第14話「新たなる日常の始まり」
数年後――
「ちょっと待って! 美容所の開設届って、店が完成してからじゃないと出せないの!?」
「だから昨日説明しただろ。内装工事が終わって、器具が配置されて、構造設備が基準を満たしているのを保健所の人が現地確認しに来るんだよ」
「聞いたけど! 設計屋さんから電話来て、保健所にも相談して、銀行からも書類来て、もう何が何だか分かんないの!」
ダイニングテーブルの上には、住宅の図面、店舗部分の平面図、融資関係の審査書類、見積書、そして分厚い設備業者のカタログが山のように積まれていた。
かつてHWCで頂点に立った時の冷静さはどこへやら、弥生は髪を振り乱し、書類の海に溺れかけていた。
「落ち着けって。順番にやれば終わるから。とりあえず保健所への事前相談の記録と、建築の検査済証の予定日を出して」
「これ? ううん、これは給排水の図面......あ、あった! ......あれ、印鑑どこだっけ?」
混乱した弥生がペン立てからシャチハタを引き抜こうとした瞬間、隣からすっと手が伸びてそれを制した。
「それダメ」
「え?」
「シャチハタはダメだよ。公的な届け出とか銀行の契約書類にスタンプ印は使えない。ちゃんとした印鑑と朱肉買おう」
「これじゃダメなの?」
「これから自分の店を経営するんだろ? 実印と銀行印、事業用の認印はちゃんと分けて作っておいた方がいい。一生使うんだから」
和彦の口調は静かだが、一切の迷いがなかった。
「............」
「......何だよ、人の顔じっと見て」
「和彦が......ちゃんとしてる」
「俺を何だと思ってんだよ! これでも市役所の係長だぞ!」
思わず吹き出した弥生を見て、和彦は呆れたように息を吐いた。
普段の和彦といえば、休日には「クロワッサンってフランス発祥だっけ?」などと呑気なことを言い、弥生に「今さら!?」と突っ込まれるような男だ。
だが、行政手続き、契約条項の確認、書類の整理、スケジュール管理といった領域に入った瞬間、驚くほどの手際と頼もしさを見せる。
「いいか、弥生。手続きには『順番』がある。
建築基準法の検査が終わらないと美容所の開設届は出せない。
開設届が出て現地検査を通らないと保健所の確認書が出ない。
確認書がないと営業許可が下りない。
だから焦って開店日だけ決めても意味がないんだ」
「......すごーい。公務員っぽい」
「公務員だからな。というか、俺は市役所職員だけど美容室開業の専門家じゃないぞ!」
「公務員でしょ!」
「公務員を何だと思ってるんだ!」
夫婦漫才のようなやり取りがダイニングに響く。
河川敷で交際を始め、益城の実家で明に頭を下げたあの日から、いくつもの季節が過ぎていた。今では二人は同じ姓を名乗り、同じ家で書類の山と格闘している。
しかし、和彦とて万能ではない。
行政の書類にはめっぽう強い和彦だが、美容業界の「専門領域」に入ると途端に目を白黒させた。
「......ねえ、和彦。シャンプー台の見積もり届いたんだけど」
「どれどれ......ん? 待って、桁見間違えてないか? シャンプー台ってこんなにするの!?」
「するよ! フルフラットで首に負担がかからない最新のやつだから!」
「椅子一脚でこれ!?」
「するって! お客様が二時間座っても疲れない革のやつ!」
「......ハサミもこの前、一本で何万もするやつ買ってたよな。美容師って、店開くのにこんなにお金かかるのか......」
「今さら!?」
今度は弥生が突っ込む番だった。
「カット技術だけじゃないの。お客様が過ごす空間、使うお湯の質、椅子の座り心地、全部が商品なんだから」
「なるほど......勉強になります」
和彦は素直に感心してメモを取った。
美容の価値、髪とお客様に向き合う空間のクオリティは弥生の領域。
契約の安全性、資金繰りの確認、手続きの段取りは和彦の領域。
二人とも自分の知らないことは相手に聞き、専門家に確認する。
お互いを全能のヒーローにせず、補い合う関係性がそこにはあった。
「そういえばさ」
見積書をめくりながら、和彦が思い出したように言った。
「大会の実績を見て、大手美容メーカーから出資の話が来てただろ」
「断った。......なんか、うちの店で使う薬剤を全部指定のものにするとか、メーカーの看板を前面に出すのが条件だったから」
「それでいいと思う」
和彦は深く頷いた。
「タダで金を出してくれる会社なんてないからね。条件を飲んで自分のやりたい店じゃなくなったら本末転倒だ。資金は銀行の新規開業融資と、弥生が世界大会の賞金で貯めてた自己資金で組もう。返済計画は俺がもう一度精査しておく」
