糧を受け、我が願う道を辿れ」
ルナの耳がぴくりと動いた。
「森の陰を抜け、草の露を越え、風の匂いを道しるべとせよ」
ハリエットの声は、祈りのように低く、柔らかかった。
「――動物伝令」
ハリエットが目を閉じ、心の中で言葉を紡ぐ。
ルナの瞳に、小さな光が宿った。
「さあ、行って」
ハリエットは窓を少しだけ押し開ける。
ルナは窓枠へ飛び乗り、隙間から外へ滑り出た。
小さな身体が芝生へ降りる。
夜の草の上を、音もなく走っていく。
ハリエットは窓に顔を寄せ、目を凝らした。
暗くてよく見えない。
あの辺かな。
そう思った瞬間。
どすっ、と鈍い音がした。
ルナのいた辺り。
地面に、矢弾が突き立っていた。