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第九十五話 抵抗者

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 19:38 七聖学院 厨房 】

 布が裂ける音がした。

 キャサリンは悲鳴を呑み込むしかなかった。

 口を塞がれ、腕を押さえつけられ、背中が調理台に押し当てられる。冷たい木の感触が、薄い衣服越しに伝わった。

 仮面の男が、喉の奥で笑った。

「大人しくしてろ」

 キャサリンの目が、調理台の下へ動いた。何とか腕を伸ばす。集めておいた武器まで届かない。

 キャサリンは空いていた指先を調理台の縁に掛け、身体を捩った。男の手が肩を掴む。その瞬間、彼女は調理台の下へ手を伸ばした。

 届いた。

 何を掴んだかは判らない。とにかく、柄を外側にして取りやすいように置いておく。たったそれだけの、ハリスの小さな気遣いが役に立った。

「この......!」

 振りかぶる余裕はなかった。

 キャサリンは横殴りに、男の顔へ鉄製の肉叩きを打ち込んだ。

 反射的に腕で防がれた。

「ぐっ」

 男の身体が一瞬だけ揺らいだ。

 だが、倒れるに至らない。

 キャサリンは直ぐに手首を抑えられた。

「てめぇ......」

 男の目が、仮面の奥で血走った。

「おい、そこのおまえも手伝え! 押さえろ!」

 入口の扉を塞いでいた三人目の男が、施錠しながら舌打ちをした。

「ああ、分かってる」

 その男が近付いてくる。

 キャサリンは息を詰めた。三人掛かりで押さえ込まれたら、もう抵抗は難しい。

 近付いてきた仮面の男が、腰を落とした。

 次の瞬間。

 ごっ、と鈍い音が厨房に響いた。

「いひゃっ⁉」

 キャサリンの脚を押さえていた男が、変な声を上げた。

 背後から股間を蹴り上げられていた。

「おま、......な、......?」

 何事かと振り返る男の顔面に、フライパンが叩き付けられた。

 殴られた男が崩れ落ちる。

 そのフライパンを握っていた男が、仮面を引き剥がして床へ投げ捨てた。

 無精髭。

 荒れた髪。

 見慣れた、憎まれ口の似合う顔。

「俺のキャサリンに手ぇ出してんじゃねえ!」

「......え⁉」

 驚くキャサリン。

 三人目は、変装していたゴーンズだった。

 ゴーンズは勢いと怒りに任せてフライパンを振り上げ、もう一人の男へ叩き込もうとした。

「なんだてめえ!」

「きゃっ」

 だが、男はキャサリンを乱暴に突き飛ばして床に落とすと、両手でフライパンを受け止めた。

「通りすがりの用務員だよ!」

 ゴーンズが床を踏み鳴らし、肩からぶつかった。

 フライパンを奪い合って、男とゴーンズが厨房の中央でもつれ合う。棚が揺れ、乾ききっていない木皿が一枚落ちて甲高い音を鳴らした。

 倒れたキャサリンは床から体を起こした。

 肩の破れた布を押さえる暇はない。彼女は調理台の端、小麦粉袋に目を向ける。

 男がゴーンズの腹へ膝蹴りを入れる。

 ゴーンズが歯を食いしばった。

「この野郎......!」

「どけ、髭面!」

 男にフライパンが奪われた。

 その瞬間、キャサリンは粉袋を両手で掴み、中身を男の顔へ叩きつけるように投げた。

 白い粉が爆ぜた。

「うわっ、目が!」

 男が仮面の隙間を押さえる。

 ゴーンズは逃さなかった。

 膝を沈め、下からの拳アッパーカットを突き上げる。

 男の顎が衝撃に跳ね上がった。

 仮面がずれ、男の身体が後ろへ倒れる。背中が流し台にぶつかり、そのまま床へ沈んだ。

 厨房に、荒い息だけが残った。

 ゴーンズはしばらく拳を握ったまま、倒れた男達を見下ろしていた。二人とも動かない。完全に気絶している。

 キャサリンは破れた肩口を押さえ、ゴーンズを見た。

「......助かりました。ありがとうございます」

「礼なんざいい」

 ゴーンズは顔を背けた。

「ふう。気になったから、ついて来てよかったぜ」

 キャサリンは、転がった木皿、小麦粉にまみれた床、転がる仮面を見た。それから、ゴーンズの横顔へ視線を戻す。

「ところで、さっき」

「......何だ」

「俺の、って言いました?」

 ゴーンズの肩が止まった。

「うっ、それは......」

「言いましたよね」

「言葉のあやだ」

「そうですか」

「そうだ」

 キャサリンは少しだけ笑った。


【 同日 19:42 七聖学院 講堂準備室 】

 講堂準備室は、本来なら舞台道具や備品を置くための部屋だった。しかし、今は校長室から持って来た来客用のソファ、寄宿舎からかき集めた布団やクッション、厨房から持って来た料理、酒瓶、その他の雑多な物で溢れていた。