「助かる......。私、どうしても髪のことばかり考えちゃうから」
「弥生は髪とお客様のことを考えろ。書類とか数字は、一緒にやればいい」
何気なく言われたその言葉に、弥生は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「......あ、そうだ。店の工事が始まる前に、結婚式挙げよう」
「え? 店が先でいいじゃん。落ち着いてからで」
「よくない」
「なんで?」
「店を始めたら、お前もっと忙しくなるだろ。大会に夢中になってた頃のお前を見てれば分かる。予約が入って、常連さんができて、講習会が入って......『今は無理』って後回しにして、結局挙げないまま数年過ぎるぞ」
「......う」
思い当たる節がありすぎて、弥生は言葉に詰まった。
「大がかりな式じゃなくていい。親族と親しい友人だけでいいから、先に俺たちの区切りをつけよう。店は逃げないけど、時間は逃げるからな」
弥生の性格をよく知っているからこその提案だった。
ひとつのことに夢中になると、自分のことを後回しにしてしまう。
それを和彦は知っていた。
建築の打ち合わせが本格化すると、二人は新居兼店舗の間取りについて議論を重ねた。
「二階店舗とか、二階をリビングにする設計案もあるみたいだけど......」
建築士から提示された図面を見ながら、和彦が首を振った。
「一階に生活拠点と店舗をまとめた方が絶対いい」
「なんで? 一階を全部店舗にして、二階を広々としたリビングにした方がオシャレじゃない?」
「オシャレかもしれないけど、現実的じゃないよ。......もし子どもが生まれたらどうするんだ?」
「え?」
「赤ちゃん抱っこして、買い物袋持って、狭い階段を毎日何往復もするんだぞ。子どもがハイハイし始めたら階段からの転落にもヒヤヒヤしなきゃいけない。産後の身体でそれはキツすぎる」
「......まだ子どもなんていないよ?」
「できてから家建て直すのか?」
「それは嫌!」
「じゃあ一階だけで日常の家事と子育てが完結できるレイアウトにしよう」
和彦の主導で決まった間取りは、非常に合理的で温かみのあるものだった。
正面から見ると、清潔感のある白い外壁の平屋風二階建て。
左側には住宅用の玄関があり、中に入ると広々としたLDK、キッチン、浴室、洗面、そして赤ちゃんを寝かせたり遊ばせたりできる和室が広がる。
日常生活のすべてが一階で完結する作りだ。
一方、右側には美容室専用の入口と駐車スペース。
美容室内部には2台の鏡とセット椅子、シャンプー台が並び、奥には小さなバックヤードがある。
そして、そのバックヤードから二枚の防音ドアと短い廊下を挟んで、住宅側の廊下へと繋がっている。
「これなら」と和彦は図面を指さした。
「仕事中でも、二枚のドアをくぐれば数十秒で自宅に戻れる。お客様の視線も、シャンプーの匂いも、家庭の生活音も、二枚のドアがちゃんと遮断してくれる。近いけど、混ざらない」
二階は、夫婦の寝室と子ども部屋、大きな収納スペースのみ。仕事の関係者もお客様も、絶対に足を踏み入れない完全な私的空間だ。
打ち合わせの途中、弥生の父・明が益城町から様子を見にやって来た。
町役場で建設や都市開発、産業振興を長く歩んできた明に、弥生が図面を見せる。
「お父さん、この図面どう思う?」
「俺は建築士じゃなかぞ」
明は素っ気なく言いながらも、老眼鏡をかけて図面をじっくりと見つめた。
そして、太い指で店舗入口の敷地部分を指した。
「......駐車場から店までのここ、段差は無くせんとか?」
「え? スロープにするってこと?」
「そうたい。今は若い客ばかりでも、何十年か経てば客も自分も年をとる。車椅子や足の悪いお年寄りがふらっと来られるように、最初から段差は無くしておいた方がよか」
かつて町づくりで「道路一本造ることで誰がどう影響を受けるか」を考え抜いてきた明らしい、
たった一行のアドバイスだった。
「......なるほど。和彦、ここスロープに変更できるか建築士さんに聞いてみよう」
「そうだね。お義父さん、ありがとうございます」
和彦と明が初対面で交わした「町と人を見る」行政談義が、巡り巡って弥生の作る店舗のカタチに溶け込んでいった。
工事が始まり、基礎が打たれ、柱が立ち上がっていく。
そんなある日の夜だった。
「和彦」
「ん?」
「......できたみたい」
「何が?」
「赤ちゃん」
「............」
「和彦?」
「............ほんと?」
「うん」
「やったぁーーー!!」
「ちょ、声大きい!」
