第1話 成長した彼らは、もう雛鳥ではなかった
マーニは、気持ちよさそうに眠るソルを見下ろし、いたずらな笑みを浮かべた。
「朝だーっ!」
カーテンを勢いよく開け放つ。
容赦ない日光が室内に雪崩れ込み、ソルはうめき声とともに布団をかぶる。
その様子を見て、マーニは腰に手を当てた。
「ソル。昨日、約束したじゃない」
布団の山から、のんきな欠伸がひとつ返ってきた。
「......そっか。今日は父さんが帰ってくる日だったな」
どさり、と布団がめくれる。
「よっと!」
ソルはがばっと上半身を起こし、マーニに顔を向けた。
「マーニ、おはよう!」
「おはよう」
朝の挨拶をしたふたりは、16歳に成長していた。
額の右側に古傷のあるソルと、肩まで伸びた髪を青いリボンで纏めたマーニ。
「私が部屋の掃除をするから、ソルは食材の調達」
「おう、すぐ支度する」
ソルは手早く朝の支度を済ませた。
古くなった皮の胸当てを身に着け、継ぎ接ぎのカバンを背負う。
出がけに、マーニが背中へ声を投げた。
「父さんの分も忘れずにね!」
「わかってるって。行ってくる!」
親指を一本立てて、玄関のドアを閉める。
納屋でふたりが子どもの頃に使った木剣を見て、息を吐いた。
「また、あの日の夢を見てしまったな......」
使い古した斧を手に取り、外へ出る。
すれ違う村人と挨拶を交わしながら村を抜けた。
ふたりが生活している村は、孤島村と呼ばれている。
人口は100人あまり。
互いに助け合い、自給自足をしながら生活を送る彼らは、国の援助を受けることで成り立っていた。
ソルの旅装束も、その一つだ。
しばらく歩いていると、木々のざわめきが耳に届く。
ソルは深呼吸をひとつして、足を進めた。
果実、キノコ、野草を潰れないようカバンに詰め、見慣れた木の根元に下ろす。
「あとは肉か」
奥へ向かい、耳を澄ませた。
微かに舞う羽音を頼りに歩いていると――ソルは足を止め、口角をわずかに上げる。
視線の先で、全長数十センチはあろう虫が一匹、ふらふらと飛んでいた。
縞模様のない黄色の体のあちこちに傷を負った、琥珀蜂だ。
群れで行動する肉食虫だが、その攻撃的な性格から同士討ちが起きることがある。
傷を負った個体は群れからはぐれ、仕留めやすい。
ただし、傷を負った個体がいるということは、群れが近くにいる証拠でもあった。
ソルは音を殺して背後に忍び寄り、呼吸をひとつ挟んで斧を振り下ろす。
ぐしゃり。
殻が砕け、羽音が消えた。
ソルは琥珀蜂を踏みつけ、斧を引き抜き、再び振り下ろして針を切断する。
死を確認してから拾い上げ、足早に木の根元へ戻った。
群れに見つかれば厄介なことになる。長居は無用だった。
腰を下ろし、慣れた手つきで関節を捻じって羽根を毟り取る。
殻で出汁が取れ、中の肉は臭みが少なく柔らかい。
村では貴重な食糧源――山の甲殻類と呼ばれるゆえんだ。
羽根以外をカバンに詰め、土埃を払って立ち上がった。
*
「――ただいま」
家の中では、野菜の下ごしらえを済ませたマーニが椅子に座り、魔法史の本を読みながらソルの帰りを待っていた。
「おかえり」
ソルは収穫物をテーブルに並べながら、彼女の横顔に視線を送る。
「あのことを話せば、父さんは反対するかもしれない」
マーニは本を閉じた。
静かに、しかしはっきりと頷く。
「私はもう子どもじゃないんだよ。父さんだって、きっとわかってくれるはずだよ」
マーニはまっすぐソルを見た。
「ソルのほうこそ、あの約束を忘れていないよね?」
「ああ」
ソルは腕を組んだ。
「俺がお前を守る。そのために、特訓を兼ねて森で狩りを始めた。だから、マーニ――自分の口で言うんだ」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから柔らかく微笑む。
