五
仄暗い微睡みの中、ミカエルシュナはもがいていた。
起きなければならない。起きなければならないのに、身体が言うことを聞かない。手足が持ち上がらず、まぶたすら開くことが叶わなかった。
それでも、起きなければ、という漠然とした思いがずっとあった。
一体どれほどの時間そうしていたのだろうか。不意に、意識がはっきりとした。次いで、身体の感覚が戻ってくる。ミカエルシュナは呼吸を忘れたかのように荒い息を漏らした。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯っあ」
漏れ出た声は、かすれていた。自分のものではないかのような声に、一瞬驚く。だが慎重にまぶたを開け、周囲を確認した時には、そんな驚きも些末と化した。
「え⋯⋯?」
ミカエルシュナは戸惑いの思いで眼前の風景を眺めた。
ミカエルシュナは、仰向けで寝ていたらしい。視界には空が見える。
だがその空は、オーロラのように様々な色で煌めいていた。
ミカエルシュナは恐る恐る起き上がる。一瞬身体がきしんだが、それもすぐに消え失せた。そして、自分が寝ていた場所が咲き誇る花畑であることに気が付く。
「ここは⋯⋯どこ?」
一面の色とりどりの花畑。そしてオーロラの空。見覚えの無い風景に、ミカエルシュナは混乱するしかなかった。
”起きまシタね”
突如、背後から柔らかな声がかけられた。
とっさに手に持っていた剣を──幸か不幸か、武装はそのままだった──構えて振り返ったミカエルシュナは、その姿を見て肩の力を抜いた。
「貴女──ティターニア」
”はい。お久しぶりでス、姫君”
現れたのは、緑の肌に蔓の髪、白目の無いピンク色の瞳をした精霊だった。
彼女はティターニア。代々ルフェ家と契約している精霊である。
遠い祖先と交わり、それによってずっとルフェ家を見守り続けていた彼女は、なぜかミカエルシュナを姫君と呼び、個人的に契約していた。理由を訊いても答えてくれないため、今ではそう呼ばれることを受け入れている。
”ココは、私の領域。眠りの封印に就いタ貴女を、ココで保護していまシタ”
ティターニアの言葉に、ミカエルシュナははっとした。
「そうだ⋯⋯辺境が襲われて⋯⋯すぐ戻らないと」
立ち上がったミカエルシュナを、ティターニアは押し留めた。
”落ち着いテ、姫君”
「落ち着いてなんていられないわ! 民が⋯⋯領地が危機にさらされているのよ⁉」
”ソノ危機は、スデに去りまシタ”
「⋯⋯え?」
”姫君にトッテは酷なことデスが、ルフェ領はスデに無いのデス。それドコロか、アヴァロン王国自体が、もう存在しまセン”
ティターニアの表情は変わらない。現れてからずっと無表情である。精霊には表情を変えることができる者が少ないのだ。
だが、その声は沈痛な響きがあった。
「無い⋯⋯? ど、どういうこと?」
ミカエルシュナはあえぐような声を上げた。そんな彼女に、ティターニアは残酷な現実を告げる。
”姫君が眠っテいたのは、千年デス”
「せん⋯⋯ねん⋯⋯?」
”千年の間ニ、世界は大きク変わりまシタ”
千年、と繰り返し、ミカエルシュナは呆然とした。
千年も眠っていた、と言われても、ぴんと来ない。ミカエルシュナの感覚では、あの惨劇はつい先ほどのことのように思えるのに。
だがティターニアは、そんなミカエルシュナに現在を告げる。申しわけなさげに、しかしはっきりと。
”今、かつてのルフェ領を治めているノハ、ニーベル公国という国で、ソコの王ハ、ドワーフでス。できて八百年ほどの国でス”
「待っ⋯⋯て。八百⋯⋯千、年? 付いて、いけないわ。どうしてそんな、ことに」
”姫君は、フローディア様にヨッテ封印措置を受けていたのでス。貴女を守るたメに、致しかたナク。これは、ゴロワントの願いデモありマス”
「お父様、の?」
”ゴロワントは、死の間際に祈りマシた。どうか娘と領地を守ってホシイと。結果、姫君は眠りに落ち、領地は二百年ホド茨に覆われたノチ、ドワーフにヨッテ開拓されまシタ。姫君の身体は、我々精霊が保護してイタのでス”
ゴロワントもまた、フローディア女神の神官でもあった。祈りが聞き届けられることはあり得なくないだろう。
ティターニアの話が進むにつれ、ミカエルシュナはだんだんその言葉が嘘ではないことを悟りつつあった。だが、未だそれを飲み込むことはできない。喉につっかえるように、理解することを拒んでいた。
「そんな⋯⋯そんな、こと⋯⋯」
”ナゼ今姫君が目覚めたノカは解りませンが、何か意味がアルのでショウ。⋯⋯姫君?”
