第18話「はじめてのカット」
「......お母さん、早く! 起きたら泣いちゃうから!」
「待って待って、慎重に! この子の人生初カットなのよ!」
リビングのソファで2歳の理華が気持ちよさそうに昼寝をしている隙を狙い、姫川家の女三代による『極秘作戦』が決行されていた。
「もー、お母さんしっかりしてよ! 代わって、私がカットする!」
割って入ろうとする妹の愛華を、愛理が一刀両断する。
「愛華! やめてよ、今日はお母さんにカットしてもらうんだから!」
「私だって美容師なんだけど!? この子の叔母さんだよ!?」
「駄目。私が知ってる美容師の中で、お母さんが一番上手いから頼んでるの!」
愛理のその一言に、弥生の手がぴくりと止まる。かつてHWC(美容師世界選手権)で3連覇を成し遂げた伝説のハサミが、わずかに揺れた。
「......二人とも静かに。手元が震えるでしょう」
「元世界一の腕前を見せてよ、お母さん」
「......こっちのカットの方が、パリの舞台より何百倍も緊張するのよ!」
その大騒ぎから数メートル離れたダイニングテーブル。
父・和彦は渋々といった様子で、大きく新聞を広げていた。
しかし、さっきから紙面を繰る音は一切しない。
目線は完全に新聞の端からチラチラとソファの方を覗いている。
混ざりたい。孫の歴史的瞬間に、自分も一員として参加したい。
じっと見つめる和彦の気配を、愛理は見逃さなかった。
「ちょっとお父さん!」
「な、なんだよ」
「こっち見ないで! お父さんの気配で理華が起きちゃうから!」
「見てないだろ! 新聞読んでたんだよ!」
「新聞の向き、上下逆なんだけど」
「あっ」
慌てて新聞に顔をうずめる和彦。
少しの静寂。
だが、どうしても我慢できなくなった和彦は、新聞の裏から蚊の鳴くような声で話しかけた。
「......愛理〜」
「今度は何?」
「直人くんは......今日は何時ごろ来るんだ?」
「知らないわよ! 旦那は仕事終わってからだから19時ごろでしょ!」
「......そうかぁ」
あっさりあしらわれ、会話終了。
和彦は寂しそうに息を吐き、また新聞へ視線を戻す。
「......ビール、キンキンに冷やしとくかな......」
誰も答えない。
「......ツマミは、庭に成った枝豆だな......」
やはり全員、2歳児の前髪に夢中で完全スルーだった。
「愛華! そこ押さえて!」
「お母さん、右がちょっと長くない!?」
「分かってるわよ! 喋らないで!」
数万人からの視線を浴びて世界の頂点に立った宮田弥生が、今や息を殺し、額に汗を浮かべながら、たった数センチの前髪と格闘している。
世界を制した技術の全てが、今、この世界で一番ちいさな客のために注ぎ込まれていた。
「......できた。ハサミ、閉じたわ......!」
弥生が深く、深呼吸のような息を吐き出した。
愛理がそっと覗き込み、満足そうに微笑む。
「......うん。やっぱりお母さんに頼んでよかった」
弥生は何も言わず、ただ嬉しそうに目元を緩めた。
その向こうで、バサリと新聞が下がる。
「......終わったか?」
蚊帳の外からようやく解放された和彦が、少し嬉しそうに立ち上がった。
前髪が、なくなっていた。
~エピローグ~
遮るものが消え、閉じていた瞼にやわらかな午後の陽光が触れる。
理華は、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界が少しずつ結像していく。
無音の世界の中、最初に飛び込んできたのは、三つの顔だった。
大好きな母・愛理。
どこか悔しそうに笑う叔母・愛華。
そして二人の真ん中で、壊れものを扱うように恐る恐る覗き込んでいる祖母・弥生。
かつて世界の頂点でハサミを振るった絶対女王も、今はただ、愛おしそうに孫の顔を見つめる一人の「おばあちゃん」だった。
理華は、ぱちりとひとつ、小さく瞬きをした。
第18話 完
第2話へつづく