予兆
この国には、死んだ者を蘇らせる神の力の通り道、神道―― がある。
神道が太い土地では、多くの死者が蘇り、細い土地では、その奇跡はまばらにしか起こらない。
一度死んだ魂は、神の国へと続く、魂の川に還る。
神はその川から魂を掬い上げ、気まぐれに人の身体へ返す。
そうして蘇った者は、けして完全な『その人』ではない。
それでも人は、それを救いと呼ぶ。
たとえ、魂の形が変わっていても。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
軍の広大な駐屯地を抱える『駐屯都市』――ここは、近隣の街や村よりも人が多く、旅人の往来も絶えない。
街の南側にある住宅街の一角に、白い大きな建物がある。昔からこの街にある、私設の医院だ。
道沿いには小さな庭があり、背の高い木の下にベンチが置かれていた。
クロードは、簡素なシャツとズボン姿で、そのベンチに寝そべっている。整えていない短い銀髪が額にかかり、くすんだ灰色の瞳は気だるげに伏せられていた。
その傍らでは、禿げ上がった頭に白衣を引っかけた腹の出た老人――この医院の医院長が、椅子に座って昼間から酒を飲んでいる。
先日、友人のザックの蘇生に関わって以来、クロードの胸には、神道痕の奥に鈍い熱を帯びた痛みが残ったままだ。
しばらくは様子を見るべきだと医院長に言われ、今はこの医院で療養している。
「どうじゃ、クロード。お前さんも付き合わんか?」
医院長が酒瓶をクロードへ傾ける。クロードは首を振った。
「療養しろと言ったのは、アンタだろう」
「まじめなだけではモテんぞ」
医院長は肩をすくめ、自分のグラスに酒を注いだ。
「クロードくん、クロードくん」
静かな時間を消し飛ばす声に、クロードは眉を寄せ、薄く目を開けた。
上から覗き込んでいたのは、痩せた男だった。関節が浮いて見えるほど細い身体に、まるで合っていないぶかぶかの衣をまとい、肩を過ぎるぱさついた金髪をだらしなく垂らしている。前髪は右側だけ長く、目を隠していた。
「......なんだ。薬師」
「ふふっ、その後体調はどうかね」
『その後』が何を指しているのかは明らかだった。
ザックの蘇生のことだ。
クロードはあからさまな嫌悪をこめて、薬師を睨みつける。
「暇なんだろう? 療養なんてつまらない。そうだろう? そうじゃないかね?」
「それはアンタの考えだろう」
「いいや、僕には見える。君の顔にはねぇ、退屈とちゃあんと書いてある。はっきりと。フヒヒ」
「薬師。ワシの患者に、そう絡むな」
医院長が半ば呆れたようにたしなめた。
薬師はその言葉に、ぷいとクロードから離れると、医院長の椅子の横の地面にあぐらをかく。
「医院長ー。ひまー」
「医者と薬師が暇なのは、いいことじゃ」
クロードも、持て余した時間を埋めるように、通りを行き交う人々を眺めていた。
その中に、足を重たげに引きずって歩く老人の姿が見えた。年のせいか身体は痩せている。だが、ハーフパンツから出た足が妙に太く、杖を握る腕も不自然に膨れて見えた。
「......?」
クロードは身を起こし、その老人を目で追う。妙に、老人が薄暗く見えた気がして、胸の奥がざわつく。老人はやがて角を曲がり、見えなくなった。
「どうした? クロード」
医院長の呼びかけに、クロードは「......いや」とだけ答える。
気のせいかと視線を戻しかけた時、また胸がざわついた。
辺りを見回すと、壁にもたれて煙草を吸っている痩せた女が目についた。時折、苦しそうに咳き込んでいる。
陽の当たる場所にいるはずなのに、その女だけが妙にうす暗く見えた。
「目の調子がおかしい」
クロードが医院長にそう言うと、薬師が興味深そうに目を細め、すぐに側へ寄ってきた。
「どうおかしいんじゃ?」
「あそこにいる女だけ、暗く見える」
口にしてから、自分でも妙なことを言っていると思った。
視界の一部が暗いなら、まだ目の不調として分かる。だが、特定の人間だけが暗く見えるなど、どう考えてもおかしい。
医院長はクロードが指した女を見たが、特に周囲より暗いようには見えなかった。
「あと、さっきそこの角を曲がって行った爺さんも、暗く見えた」
「ほうほう。暗く見える範囲があるんじゃなく、暗く見える人物がいるのかい。いいねぇ。興味深い。実に実に興味深いよ、クロードくん」
薬師は顔がぶつかりそうなほどクロードへ顔を寄せ、その目をじかに覗き込んだ。
