第15話「記録と事実とIF」
HWC 100th Anniversary Issue: Special Interview
「絶対女王が語る、記録と事実」
語り手:姫川弥生(旧姓・宮田弥生)
HWC史上唯一・3連覇達成者
──100周年記念資料の編纂にあたり、本誌の取材を受けていただいたことに感謝いたします。姫川さんは3連覇達成以降、一切のメディア出演を断られていました。今回、取材に応じてくださった理由からお聞かせいただけますか?
「理由ですか? 責任ですよ。HWC史上唯一の3連覇という記録を残した以上、その事実について正確に証言する責任が私にはあります。私はこの大会で世界の壁に叩きのめされ、挫折し、作品に何を足すべきかを学びました。美容師としての自分を育ててくれたHWCの100周年に、事実をそのまま記録として残す。それ以上でも以下でもありません」
──3連覇を決めた大会の前日、姫川さんは一切練習をせず、パリの街へ出かけられたという記録があります。あれが勝利の最大の要因だったのでしょうか?
「それは結果論でしょうね。私は街に出て楽しかったですし、良い気分転換になりました。でも、あの日もし転んで右手を怪我していたら? 交通事故に遭っていたら? スリにパスポートを盗まれていたら? 私はたぶん、『世界大会の前日に遊び歩いて出場できなくなった、世界一愚かな美容師』として語り継がれていたはずです(笑)。でも実際には何も起きず、翌日私は優勝した。だから後から『いい気分転換だった』『あれが勝因だ』と言えるだけです。街へ出たことが正解だったとも間違いだったとも思っていません。起きなかったIFを使って結果を説明しても、意味がないでしょう?」
──では、これから世界を目指す後輩たちにも、大会前日は街へ出てリラックスすることを勧めますか?
「そんなの、自分で決めるべきでしょう」
──ですが、姫川さんご自身はそれでリラックスできたわけですよね?
「私は、ですよ」
──勝つためのひとつの有効なアプローチとは言えませんか?
「......大会の本番中に、カットのやり方を他の競技者と相談しますか?」
──......しませんね。
「同じですよ。大会前日に何をするかも、その人自身の判断です。練習するのか、寝るのか、街へ出るのか。そこまで含めて自己管理であり競技です。私は自分のことしか語れません」
──もし、2年目の大会で4位ではなく優勝していたら、その後の3連覇はなかったと思いますか?
「分かりませんね。実際には起きていませんので」
──仮に、当時のモデルや審査員が違っていたとしたら──
「......ふふ、また『仮に』ですか?(笑)」
──すみません。ですがファンや若手美容師はどうしても知りたいのです。
「怒っていませんよ。ただ、私がHWCから教わった最も大切なことのひとつは、『技術にも美しさにも、永久不変の正解なんてない』ということです。私が当時、世界一になった作品を今そのままここへ持ってきても、最高得点を取れるとは限らないでしょう?」
──確かに、時代のトレンドや技術の基準は変化しています。
「ええ。だったら、起きてもいない『もしも』を引き合いに出して、過去に3連覇した私がさも永久の正解を知っているかのように語るなんて、おかしいじゃないですか。HWCの理念にあるでしょう? 『昨日の革新は、今日の標準となり、今日の最先端は、明日の歴史となる』。私はあの言葉が好きなんです。私の三連覇という記録も、ちゃんと過去のものとして古くなっていくことが示されているから」
──では、現在のカット技術の進歩を踏まえて、あえて伺います。今、同じ美容師の道を歩んでいる、25歳の娘さん(愛華さん)と、当時の25歳の弥生さんが同じステージで競ったら、どちらが勝つと思いますか?
「勝つか負けるかは知りません。戦っていませんから」
──本音として、競ってみたいと思われますか?
「それもIFでしょう(笑)。ただ事実として、あの子が若いうちから現場で経験してきたことの中には、私が25歳の頃には経験できなかったものがたくさんあります。多様な髪質、骨格、体格、異なる文化圏のお客様......。私はあの年齢ではそこまでの経験はありませんでした」
──ということは、技術者としては娘さんの方が上だと?
「ほら、またそうやって上か下かに変換しようとする(笑)」
──失礼しました。しかし、事実に基づいた客観的な比較として......。
「評価基準も時代も違うものを安易に比べることに意味はありません。私は私の時代の全力を尽くしただけですし、彼女は今の時代で自分の作品と向き合っている。それだけのことです」
[取材を終えて]
インタビューの最中、姫川弥生は徹底して「事実」と「仮定」を切り分けた。世界を3度制した絶対女王の威厳は、過去の栄光に固執することではなく、自らの記録すらも時間の流れの中に客観的に置く潔さの中に宿っていた。
取材が終わり、機材を撤収するスタッフの傍らで、彼女はふと窓の外を眺め、誰にも聞こえないほどの小さな笑みを浮かべた。その表情の真意を尋ねることは、あえてしなかった。
[同時刻・大阪市内某サロン]
控室で1冊の発行前ゲラを読み終えた姫川愛華は、くすりと笑って誌面を閉じた。
「......25歳のお母さんと、25歳の私、ね」
セットチェアの鏡に映る自分の手元を見つめ、彼女は静かに呟く。
「実に面白いわね」
熊本と大阪。言葉を交わさずとも、二人の美容師の胸中にある思いは、完全に一致していた。
第15話 完
第16話へつづく