「それで、見逃して欲しいと嘆願に来たわけか?」

 ヴネオンが言った。ソファに座り、寛いだ姿勢で、机に両足を乗せている。

 つばめは、肩を落とす。表情は弱く、声は低い。

「ええ、そうよ。マディアラス・ヴネオン、あたしを含めて、貴方の考えに賛同する者もいるって話。......ヴェナリス皇帝のこと、嫌っている人もいるの」

「あの男を嫌う者など、吐いて捨てるほどいるだろうさ」

「だったら、そんな者達を殺す必要はどこにも無い」

 ヴネオンは頭の後ろで両手を組んで枕にした。

「だが、おまえ達は恩恵を受けている。嫌ってはいようと、皇族家の者と学院に通い、貴族として裕福な暮らしを行っている。その断罪を願う者は多い」

「あの子達の立場なら、それは仕方がないじゃない」

「修道女シスター、そもそも君は勘違いをしている。私は政治になど興味はない」

「そう。やっぱりね」

 つばめは、一歩だけ近付いた。

 どんな防御魔法が仕込んであるかも分からない。目的が悟られてもいけない。

 近付き過ぎない。警戒されない距離。

「禁断の知識神マドネの信徒。あなたにとっては皇宝具インペリアル・レガシーを手に入れる事がすべて。政治的な不満は、人を雇うための方便。......そうなんでしょ?」

 ヴネオンの金色の目が細くなった。

「気付いていたか」

「それぐらいはね。これでも一応、修道女シスターですもの」

「ふん、確かにそうだ。あれさえ手に入れば、後はどうなろうと知ったことではない。それ程までに、あの強大な力と、神々の知識を独占している皇家は、実に罪深いのだ」

 つばめは答えず、静かに聞いた。

 彼女が隠し持つ魔導具マギテクは、オーレリアの特製品。小型魔法人形ミニ・ゴーレムの部品と、その命令文を模写した金属片プレート、それらを一つの装置として組み上げた。

 作動条件は二つ。

 一つ目の条件、この魔導具マギテクと起爆装置が、至近距離にあること。

 二つ目の条件、その状態でオーレリア自身が有効距離内から遠隔操作すること。

 ヴネオンが背にした壁の向こう。

 部屋の外。

 北側廊下の壁際。

 一度に何名もの女子が北側トイレを使うことで、人為的に行列を作る。大勢の女子達が協力する事によって成立する作戦。

 その最後尾。壁越しの有効距離内で、オーレリアが待機しているはずだった。

「ツバメ・クジョウ」

 ヴネオンが名前を呼んだ。

「我々は邪教ドゥンケの烙印を押されているが、単に無知に対する抵抗者であるに過ぎない」

「無知なる者は、奪われるから?」

「そうだ。情報と教育の格差が、搾取と歪んだ構造を生む。今度は、我々が奪う側に回るべきだ。皇家からも、神々からですら」

「神々も?」

「ああ、そうだ」

 その時。

 つばめの懐で、特製魔導具マギテクがかすかに震えた。

 そもそも、部品取りに使われた小型魔法人形ミニ・ゴーレムは、記録帳を齧る不届き者を撃退するために用意されたものだった。

 けれど、オーレリアが改造し、記録の管理用に文字消去ラディーレンと文図複写シュリフトビルトコピーの機能が組み込まれている。それらはオーレリアが普段から使い慣れている魔導具マギテクであり、機能であった。