あまりの近さに、クロードは薬師の顔を手のひらで押しのける。
「眼球はなんともないねぇ。ならば、なにかを感じているのではないかな?」
「なにかとは、なんだ?」
「そうだねぇ......たとえば、死とか病とかはどうだろう?」
「くだらん」
「おやおや。その身に超常を宿す君の言葉とは思えないねぇ」
薬師の挑発に、クロードははっとして胸元の服をわしづかんだ。
胸の奥がずきりと痛む。
「お前、なにを知っている?」
「ヒヒヒ......そんなに警戒しなくともいい。僕は口が固い。安心したまえ」
なおも警戒して薬師を睨みつけるクロードの頭を、医院長がぽんと叩いた。
「薬師のことは気にするな」
「そうさ、僕のことよりも、君のここ、なにかあったんじゃないのかい?」
薬師がクロードの胸元を指す。クロードはその手から逃れるように身を引いた。
「診察室で診てみよう」
━━━━━ * * * * * ━━━━━
医院長はクロードを医院の奥にある診察台へ座らせ、胸元を開くよう言った。
「なぜお前もいる?」
ごく当たり前のように診察室へ入ってきた薬師を、クロードは鋭く睨む。
「こいつは神世言が少し読める。こういう時だけは、ワシより役に立つ」
医院長の言葉に、クロードは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
薬師はクロードから預かっていたメモ帳を開き、甲高い声で笑った。
「これが君の神道痕の写しだね? 面白い、面白いじゃないか。ああ......この並びは、この前君が持っていたブレスレットの文字だねぇ。死と魂......ヒヒヒ、それから、これは生だ。さあ、クロードくん。君の神道痕を見せてくれたまえ」
嬉々として催促する薬師に、クロードは嫌々ながら胸元のボタンを外していく。
服の下に下げていた、教会のペンダントも外した。
胸の中央に浮かんでいたのは、男の手ほどの大きさの真円だった。
肌よりわずかに白いその痕には、古い文字が輪をなして刻まれている。五重の円環。その中心だけが、穴のように何も持たず空いていた。
薬師は無遠慮にクロードの胸に顔を寄せる。その左手は診察台の上で、目の前の文字をなぞるように、勝手に何かを素早い動きで書きつけていた。
「これは素晴らしい。ヒヒヒ、なんて素晴らしい。聖女の神道痕でさえ、こんな形は見たことがない」
「聖女の......?」
「知らないかね? 大聖堂都市におわす、神道痕を持つ聖女さまを」
「なぜ、お前が聖女の神道痕を?」
教会の頂点に祀られる聖女、あるいは聖士が、その身に神道痕を持つことは有名な話だ。
だが、それを実際に見た者は、そういない。
クロードの問いに答えたのは医院長だった。
「こいつは多少イカれとるが、薬師としては一番上の資格を持っとる。知識だけなら確かじゃ。......ま、ワシから見ればただのイカれじゃがな」
「最高位......まさか、大典薬師か?」
驚くクロードを、薬師は胸元に顔を寄せたまま見上げた。唇の端をつり上げ、愉快そうに笑う。
「驚いたかい? そうとも。その資格を持つ者は、この国に三人しかいないからねぇ。フヒヒ......大典薬師は、聖女さまや聖士さまに献上する薬の調製も許されているのさ」
薬師の左手は止まらない。まるで指先で書くことで、見たものをそのまま脳に刻みつけているようだった。
クロードは落ち着かない気分で、その奇妙な動きを見ていた。
「......で、なにか分かったか?」
医院長の問いかけに、薬師の左手がぴたりと止まる。
「......違う」
「違う? なにがじゃ?」
「そのメモには、この文字がなかった」
薬師の指が、クロードの胸の神道痕の一部を示した。
「ひと文字だけ、増えている」
「ほう?」
ぎょろりと、長いまつ毛の下の青い目がクロードを見上げる。
「君。蘇生、させたね?」
「......!!」
クロードのこわばった顔を見て、薬師は楽しそうに目を細めた。
「これはおそらく数だよ。君がこの神道痕を使って蘇生させた魂の数......ヒヒヒ。面白いねぇ。実に、実に興味深い」
クロードは薬師から隠すように、急いで服のボタンを閉じた。
「ただし、神世言は形が変わりやすい。同じ数を示す文字でも、いつの間にか別の形に入れ替わっていたり、上下左右が反転していたりする。川を流れる水のように......そう、水のようにねぇ、定まった形を持たないのだよ」
