第16話「人事を尽くす」
熊本の実家のリビングに、ハサミの手入れをする独特の金属音が響いていた。
「だいたい、今回の大会会場は福岡アリーナでしょ? なんで今、実家にいるのよ」
鏡の前でマネキンウィッグの毛先をチェックしていた姫川愛華は、手を止めずに軽快に答えた。
「だって〜、ホテル代浮かしたいし〜。熊本から福岡なんて、朝早く出れば2時間くらいで着くじゃない? 余裕余裕」
「......そう」
弥生はハサミを置くと、穏やかな笑みを浮かべたまま愛華を観察していた。
弥生は何も言わない。
しかし、すべてを見ている。
昨夜、愛華が何時に床に就いたのか。
道具の点検をいつ済ませたのか。
万が一のための替えのハサミを持ったのか。
会場までの詳細な交通手段や時間を調べ上げたのか。
当日の悪天候や交通機関の乱れを確認したのか。
マネキンや必要物を前日のうちに完璧にチェックしたのか──。
愛華の技術と練習量は申し分ない。
カットの精度も作品の構成力も、国内予選を突破するに十分な領域に達している。 けれど、大会という戦場に挑むための「準備」の甘さを、弥生はその眼差しで克明に捉えていた。
(......今回は、予選までかな)
弥生は何も言わない。「前泊しなさい」とも、「早朝の移動で腕が疲れる」とも、「交通トラブルを考えなさい」とも。プロとして自立した美容師に、答えを教え込む気は一切なかった。
翌朝、
案の定、愛華はドタバタと慌ただしく荷物をまとめ、タクシー、JR、バスを乗り継いで会場へと向かっていった。
戦いの火蓋が切られる前に、すでに勝負の決着がついていることにも気づかずに。
数時間後、
帰宅した愛華はリビングのソファで膝を抱えて丸まっていた。
熊本に戻ってきた彼女の周囲には、重苦しい敗北の空気が漂っている。
「......落ちた」
「そう」
弥生は台所で淹れたてのお茶を湯呑みに注ぎながら、短く応じた。
「全然ダメだった。技術が足りない......もっと練習しなきゃ」
愛華は悔しそうに拳を握りしめ、またハサミを持とうと立ち上がりかけた。
だが、ふと何かを思い出したように動きを止め、台所の弥生をジッと見つめた。
世界三連覇を成し遂げた絶対女王から、どうしても勝利の秘密を聞き出したい。
藁にもすがる思いで問いかける。
「ねえ、お母さん。三連覇を決めたあの世界大会の時......前日って何時間練習してたの? 当日の朝はどうやって集中力を高めたの? お願い、教えてよ!」
すがるような娘の視線を受け止めながら、
止めながら、弥生はお茶を一口すすり、のらりくらりとした調子で口を開いた。
「ん〜......前日は街で大道芸人見て、お腹痛くなるまで大爆笑してたわねぇ」
「......はぁ? なにそれ。冗談言わないでよ、練習は?」
「本当よ。それから、美味しいティラミス食べてたかな」
「......は?? 練習の話を聞いてるんだけど!」
「あとはねぇ、お父さんへのお土産のプレゼントを選んでたわ」
「ちょっと!! 聞いた私は真剣なの! 世界一になった前日の『真実』を聞いてるの! 誤魔化さないでよ!」
「失礼ねぇ、嘘なんて一つもついてないわよ。全部本当のこと」
湯呑みをすする弥生の表情には、一切の悪ふざけがない。
「そんなの答えになってない! 私は本気で......っ」
焦りと怒りをあらわにする娘を、弥生はどこか楽しそうに見つめた。
そして、ふっと思い出したように首をかしげる。
「そういえば愛華。前に何度も言ってたわよねぇ」
「え? 何か言ってた?」
「言ってたわよ。何度も」
「何をよ」
弥生は少し身を乗り出し、愛華の目をまっすぐに見つめた。
「『宮田弥生の娘じゃなくて、姫川愛華の母として世間に認めてもらう』って」
「............っ!」
愛華の息が止まる。言葉が喉に詰まり、何も言い返せない。
「ねえ? だったら、お母さんの勝ち方なんか聞き出してどうするの?」
「......お母さん、性格悪い」
愛華は顔を背け、蚊の鳴くような声で呟いた。
弥生はクスクスと笑いながら、自分の湯呑みを軽く揺らす。
「あら。楽しみにしてるって言ってるだけよ。いつになったら世間から『あの姫川愛華さんのお母さんですか?』って言われるのかなぁ、ってね」
愛華は無言で立ち上がった。
「......今日の夜、大阪に戻る」
「そう」
「明日から店で、一からやり直す」
「そう」
愛華は悔しさを噛み殺したまま、自分の部屋へと向かった。
その背中を見送りながら、弥生は静かに微笑んだ。
テーブルの上には、愛華が手入れを終えたハサミが置かれていた。
第16話 完
第17話へつづく