 何に対して書き込むかは、事前に術式へ組み込まれている。この場合は起動装置の内部に使われている送信用の制御核部品コントロール・コアだ。

 つばめが対象を選ぶ必要はない。

 詠唱を完成させる必要もない。

 ただ、時間を稼ぐ。

「ツバメ・クジョウ、貴様の信奉する神はなんだ?」

「うーん、緋鋼皇國あけがねこうこくの民だから、緋鋼建国神アーダル様ってことになるんじゃない?」

「なんだ、その言い草は」

「あたし、神様なんていない場所で育って来たから、神格っていう存在は敬うけれど、頼み事はしないの。自分で何とかやって来たから」

「ならば今回も、自分で何とかすると?」

「そうよ。今は神格なんかに頼むより、あなたに頼む方がずっと話が早いから、そうしてるだけ」

 ヴネオンは、声を立てずに笑った。

 つばめは、ヴネオンから目を離さなかった。

 魔導具マギテクの微振動は続いている。
 
 文字消去ラディーレン。

 起爆装置に記されていた命令文が、音もなく薄れていく。しかし、完全に消えてしまえば、保護用の呪文書式スクリプトが異常を拾う。

 文図複写シュリフトビルトコピー。

 消去と同時に、オーレリアが金属片プレートに写した命令文が、起爆装置側の制御核部品コントロール・コアへと書き足されていく。

 途中で構文がおかしい事になる。しかし、起動する前であれば、それは問題視されない。呪文書式スクリプトの不在こそが警告対象であり、オーレリアはその構造を熟知していた。

 一文字。

 一文字。

 順番に、丁寧に、書き足されていく。

 ヴネオンの笑いが収まった。

「面白い女だ。少し考えておく」

「うん、そうして貰えると助かるわ」

 つばめは、催促するように片手を差し出した。

「それで、その答えはいつ貰える?」

「今すぐは出せんな」

「そう。残念」

 差し出した手を戻して、つばめは大きな溜め息を吐いた。

「だが、貴様は殺すには惜しい。美貌だけではない。その考え方も」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 最後の線が、制御核部品コントロール・コアへ刻まれた。