薬師は大仰な身振りで神世言を表現した。
クロードには、それをどう解釈していいのか分からない。
「よくそれで、特定の文字が分かったな」
形も配列も変わるのなら、普通は読めるはずがない。図書館で読んだ文献も、断定できることはほとんど書いていなかった。
「それがねぇ、僕にもはっきりとは分からないのだよ。残念だ......ああ、とてもとても残念だ。......だが、可能性ならある」
薬師は、ひどく温和な笑みを浮かべた。
「僕が過去何度か蘇生した時に、神の一部が僕の魂に混ざった可能性が考えられる」
「お前にも神道痕が......?」
「いや、幸運なことに、僕には神道痕はない。そう――とても幸運なことにね」
薬師は、自分の胸元を軽く押さえた。クロードの神道痕をなぞるような、含みのある仕草だった。
「でも、神世言を見ているとね、たまに頭へ閃くのだよ。天啓のように。ほんの一瞬だけ、神が文字を読ませてくれるんだ」
「それは......」
クロードの言葉は、玄関の扉を激しく叩く音に遮られた。
「先生、先生!! 爺ちゃんが倒れちゃった!! 先生!! 先生!!」
転がり込むように入ってきた少年が、医院長に取りすがった。
「角向こうの家の坊主か。どれ、ちょっと行ってくる」
医院長はそう言い残し、クロードと薬師を診察室に残して出ていった。
「君がさっき暗く見えると言ったご老人かな?」
「......冗談を」
クロードは答えきれず、視線を落とした。
しばらくして、医院の玄関から担架が運び込まれてきた。
担架に乗せられた老人の顔を見て、クロードは固まった。
さっきの老人だ。
もう、息をしていなかった。
「なぁ、なぁ、先生、爺ちゃんは蘇生できるの?」
「残念じゃが、おそらく無理じゃろう。爺さんは内臓を悪くしとった。神は、限界のきた器には魂を戻さん」
「そんな......爺ちゃん、爺ちゃーん!!」
少年は泣きじゃくりながら、ベッドに寝かされた老人に取りすがった。
「薬師、ちょっと教会に報告してきてくれ。蘇生限界まではここで預かる」
「えー? 僕ぅ?」
「さっき暇じゃ、ちゅうとったじゃろが。ほれ、行け」
医院長にしっしっと手で追い払われ、薬師は拗ねたように頬を膨らませた。
「クロードくんと一緒なら、行ってあげてもいいよ」
「クロードも教会まで散歩してこい。いつまでも寝とっても気が滅入るじゃろ」
医院長は診察室から書類を持ってくると、診察証明を書きつけ、クロードに押しつけた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
住宅街を抜けて、大通りに出る。少し行くと専門店の並ぶ商店街があり、さらにそれを抜けると街の中心の広場へ出た。広場には多くの露店が立ち並び、人の声が絶えない。
その広場に面して、白い石造りの教会が建っていた。
高い鐘楼をひとつ備えた端正な建物で、正面には大きな両開きの扉、その上には淡い色ガラスをはめた円窓がある。古びてはいるが、よく手入れされており、この街で長く人々を見守ってきたことがひと目で分かった。
クロードと薬師は、人の行き交う石畳を横切り、その教会へ向かった。
教会の扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
高い天井を支える白い柱が並び、長椅子の向こうには簡素な祭壇が見える。色ガラスを通した光が床に淡く落ち、祈りの場らしい静けさを作っていた。
だが、入口脇には帳簿を置いた机があり、壁際には記録棚も並んでいる。ここがただ祈るだけの場所ではなく、死と蘇生を扱うこの国の教会なのだと、あらためて感じさせた。
クロードは帳簿に名前を書き、受付に医院長から渡された診療証明を提出した。
事務員は書類に目を通し、慣れた手つきで脇の書類箱へ差し入れる。それだけで、この街では死も蘇生も珍しくないのだと知れた。
用が済むと、薬師が祭壇の方へ顎をしゃくった。
「祈っていくかい?」
「いや」
フラップキャップのつばの下で、クロードは静かに祭壇を睨んだ。
白く整えられた祭壇は、何も知らぬ顔でそこにある。
クロードはそのまま踵を返し、教会の外へ出た。
人々で賑わう露店広場へ戻る。
客引きの声が飛び交い、果物や野菜、焼いた肉や煮込みの匂いが漂う。荷車の軋む音も絶えない。
教会の外は、人の死など素知らぬ顔だ。
クロードも、その喧騒の中へ身を置いた。
