第17話「長女は我が道を行く」
熊本の休日。
姫川家のリビングには、いつでも少し甘いシャンプーの香りと、研ぎ澄まされた刃が擦れ合うかすかな金属音が漂っていた。
長女の愛理にとって、その音は誇りであると同時に、小さな寂しさの記憶と表裏一体だった。
小学校の運動会も、参観日も、週末のイベントも。
母・弥生の隣にはいつも客がいて、ハサミの音が響いていた。
土日祝日は美容室「Salon de Yayoi」の書き入れ時だ。
世界を相手に戦い、店を守る母親が仕事を休めるはずもない。
代わりに愛理の手を引いてくれたのは、公務員の父・和彦だった。
母に甘えたい盛りの頃、妹の愛華が生まれた。
小さく泣く妹を抱え、美容師としても多忙を極める母の背中を見て、幼い愛理は幼心に理解したのだ。
(私は、お母さんに甘えちゃいけないんだ)
カリスマ美容師・宮田弥生の長女。
学校へ行けば「さすが世界一の美容師の娘さん、髪が綺麗ね」「愛理ちゃんも美容師になるの?」と周囲から当然のように言われた。
何か少しでも問題を起こせば、忙しい母や堅実な父に迷惑がかかる。
粗相のないよう髪を整え、目立たず、出しゃばらず、優等生として息を潜めるように過ごすことが、愛理なりの「家を守る術」だった。
だからこそ、愛理の望みは昔からたった一つ――「平凡な日常」だった。
学年トップを目指すわけでもなく、赤点を取るわけでもない成績。
大学も両親の資金力に甘え切らず、自分で学費の足しや交際費を稼ぐためにアルバイトに精を出した。
世界的企業の花形を目指すでもなく、地元熊本のMCTCテクノロジー広報部へ就職。
高校時代から10年間、一途に想い続けた彼と27歳で結婚し、28歳で娘を出産した。
現在30歳。2歳になる娘・理華の母親となった愛理は、
妹の愛華のように「宮田弥生」という巨大な背中を追いかけ、超えようと葛藤する道を選ばなかった。
母は母。
私は私。
世界一の称号も、金メダルも要らない。
朝起きて、夫と娘の朝食を作り、会社へ行き、夜は家族で食卓を囲む。
歴史には何も残らないけれど、自分で選び取り、築き上げたこの「当たり前」の毎日が、愛理にとっては何物にも代えがたい宝物だった。
第17話 完
第18話つづく