 魔導具マギテクのかすかな震えが止まった。

 上書きは完了した。

 つばめは、ようやく小さな息を吐いた。

「では、戻っていいかしら。子供達が心配なの」

「行け」

 ヴネオンが手を振った。

「だが、修道女シスター。私を騙せると思うなよ」

「怖いことを言うのね」

「事実だ。裏切者は殺してきた」

「覚えておくわ」

 つばめは軽く頭を下げ、講堂準備室を出た。

 扉が閉じる直前、起爆装置は何も変わらない顔で、机の上に置かれていた。


【 同日 20:16 七聖学院西側 本部天幕 】

 天幕の外で、鎧の金具が鳴った。

 ヴァルク・ラドーレ。
 エイデン・アインホルン。

 幕が上がり、衛兵の装備を身に着けた二人が入って来る。

 エドワードが一度だけ目を細めた。

「意外と似合ってるじゃないか」

 エイデンが袖口を整えた。

「新人の頃を思い出す」

 ヴァルクは肩を回し、借り物の胸当てを軽く叩いた。

「ほんに懐かしいのう」

 クラウゼン大隊長が腕を組む。

「マナ殿下、マギ殿下の頼みでなければ、こんな特例、承知できんという事を忘れるな。伝説の騎士とやらが、どれほどのものかは知らないが......」

 エリーが目を丸くした。

「えー? 知らないんですか?」

 エリーは、ヴァルクの隣に来て、その腕にしがみついた。

「女性隊員の間じゃ、噂ですよお?」

 エイデンが、横目でヴァルクを見る。

「相変わらずの人気者だな」

 エリーが上目遣いで見上げる。

「あのぉ、サインとか貰ってもいいですかぁ?」

 ヴァルクは困ったように眉を下げた。

「そういうがは苦手なんじゃが、とりあえずこん事件ば片付いてからにゃあ」

「やったぁ」

「人気者だな」

「二回も言わんでえい」

 天幕の外から、衛兵が駆け込んできた。

「報告!」

 エドワードが地図から顔を上げる。

「掘削班から報告。学院北側で、地下坑道を発見しました!」

 天幕の空気が変わった。

 アルフォンスが、地図上の北側を指で押さえる。

 エドワードは一度だけ頷いた。

「これで、後は報告を待つだけだ。そうだね?」

 天幕の端。

 椅子に座っていたローティが、ゆっくりと顔を上げた。

 額の包帯はまだ痛々しい。だが、その目は沈んでいない。

「ああ」

 ローティは頷うなずいた。

「俺たちは負けない」

 少しだけ間を置き、口の端を上げる。

「ヴァンの言葉だ」


【 同日 20:45 七聖学院 北側トイレ 】

 外はもう暗い。さっきまで廊下を埋めていた女子達の列も、今はない。

 廊下の明かりはトイレの奥まで届かず、窓の向こうに広がる芝生は、夜の色に沈んでいる。

 ハリエットは、ルナを抱えて個室へ入っていた。

 便座の上に乗り、背伸びをする。

「ヴァン、これ」

 天井の通気口が、ほんの少し開いた。

 汚れた指が伸び、ハリエットの差し出した紙切れを受け取る。

「ハリスの指示?」

「うん」

 ヴァンは開いて中身を読むと、短く息を吐いた。

「分かった。もう行く」

「うん、気を付けて」

 ハリエットは便座から降り、ルナを床に下ろした。

 ルナは尻尾を立て、足元をくるりと回る。

「ごめんね、ルナ。お願い」

「みー」

 ハリエットは首輪の代わりに、細い首紐をルナへ結んだ。小さく折り畳んだ紙を、濡れないよう油紙で包み、首紐に括り付ける。

 そして膝をつき、ルナの額に指先を置いた。

「小さき生命いのち、小さき足よ」

 白っぽい黄緑色の淡い光が、指先に灯る。

「この糧を受け、我が願う道を辿れ」

 ルナの耳がぴくりと動いた。

「森の陰を抜け、草の露を越え、風の匂いを道しるべとせよ」

 ハリエットの声は、祈りのように低く、柔らかかった。

「――動物伝令ティーアボーテ」

 ハリエットが目を閉じ、心の中で言葉を紡ぐ。

 ルナの瞳に、小さな光が宿った。

「さあ、行って」

 ハリエットは窓を少しだけ押し開ける。

 ルナは窓枠へ飛び乗り、隙間から外へ滑り出た。

 小さな身体が芝生へ降りる。

 夜の草の上を、音もなく走っていく。

 ハリエットは窓に顔を寄せ、目を凝らした。

 暗くてよく見えない。

 あの辺かな。

 そう思った瞬間。

 どすっ、と鈍い音がした。

 ルナのいた辺り。

 地面に、矢弾ボルトが突き立っていた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第九十五話 抵抗者

【 緋鋼皇國暦1003年 覇竜12年 3月9日 海竜曜日 19:38 七聖学院 厨房 】

 布が裂ける音がした。

 キャサリンは悲鳴を呑み込むしかなかった。

 口を塞がれ、腕を押さえつけられ、背中が調理台に押し当てられる。冷たい木の感触が、薄い衣服越しに伝わった。

 仮面の男が、喉の奥で笑った。

「大人しくしてろ」

 キャサリンの目が、調理台の下へ動いた。何とか腕を伸ばす。集めておいた武器まで届かない。

 キャサリンは空いていた指先を調理台の縁に掛け、身体を捩った。男の手が肩を掴む。その瞬間、彼女は調理台の下へ手を伸ばした。

 届いた。