広場の一角に、人だかりができていた。
「さあ、さあ、皆さんご覧ください。こちらは、やすらぎの薬。疲れをとり、安らかな眠りが得られます」
慣れない口上の薬売りだった。
クロードと薬師は、人垣の後ろからその様子を覗き込む。
「......ほう。あの坊やは」
「坊や?」
薬師の言葉に、クロードは改めて薬売りを見た。
背はクロードより頭ひとつ分ほど低く、痩せている。年も少し下に見える青年だった。
「どれ、僕にもひとつくれないか」
薬師は人混みの中をするりと抜け、薬売りの前に立った。
薬売りの青年は、はっとしたように目を見開いた。さっきまで客に向かって張っていた声が、急にしぼむ。
「だ、大典薬師さま......」
その顔には、憧れと緊張と、見透かされたような怯えがいっぺんに浮かんでいた。
「僕の弟子になりたかった君の、自信作なんだろう? ひとつもらおう」
青年は返事をする前に、わずかに喉を鳴らした。売り物の小瓶を差し出す手が、ほんの少し震えている。
「疲れと不眠に効くのかね?」
「は、はい......」
薬師は粉の入った小瓶を受け取ると、軽く振って目の高さまで持ち上げた。ぎょろりと目を見開き、光に透かすように中身を覗き込む。そしてコルク栓を抜き、匂いを嗅いだ。
「ふむ。ありがとう」
薬師は銀貨を二枚、薬売りに渡して踵を返した。
「大典薬師ってすごく偉い薬師なんだろ?」
「そんな人が買っていくなんて......アタシにもひとつおくれ!!」
「俺にも!!」
クロードは熱狂する人々を見つめ、それから薬師の後を追った。
「クロードくん、ルーペは持ってるかね?」
「ああ」
クロードは腰のポーチからルーペを取り出し、差し出された薬師の手に渡した。
薬師は丸い金属板に挟まれたレンズを起こし、さっき買った薬瓶を覗き込む。
「黄鉱石と白木、サクツの根と......」
「見ただけで分かるのか?」
「さっき嗅いだ匂いで、だいたいはね。細かな粉末は拡大して見ないと分からない」
薬師はルーペをさらに目に近づけた。
「茶褐色の粉......これは何だろうな」
その言葉に、クロードは足を止めて薬売りの露店を振り返った。
銀貨二枚という高値にもかかわらず、飛ぶように売れている。
「どうしたね? クロードくん」
「その薬は大丈夫なのか?」
「普通、薬が売られるまでには何度も試験をする。でないと、何が起こるか分からないからねぇ。売っている以上、試験をクリアした......ということなのだろうさ」
━━━━━ * * * * * ━━━━━
クロードと薬師が医院へ戻ると、ベッドがふたつ、カーテンで仕切られていた。
ひとつは角向こうの老人だろう。もうひとつは――。
「医院長、どうしたんだい? 今日はよく死ぬ日だねぇ」
「クロード、ちょっと来い」
医院長が不機嫌にクロードを呼んだ。
「なんだ」
「この女じゃろ? お前さんが暗く見えると言っとったんは」
少し開いたカーテンの隙間から、ベッドに寝かされた女が見えた。
それを見て、クロードは固まった。
「......なぜ」
「お前さんたちが教会に行って間もなく運び込まれた。もう死んどる」
クロードは呆然と女を見つめた。
女はもう、暗くは見えなかった。
クロードはそれ以上、女の亡骸を見ていられなかった。
老人に続いて、女まで。
あの妙な見え方が偶然ではないのだとしたら、自分の身に何が起きているのか分からない。
薬師の顔を見ているのも嫌だった。
クロードは「少し外の空気を吸ってくる」とだけ言い残し、ひとり医院を出た。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
日はすでに傾き、空は赤く染まっていた。少し肌寒くなった風に、クロードは外套の襟元を寄せる。
「............」
あの暗さは、死の予兆なのか。
考えれば考えるほど落ち着かず、クロードはあてもなく街を歩いていた。
その時、後ろから駆けてきた女の肩が、どんとぶつかる。
「......っ」
クロードが振り向くと、女の背に負われた赤子が目に入った。
その小さな身体だけが、ぞっとするほど暗い。
クロードは思わず足を止めた。
女は露店広場へ向かって駆けていく。
クロードは嫌な予感に駆られ、その背を追った。
広場の露店は、すでに店じまいを始めているところが多かった。人通りも、昼間よりずっとまばらになっている。
女は、片づけをしていた薬売りのもとへ駆け込んだ。