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
”⋯⋯目覚めたバカリで、状況が飲み込めナイでショウ。しばらく、お休みしてクダサい”
気遣わしげにそんなことを言って、ティターニアは姿を消した。それを見送ったミカエルシュナは、膝を抱えてうつむく。
「領地が、国がもう無い⋯⋯」
それはつまり、故郷が消えてしまったことに等しい。それにティターニアは領地を守ったとは言っても、領民を守ったとは言わなかった。
つまりは、そういうことなのだろう。
「う⋯⋯くっ」
ミカエルシュナは膝に目を押し付け、こぼれてくる涙を何とかこらえようとした。それでも、ほろりほろりと流れてくる涙を止めることはできない。
ミカエルシュナはしばらく、声を押し殺していた。
───
しばらく声無く泣いていて、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。ミカエルシュナはため息をついて、魔法で出した氷でまぶたを冷やす。
涙を流したのは、母の死以来だ。あの時はある程度覚悟していたが、今は全く心構えができていないのに聞かされてしまった。
──いいえ。心の中では、もしかしてと思っていたわ。
ミカエルシュナは自嘲の笑みを浮かべた。
何しろ、ミカエルシュナが気付いた時には、もうどうしようもない段階になっていたのだ。もっと早くに気付けていたら、精霊がもっと早く教えてくれたら──そう思わなくはないが、それだけトリストラムの行動が迅速だったのだろう。何しろ、辺境の兵士達がなす術がなかったのだから。
「断られた時点で、滅ぼすことが決定していたみたいだわ」
ふと呟いた言葉が、にわかに現実味を帯びた。おそらくトリストラムは、ミカエルシュナ達の前に現れた時点で騎士団を連れてきていたのだ。
交渉が決裂すれば、すぐに連れてこられるように。
なぜそうまでしてミカエルシュナを連れていこうとしたのか──なぜそんな侵略めいたことをしたのか、今となっては解らないが。
「はあ⋯⋯考えてもしょうがないのかしら」
もし本当に、あの日から千年経っているというのなら、ミカエルシュナは現世において完全な異邦人だ。言語も文化も変わっているだろうし、その中で生きていくのは難しいだろう。
言葉だけなら、風属性の妖精魔法で互いの言葉を伝え合うものがあるため、難儀することはないだろう。だが文字などはどうしようもない。
それに千年も経てば貴族として学んだ常識も変わってくるはずだ。そもそも貴族という概念が残っているかも怪しい。
「⋯⋯何にも無くなってしまったのね、わたくし」
ミカエルシュナが再び膝に顔を突っ伏した時だった。
「っ⋯⋯⁉」
突如、肌をぴりぴりとした感覚が襲った。まるで殺気を向けられているような感覚に、思わず顔を上げる。
「何⋯⋯?」
ミカエルシュナは慎重に立ち上がり、周囲を見回した。だが美しい風景に変わりはない。
──気のせい? いやでも、今も感じるこの気配は⋯⋯
ミカエルシュナが首を傾げていると、滑るようにティターニアが現れた。
”姫君、大変”
「どうしたの?」
”ニーベル公国が、攻撃されてイマス。その隣にある国の⋯⋯国境? にマデ、魔物が”
「なっ」
ティターニアが言い終わらないうちに、ミカエルシュナは詰め寄った。
「ティターニア、今すぐわたくしを現実世界に戻して」
”姫君なら、そう言うト思いまシタ。でも、ヒトツだけ確認を”
ティターニアは押し留めるようにそっとミカエルシュナの二の腕に触れた。
”これカラ、姫君は完全に知らナイ世界に出るコトになりまス。知り合いもヒトリとしていない世界に”
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
”それデモ、現実に戻りマスか”
「⋯⋯愚問だわ」
ミカエルシュナはきっぱりと言い放った。
「わたくしの故郷が無くなったとしても、わたくしが成すべきことは変わらない。弱き民を守る。たとえ何年経とうとも、その意思は変わらないわ」
”⋯⋯そうデスか。解りマシた”
ティターニアは頷き、手を振るった。
何も無い空間から、突如ぽっかりと穴が空く。その先にはぼんやりと、外の風景らしき物が見えた。
”ココから国境に出られマス。ご武運を”
「ありがとう!」
ミカエルシュナは礼を言って穴に飛び込む。迷いは、無かった。