 何を掴んだかは判らない。とにかく、柄を外側にして取りやすいように置いておく。たったそれだけの、ハリスの小さな気遣いが役に立った。

「この......!」

 振りかぶる余裕はなかった。

 キャサリンは横殴りに、男の顔へ鉄製の肉叩きを打ち込んだ。

 反射的に腕で防がれた。

「ぐっ」

 男の身体が一瞬だけ揺らいだ。

 だが、倒れるに至らない。

 キャサリンは直ぐに手首を抑えられた。

「てめぇ......」

 男の目が、仮面の奥で血走った。

「おい、そこのおまえも手伝え! 押さえろ!」

 入口の扉を塞いでいた三人目の男が、施錠しながら舌打ちをした。

「ああ、分かってる」

 その男が近付いてくる。

 キャサリンは息を詰めた。三人掛かりで押さえ込まれたら、もう抵抗は難しい。

 近付いてきた仮面の男が、腰を落とした。

 次の瞬間。

 ごっ、と鈍い音が厨房に響いた。

「いひゃっ⁉」

 キャサリンの脚を押さえていた男が、変な声を上げた。

 背後から股間を蹴り上げられていた。

「おま、......な、......?」

 何事かと振り返る男の顔面に、フライパンが叩き付けられた。

 殴られた男が崩れ落ちる。

 そのフライパンを握っていた男が、仮面を引き剥がして床へ投げ捨てた。

 無精髭。

 荒れた髪。

 見慣れた、憎まれ口の似合う顔。

「俺のキャサリンに手ぇ出してんじゃねえ!」

「......え⁉」

 驚くキャサリン。

 三人目は、変装していたゴーンズだった。

 ゴーンズは勢いと怒りに任せてフライパンを振り上げ、もう一人の男へ叩き込もうとした。

「なんだてめえ!」

「きゃっ」

 だが、男はキャサリンを乱暴に突き飛ばして床に落とすと、両手でフライパンを受け止めた。

「通りすがりの用務員だよ!」

 ゴーンズが床を踏み鳴らし、肩からぶつかった。

 フライパンを奪い合って、男とゴーンズが厨房の中央でもつれ合う。棚が揺れ、乾ききっていない木皿が一枚落ちて甲高い音を鳴らした。

 倒れたキャサリンは床から体を起こした。

 肩の破れた布を押さえる暇はない。彼女は調理台の端、小麦粉袋に目を向ける。

 男がゴーンズの腹へ膝蹴りを入れる。

 ゴーンズが歯を食いしばった。

「この野郎......!」

「どけ、髭面!」

 男にフライパンが奪われた。

 その瞬間、キャサリンは粉袋を両手で掴み、中身を男の顔へ叩きつけるように投げた。

 白い粉が爆ぜた。

「うわっ、目が!」

 男が仮面の隙間を押さえる。

 ゴーンズは逃さなかった。

 膝を沈め、下からの拳アッパーカットを突き上げる。

 男の顎が衝撃に跳ね上がった。

 仮面がずれ、男の身体が後ろへ倒れる。背中が流し台にぶつかり、そのまま床へ沈んだ。

 厨房に、荒い息だけが残った。

 ゴーンズはしばらく拳を握ったまま、倒れた男達を見下ろしていた。二人とも動かない。完全に気絶している。

 キャサリンは破れた肩口を押さえ、ゴーンズを見た。

「......助かりました。ありがとうございます」

「礼なんざいい」

 ゴーンズは顔を背けた。

「ふう。気になったから、ついて来てよかったぜ」

 キャサリンは、転がった木皿、小麦粉にまみれた床、転がる仮面を見た。それから、ゴーンズの横顔へ視線を戻す。

「ところで、さっき」

「......何だ」

「俺の、って言いました?」

 ゴーンズの肩が止まった。

「うっ、それは......」

「言いましたよね」

「言葉のあやだ」

「そうですか」

「そうだ」

 キャサリンは少しだけ笑った。


【 同日 19:42 七聖学院 講堂準備室 】

 講堂準備室は、本来なら舞台道具や備品を置くための部屋だった。しかし、今は校長室から持って来た来客用のソファ、寄宿舎からかき集めた布団やクッション、厨房から持って来た料理、酒瓶、その他の雑多な物で溢れていた。

「それで、見逃して欲しいと嘆願に来たわけか?」

 ヴネオンが言った。ソファに座り、寛いだ姿勢で、机に両足を乗せている。

 つばめは、肩を落とす。表情は弱く、声は低い。

「ええ、そうよ。マディアラス・ヴネオン、あたしを含めて、貴方の考えに賛同する者もいるって話。......ヴェナリス皇帝のこと、嫌っている人もいるの」

「あの男を嫌う者など、吐いて捨てるほどいるだろうさ」

「だったら、そんな者達を殺す必要はどこにも無い」

 ヴネオンは頭の後ろで両手を組んで枕にした。

「だが、おまえ達は恩恵を受けている。嫌ってはいようと、皇族家の者と学院に通い、貴族として裕福な暮らしを行っている。その断罪を願う者は多い」

「あの子達の立場なら、それは仕方がないじゃない」

「修道女シスター、そもそも君は勘違いをしている。私は政治になど興味はない」

「そう。やっぱりね」

 つばめは、一歩だけ近付いた。

 どんな防御魔法が仕込んであるかも分からない。目的が悟られてもいけない。

 近付き過ぎない。警戒されない距離。

「禁断の知識神マドネの信徒。あなたにとっては皇宝具インペリアル・レガシーを手に入れる事がすべて。政治的な不満は、人を雇うための方便。......そうなんでしょ?」