「あのっ、あなたの薬を飲ませたら、この子が起きなくなったの......!!」
突然声をかけられた薬売りは、女の背負った赤子を見るなり、さっと顔色を失った。
「赤子に......飲ませた?」
「ええ。この薬、よく眠れるって、あなた言ってたわよね? だから、飲ませたの」
薬売りは手に持っていた荷物を取り落とした。
「なぜ、赤子に」
「だって、この子、泣いてばかりで全然寝てくれなくて......。私、疲れてたから、あなたの売ってた薬を飲んだの。よく眠れたわ。だから、この子にも......」
「なんて......ことだ」
赤子はぐったりしたまま、まったく動かない。
「おい、あんた。早く医院へ連れて行け。薬師がいる」
クロードが泣き崩れそうな母親に言うと、立ち尽くしていた薬売りがはっと我に返った。
「大典薬師さまがいらっしゃるのか!?」
「ああ。だから早く」
クロードは薬売りと母親を促し、医院へ向かって駆け出した。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
「医院長、薬師!!」
クロードは玄関を開け放ち、そのまま奥の診察室へ駆け込んだ。診察台の横では、医院長と薬師が酒を飲んでいる。
「なんじゃ、慌てて」
「どうしたんだい? クロードくん」
「赤子を助けてくれ......!!」
その言葉に、医院長は聴診器をひっつかみ、診察室を飛び出した。
「赤子を、早くベッドに」
女は泣きながら指示に従う。ベッドに寝かされた赤子は、ぴくりとも動かない。
「どうしたんじゃ」
「あの......私の薬を、その子に飲ませたそうなんです......」
薬売りが青ざめたまま答えた。
そこへ、例の小瓶を持った薬師が現れた。いつもの不遜な笑みは、顔にない。
「これかね?」
「大典薬師さま......」
「君は、薬を売る時に、飲んでいい相手と量を説明したのかね?」
「......まさか、赤子に使うなどと思っていませんでした......」
「ふむ」
薬師は傍らのベッドに小瓶を置いた。
「医院長、僕は薬を調合してくるよ」
「ああ、そうしてくれ」
「坊や、一緒に来たまえ」
薬師の背を追うように、薬売りも部屋を出ていった。
クロードは小瓶の置かれた空きベッドに腰を下ろし、頭をくしゃくしゃとかき回した。
「先生、この子を助けて下さい」
「手は尽くそう」
医院長は診察室から持ってきた注射針を赤子の腕に刺した。
それでも赤子は、指一本動かさなかった。
手際よく、針と点滴の管をつないだ。透明な液体が流し込まれていく。
「クロード、お前さんも顔色が最悪じゃ。そこに横になっとれ」
医院長の言葉で、クロードは自分の身体が小刻みに震えていることに気づいた。指先はひどく冷たく、うまく力が入らない。それでも、クロードは首を横に振る。
「俺は大丈夫だ」
そう言って立ち上がると、泣きじゃくる女をベッドへ座らせてやった。
振り返って赤子を見る。その小さな身体は、まだひどく暗いままだった。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
医院から三ブロックほど離れた住宅街の小さな家の前で、薬師は鍵を開けた。
「入りたまえ。坊や」
狭い室内の壁という壁に、小引き出しの棚が並んでいた。棚は天井近くまで積み上がり、上の物を取るためのはしごが立てかけられている。奥には木のカウンターがあり、その上にも薬瓶が所狭しと並んでいた。
薬師はカウンターの奥へ入った。そこには大量の本や書類、実験器具が雑然と置かれている。
「大典薬師さま......」
薬師は入口で固まっている薬売りを手招きした。
「さぁ、坊やはこれから責任を取らなければならない。分かるかね?」
「......はい」
「よろしい。逃げずにここまで来た君は立派な研究者だ。では、あの薬を中和する薬を作ろうじゃないか」
「大典薬師さま......私は......私は......取り返しのつかないことをしてしまいました。こんな私に、薬を作ることをお許し下さるのですか?」
「君は何を言っとるのかね? あれは君が作った薬なのだろう? ならば、その毒も、効きも、いちばんよく知っているのは君だ。あの赤子を助ける薬を作れるのも、君しかおらん。さあ、来たまえ」
薬売りは目を見開き、それからゆっくりと顔を上げた。
「......はい」
「フヒヒ、その意気だ。では、頑張りたまえよ」