「ありがとう、ソル。少しでも父さんの機嫌を取るために、今日は腕によりをかけて美味しいご飯を作るよ」
「俺も手伝うよ。何をすればいい」
「琥珀蜂の下ごしらえ、お願い」
「おう、任せろ!」
ふたりは狭いキッチンで、横並びで料理を始めた。
*
――昼過ぎ、玄関のドアが開いた。
古びた外套を纏った男が帽子を脱ぐと、40過ぎの痩せこけた顔が覗く。
旅の疲れが滲んでいた。
それでも、ふたりの顔を見た瞬間――男は満面の笑みを浮かべた。
ケイン・アルヘイナ。
ふたりの父親で、考古学の研究者だ。
「ソル、マーニ、ただいま」
「父さん、おかえり」
ふたりの声が重なった。
マーニが続ける。
「もう少しでご飯ができるから、着替えてきて」
「もうお腹ぺこぺこだよ」
ケインは鼻をひくつかせ、微笑んだ。
「琥珀蜂のパイと肉団子のスープだね。僕の大好物だ」
「うん、父さんが好きなものを用意したよ」
ふふっと笑い、ケインは自室へ向かう。
その背中が見えなくなった瞬間、ふたりは顔を見合わせた。
ただ、力強く頷き合う。
テーブルに料理を並べ、三人が席についた。
久しぶりに揃った食卓に、温かい湯気が立ち上る。
ケインは料理に手をつける前に、静かに咳払いをした。
「食事の前に」
穏やかな声だった。
それでも、マーニの背筋がわずかに伸びる。
「ふたりは僕に、話があるんじゃないのかな」
沈黙が落ちた。
マーニはテーブルの上で手を握り、ゆっくりとケインを見る。
「父さん......」
一度、息を吸う。
「私、始原の故国エレメンティアへ――行きたいの」
ケインの眉が、わずかに動いた。
マーニは続けた。
「歴史に、違和感を覚えたの」
ケインの目つきが変わった。
「続けなさい」
その口調は、父親のものではなかった。
教師が生徒を試す声だった。
「今から数百年前、大賢者オルディアスは火・水・風・地を四理に定義した。その100年後、賢者ヴェルナートは炎・氷・雷を三象に定義した。――私は、この順序が逆だと考えているの」
ケインは顎にそっと手を当てた。
「賢者ヴェルナートの歴史資料は残っている」
「でも、大賢者オルディアスの資料は――残っていない」
静寂が落ちた。
「確かに、大賢者オルディアスについては謎が多い」
ケインは小さく息を吐いた。
マーニの言い分は、あくまで可能性の話だ。だが、ゼロではない。
もし否定してしまえば、ケイン自身がこれまで研究してきたすべてを、己の手で否定することになる。それだけはできなかった。研究は、ケインの人生そのものだった。
それに――ふたりにはずっと寂しい思いをさせてきた。
論文に夢中で、まともに会話もできなかった。学会で留守にすることも多かった。
ケインは静かに、心の中で頷く。そして、目尻を下げた。
「ふたりが剣に興味を持ったのは――6年前だったかな」
マーニは首を横に振った。
「8年前だよ。非力な子どものままだと、きっと父さんは許してくれない。だから、ソルと相談したの」
ケインはしばらく黙って、ふたりの顔を見比べる。
「――いいよ」
静かな、しかし迷いのない声だった。
「行ってきなさい。だけど、これだけは忘れないでほしい」
静かに目を閉じ、柔らかく笑った。
「成長したとはいえ、ふたりは僕の子どもだよ」
ソルが胸元を叩いた。
「俺がマーニを守る。無理だと判断したら、すぐに引き返す。だから安心してよ、父さん」
ケインはふたりの表情を見て、ゆっくりと首を縦に振る。
「料理が冷めてしまう前に、食べようか」
*
――食事を終えると、ケインは咳払いをひとつして、テーブルの上で手を組んだ。
「ふたりに――セラのことを話しておこうと思う」
ふたりは顔を上げた。
「馬車で事故に巻き込まれた、というのは嘘だったんだ」
ふたりは黙った。