 ヴネオンの金色の目が細くなった。

「気付いていたか」

「それぐらいはね。これでも一応、修道女シスターですもの」

「ふん、確かにそうだ。あれさえ手に入れば、後はどうなろうと知ったことではない。それ程までに、あの強大な力と、神々の知識を独占している皇家は、実に罪深いのだ」

 つばめは答えず、静かに聞いた。

 彼女が隠し持つ魔導具マギテクは、オーレリアの特製品。小型魔法人形ミニ・ゴーレムの部品と、その命令文を模写した金属片プレート、それらを一つの装置として組み上げた。

 作動条件は二つ。

 一つ目の条件、この魔導具マギテクと起爆装置が、至近距離にあること。

 二つ目の条件、その状態でオーレリア自身が有効距離内から遠隔操作すること。

 ヴネオンが背にした壁の向こう。

 部屋の外。

 北側廊下の壁際。

 一度に何名もの女子が北側トイレを使うことで、人為的に行列を作る。大勢の女子達が協力する事によって成立する作戦。

 その最後尾。壁越しの有効距離内で、オーレリアが待機しているはずだった。

「ツバメ・クジョウ」

 ヴネオンが名前を呼んだ。

「我々は邪教ドゥンケの烙印を押されているが、単に無知に対する抵抗者であるに過ぎない」

「無知なる者は、奪われるから?」

「そうだ。情報と教育の格差が、搾取と歪んだ構造を生む。今度は、我々が奪う側に回るべきだ。皇家からも、神々からですら」

「神々も?」

「ああ、そうだ」

 その時。

 つばめの懐で、特製魔導具マギテクがかすかに震えた。

 そもそも、部品取りに使われた小型魔法人形ミニ・ゴーレムは、記録帳を齧る不届き者を撃退するために用意されたものだった。

 けれど、オーレリアが改造し、記録の管理用に文字消去ラディーレンと文図複写シュリフトビルトコピーの機能が組み込まれている。それらはオーレリアが普段から使い慣れている魔導具マギテクであり、機能であった。

 何に対して書き込むかは、事前に術式へ組み込まれている。この場合は起動装置の内部に使われている送信用の制御核部品コントロール・コアだ。

 つばめが対象を選ぶ必要はない。

 詠唱を完成させる必要もない。

 ただ、時間を稼ぐ。

「ツバメ・クジョウ、貴様の信奉する神はなんだ?」

「うーん、緋鋼皇國あけがねこうこくの民だから、緋鋼建国神アーダル様ってことになるんじゃない?」

「なんだ、その言い草は」

「あたし、神様なんていない場所で育って来たから、神格っていう存在は敬うけれど、頼み事はしないの。自分で何とかやって来たから」

「ならば今回も、自分で何とかすると?」

「そうよ。今は神格なんかに頼むより、あなたに頼む方がずっと話が早いから、そうしてるだけ」

 ヴネオンは、声を立てずに笑った。

 つばめは、ヴネオンから目を離さなかった。

 魔導具マギテクの微振動は続いている。
 
 文字消去ラディーレン。

 起爆装置に記されていた命令文が、音もなく薄れていく。しかし、完全に消えてしまえば、保護用の呪文書式スクリプトが異常を拾う。

 文図複写シュリフトビルトコピー。

 消去と同時に、オーレリアが金属片プレートに写した命令文が、起爆装置側の制御核部品コントロール・コアへと書き足されていく。

 途中で構文がおかしい事になる。しかし、起動する前であれば、それは問題視されない。呪文書式スクリプトの不在こそが警告対象であり、オーレリアはその構造を熟知していた。

 一文字。

 一文字。

 順番に、丁寧に、書き足されていく。

 ヴネオンの笑いが収まった。

「面白い女だ。少し考えておく」

「うん、そうして貰えると助かるわ」

 つばめは、催促するように片手を差し出した。

「それで、その答えはいつ貰える?」

「今すぐは出せんな」

「そう。残念」

 差し出した手を戻して、つばめは大きな溜め息を吐いた。

「だが、貴様は殺すには惜しい。美貌だけではない。その考え方も」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 最後の線が、制御核部品コントロール・コアへ刻まれた。