「だって! え、いつ!? 病院は!? 大丈夫なの!? 何すればいい!? 俺、何すればいい!?」
「落ち着いて!」
「無理だろ!」
弥生は思わず吹き出した。
ついさっきまで住宅ローンの返済表を冷静に眺めていた男が、今は意味もなくダイニングを二往復している。
「......とりあえず座れば?」
「そうだな!」
和彦は座った。
三秒後、また立った。
「やっぱ無理!」
店舗の壁が作られ、内装が仕上がっていくにつれて、弥生のお腹も少しずつ大きくなっていく。
大会に挑んでいた頃、弥生が見ていたのは「自分とハサミとモデル」だけだった。
だが今、弥生は新店舗の準備、夫婦の生活、そしてこれから生まれてくる新しい命という、人生のいくつもの営みを同時に抱えて走っていた。
開店予定日まで、あとひと月となったある夜。 鏡と椅子が搬入され、まだ誰もいない新しい美容室の中で、弥生は一人ポツンとセット椅子に座っていた。 ガラス窓の外には、静かな田舎町の夜景が広がっている。
ガタリとドアが開き、和彦が入ってきた。手に温かい麦茶の入ったマグカップを持っている。
「やっぱりここにいた。あんまり冷える場所にずっといちゃダメだぞ」
「あ、ごめん......」
弥生はマグカップを受け取り、両手で包み込んだ。 和彦は隣のセット椅子に腰掛け、店内を見回した。
「いい店になったじゃないか。光も入るし、木の温もりがあってさ」
「......ねえ、和彦」
弥生の声が、かすかに震えていた。
「ん?」
「......本当に、お客さん来るかな」
大会では滅多に弱音を吐かなかった弥生が、不安を口にした。
「都会の有名店にいたわけじゃない。ここは私の地元の、小さな町だよ。世界一になったからって、毎月毎月お客様が来てくれる保証なんてどこにもない......。ローンの返済もある。材料費だってかかる。子どもも生まれるのに......」
HWCは60分間の競技が終われば勝敗が決まる。
だが、自分の店を構えるということは、今日から何十年という終わりのない日常が始まるということだ。
毎月の売り上げ、生活、家族の未来。
世界一の金メダルは、明日の客数を約束してはくれない。
和彦は静かに弥生の横顔を見つめ、それから可笑しそうに鼻で笑った。
「来るだろ」
「なんでそんな簡単に言えるの!?」
「今までの客、大事にしてきたんだろ?」
「......うん。当たり前だよ」
「じゃあ、それをこの店でも続ければいいよ。弥生のカットが好きで通ってくれてた人たちがいるんだから」
「でも......もし誰も来なくて、駄目だったら?」
弥生が不安そうに見つめ返すと、和彦は至極あっさりと肩をすくめた。
「その時はその時だろ」
「ちょっと、他人事みたいに言わないでよ!」
「他人事じゃないよ。顧客を大事にして、それでも時代とか立地とかで駄目になることだってある。その時は――弥生とお腹の子くらいなら、俺の給料で何とかするよ」
「............」
弥生は目を見開いた。
「......今から開業する美容師に『店潰しても大丈夫』って言うの?」
「腕が良いことと、店舗経営が成功するかどうかは別だろ。失敗したって死ぬわけじゃない。俺が働いて、ローン払って、お前と子どもを食わせる。だから、好きなようにやってみろよ」
和彦の言葉には、大げさな熱量も、格好つけた誓いもなかった。
ただ、日常の延長線上にある事実として、当たり前のように言っていた。
(この人は......)
弥生は胸がいっぱいになり、同時に込み上げてくる可笑しさに吹き出しそうになった。
和彦は弥生の代わりに美容室を経営してはくれない。
代わりにハサミを握ってもくれない。
だが、「もし崖から落ちたら、下で俺が受け止めるから好きに飛んでこい」と、絶対の安全網になってくれている。
世界大会のステージでは、誰も助けてくれなかった。
自分の選択と、自分のハサミだけが頼りだった。
だが今の弥生には、失敗しても帰れる場所がある。
自分がどれほど無様に転んでも、笑ってご飯を食べさせてくれる夫がいる。
「......バカじゃないの」
弥生はマグカップを目元に押し当て、フッと笑った。
「絶対、潰さないから」
「そうこなくっちゃ」
和彦は満足そうに微笑み、立ち上がって弥生の肩をポンポンと叩いた。
「さ、寒くなる前に部屋に戻ろう。一階の和室、ベビーベッドの配置決めなきゃ」
「うん」
数週間後。
新居兼店舗の入口に、小さな木製の看板が掲げられた。
『Salon de Yayoi』
派手な装飾はない。
明の一言で設けられた緩やかなスロープだけが、道路から店の扉まで、まっすぐに伸びていた。
第14話 完
第15話へつづく