━━━━━ * * * * * ━━━━━
赤子が運び込まれてから、時間がたつにつれ、クロードの焦りは強くなっていった。
赤子は、さっきよりもさらに暗く見える。
クロードは診察室から持ってきた椅子に座り、なるべく顔色を悟られないよう俯いていた。
医院長は定期的に脈をとり、点滴の量を確かめている。
母親は泣き疲れたのか、赤子の横たわるベッドに腰かけ、小さな手を指先で撫でていた。その顔は憔悴しきっている。
「いやー、待たせたね。諸君」
玄関ドアが開き、薬師と薬売りが入ってきた。
「どうじゃ?」
「できたよ。ただ、相手は赤子だ。即興で作ったこの薬がどの程度で効くかは、実際のところ分からん。......どうだね、母君。使うかね?」
薬師は液体の入った小瓶を目の高さまで持ち上げ、軽く振って見せた。
女は赤子を見つめたまま、小さな声で答えた。
「お願い......します」
薬師は唇の両端を吊り上げて笑った。
「赤子の尿はどれくらい出たかね?」
「点滴分は出とる」
「そうかね。じゃあ医院長、三分の一をその点滴瓶一杯の水に溶かしたまえ。まずはそれで様子を見る」
「クロード、奥から点滴瓶を持ってこい」
「ああ」
クロードは診察室のガラス戸の棚から、封の開いていない点滴瓶を取り出した。
それを医院長に渡すと、医院長は瓶の上部の注入口の封を切り、注射器に詰めた薬液を薬師の言う通りの量だけ注ぎ入れる。
つないでいた点滴を新しい瓶へ替え、滴下量を絞った。
薬液が少しずつ赤子に流れ込む。
「ふむ、クロードくん。赤子はまだ暗いかい?」
クロードは赤子から目を離せなかった。
明らかに、小さな身体を覆っていた暗さが薄れていく。
「まだ、暗い」
「フヒヒ......そうかい。『まだ』暗いのかい」
「......ああ。まだ、だ」
「医院長、そのまま続けたまえ」
「こんな治療の仕方は、初めてじゃい」
医院長がクロードの背中をぽんと叩いた。
「変化があったら、すぐ言え」
それから二時間ほど経った頃、赤子の指先がぴくりと動いた。
「あっ」
母親の声の直後、小さな鳴き声が医院に響く。
「もう、暗くない」
クロードの言葉に、医院長は点滴を止めた。
その瞬間、クロードは全身の力が抜け、傍らのベッドへ座り込んだ。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
窓から朝日が差し込み、クロードは目を覚ました。
どうやら、意識を失っていたらしい。
辺りを見回すと、赤子は母親の傍らで静かに眠っていた。
それを見て、クロードは小さく息を吐く。
「気がついたかね?」
薬師は、クロードの横たわるベッドの脇に置かれた椅子に座っていた。
「ああ」
「君のおかげで、貴重なデータが取れた。感謝する」
「助かって、良かった」
「赤子はね」
そう言って薬師は、カーテンが引かれたままのベッドへ目を向けた。
その顔に、いつもの笑みはない。
「神の御力でも、戻らぬ魂はある」
薬師の言葉に、クロードは黙って目を閉じ、黙祷を捧げた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
「さて、今回の薬代についてだがねぇ。坊や、君に支払ってもらおう」
「はい。大典薬師さま」
「良い返事だ。では、このメモにある表通りの薬屋の主人に師事したまえ」
薬師は店の名と紹介を書きつけたメモを、薬売りに渡した。
「あの薬は高価だ。それを支払えるだけの立派な薬師になりたまえ。......その時こそ、僕の弟子にしてあげよう」
薬売りは目を見開いた。
「はい......はい!! 必ず、あなたの弟子になります!!」
薬売りは声を震わせながら、深々と頭を下げた。
薬師は立ち上がる。
「僕も帰って、ひと眠りしてくるよ」
そう言い残し、医院を出ていった。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
昼過ぎ、蘇生限界の過ぎた二人の遺体を、葬送屋と家族が引き取りに来た。
クロードはそれを見送りながら、ぽつりと呟いた。
「神の御力でも、戻らぬ魂......」
服の下にある、教会の小さなペンダントを握る。
「クロード、ワシは寝る。お前さんは飯でも食ってこい」
医院長はあくびをしながら二階へ上がっていった。
クロードはそれを見送り、黙って外套に袖を通した。
━ 終 ━