 魔導具マギテクのかすかな震えが止まった。

 上書きは完了した。

 つばめは、ようやく小さな息を吐いた。

「では、戻っていいかしら。子供達が心配なの」

「行け」

 ヴネオンが手を振った。

「だが、修道女シスター。私を騙せると思うなよ」

「怖いことを言うのね」

「事実だ。裏切者は殺してきた」

「覚えておくわ」

 つばめは軽く頭を下げ、講堂準備室を出た。

 扉が閉じる直前、起爆装置は何も変わらない顔で、机の上に置かれていた。


【 同日 20:16 七聖学院西側 本部天幕 】

 天幕の外で、鎧の金具が鳴った。

 ヴァルク・ラドーレ。
 エイデン・アインホルン。

 幕が上がり、衛兵の装備を身に着けた二人が入って来る。

 エドワードが一度だけ目を細めた。

「意外と似合ってるじゃないか」

 エイデンが袖口を整えた。

「新人の頃を思い出す」

 ヴァルクは肩を回し、借り物の胸当てを軽く叩いた。

「ほんに懐かしいのう」

 クラウゼン大隊長が腕を組む。

「マナ殿下、マギ殿下の頼みでなければ、こんな特例、承知できんという事を忘れるな。伝説の騎士とやらが、どれほどのものかは知らないが......」

 エリーが目を丸くした。

「えー? 知らないんですか?」

 エリーは、ヴァルクの隣に来て、その腕にしがみついた。

「女性隊員の間じゃ、噂ですよお?」

 エイデンが、横目でヴァルクを見る。

「相変わらずの人気者だな」

 エリーが上目遣いで見上げる。

「あのぉ、サインとか貰ってもいいですかぁ?」

 ヴァルクは困ったように眉を下げた。

「そういうがは苦手なんじゃが、とりあえずこん事件ば片付いてからにゃあ」

「やったぁ」

「人気者だな」

「二回も言わんでえい」

 天幕の外から、衛兵が駆け込んできた。

「報告!」

 エドワードが地図から顔を上げる。

「掘削班から報告。学院北側で、地下坑道を発見しました!」

 天幕の空気が変わった。

 アルフォンスが、地図上の北側を指で押さえる。

 エドワードは一度だけ頷いた。

「これで、後は報告を待つだけだ。そうだね?」

 天幕の端。

 椅子に座っていたローティが、ゆっくりと顔を上げた。

 額の包帯はまだ痛々しい。だが、その目は沈んでいない。

「ああ」

 ローティは頷うなずいた。

「俺たちは負けない」

 少しだけ間を置き、口の端を上げる。

「ヴァンの言葉だ」


【 同日 20:45 七聖学院 北側トイレ 】

 外はもう暗い。さっきまで廊下を埋めていた女子達の列も、今はない。

 廊下の明かりはトイレの奥まで届かず、窓の向こうに広がる芝生は、夜の色に沈んでいる。

 ハリエットは、ルナを抱えて個室へ入っていた。

 便座の上に乗り、背伸びをする。

「ヴァン、これ」

 天井の通気口が、ほんの少し開いた。

 汚れた指が伸び、ハリエットの差し出した紙切れを受け取る。

「ハリスの指示?」

「うん」

 ヴァンは開いて中身を読むと、短く息を吐いた。

「分かった。もう行く」

「うん、気を付けて」

 ハリエットは便座から降り、ルナを床に下ろした。

 ルナは尻尾を立て、足元をくるりと回る。

「ごめんね、ルナ。お願い」

「みー」

 ハリエットは首輪の代わりに、細い首紐をルナへ結んだ。小さく折り畳んだ紙を、濡れないよう油紙で包み、首紐に括り付ける。

 そして膝をつき、ルナの額に指先を置いた。

「小さき生命いのち、小さき足よ」

 白っぽい黄緑色の淡い光が、指先に灯る。

「この糧を受け、我が願う道を辿れ」

 ルナの耳がぴくりと動いた。

「森の陰を抜け、草の露を越え、風の匂いを道しるべとせよ」

 ハリエットの声は、祈りのように低く、柔らかかった。

「――動物伝令ティーアボーテ」

 ハリエットが目を閉じ、心の中で言葉を紡ぐ。

 ルナの瞳に、小さな光が宿った。

「さあ、行って」

 ハリエットは窓を少しだけ押し開ける。

 ルナは窓枠へ飛び乗り、隙間から外へ滑り出た。

 小さな身体が芝生へ降りる。

 夜の草の上を、音もなく走っていく。

 ハリエットは窓に顔を寄せ、目を凝らした。

 暗くてよく見えない。

 あの辺かな。

 そう思った瞬間。

 どすっ、と鈍い音がした。

 ルナのいた辺り。

 地面に、矢弾ボルトが突き立っていた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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