ケインは目を伏せたまま、続ける。
「10年前、北部平原の調査のために、ルミナルディアへ向かったきり――帰ってこなかったよ」
マーニが、恐る恐る口を開いた。
「それって......エレメンティアを、探すため?」
「当時、腕に覚えのある者が202名招集され、調査隊が編成された」
ケインの声が、わずかに揺れる。
「だが、生還したのは81人だった。その中に......セラの姿は、なかった」
目頭を押さえた。
「ずっと隠していたのは――ふたりを、北部平原へ近づけたくなかったからだよ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「僕は、酷い父親なのかもしれない。危険だと知りながら、ふたりを死地へ送ろうとしている」
ソルが、勢いよく立ち上がった。
椅子が鳴る。
「父さん、約束するよ。必ず、ふたりで帰る」
「私もソルも――危ないことはしない。約束するよ」
ケインはため息をつき、無理やり笑顔を作った。
「ふたりのために、準備をしてくるよ」
背中を丸め、そのまま自室へ消える。
部屋にふたりきりになった。
「ソル......」
マーニの不安が、声になって漏れる。
「今さら、やめるなんて言わないよな」
マーニは俯いた。
テーブルの上の自分の手が、震えていることに気づく。
「危険は、承知の上だ」
ソルの拳も、震えていた。
マーニはそっと視線を上げる。
ソルの唇が、わずかに震えていた。
「母さんの話は――確かにショックだった。だけど、マーニが決めたことなら俺はついていく。そう約束したからな」
歯を食いしばり、拳を握り締める。
「ごめんね、ソル。私、少し弱気になっちゃった」
ケインが戻ってきた。
その手に握られていたのは――二本の剣だった。
「ふたりが村を出る際に必要になると思って、以前から用意しておいたんだ。それが、今日になるとは思わなかったけどね」
ふたりは無言で、差し出された剣を受け取る。
「今から船着き場へ向かえば、夕方の船に間に合うだろう」
ケインはポケットから硬貨の詰まった布袋を取り出し、マーニに手渡した。
「無駄遣いをしてはいけないよ。お金が足りなくなったら、口入屋で仕事を探すんだ」
ふたりは力強く頷いた。
「ふたりは旅支度をしてきなさい。後片付けは僕がしておくよ」
「行こう、マーニ」
「うん!」
自室へ向かうふたりの背中を見送りながら、ケインは肩を落とした。
「セラ、本当にこれでよかったのかな。ふたりにとって、僕はいい父親だったのか――わからないよ」
廊下から足音が聞こえてきて、ケインは慌てて背筋を伸ばす。
カバンを背負ったふたりが、ケインの前で足を止めた。
ケインはふたりの頭に、そっと手を伸ばす。
「これからふたりはいろんな人と出会う。道中、困難にぶつかることもあるだろう。だが、それらはふたりにとって貴重な経験になる」
一拍置いて、続けた。
「この冒険を――楽しんできなさい」
ふたりの表情から、固さが消えた。
「ソル、わがままを言って、マーニに困らせてはいけないよ」
「父さん、それは昔の話だろう」
「ははっ、そうだったね」
ケインはふたりの頭から手を離した。
その手が、一瞬だけ空中で止まる。
「ふたりの冒険譚を――待っているよ」
ふたりは力強く頷いた。
「うん。いってくるよ、父さん」
「父さん、いってきます」
扉が閉まった。ふたりの足音が、遠ざかっていく。
旅に同行してやりたかった。だが、この家には沢山の思い出が詰まっている。もしセラが帰ってきた時、出迎えてやれる者が誰もいなくなってしまう。
生還者の中にいなかったというだけで、彼女が死んだわけではない。
ケインはしばらく動かなかった。
静かになった空間で、胸にぽっかりと穴が空く。
やがて、ひとりきりの家の中で――
涙が、頬を伝った。