番外編・第壱話「長女誕生」
病院の待合室に掛けられた時計の秒針が、一定の間隔で時を刻んでいた。
カチ、カチ、カチ。
姫川和彦は、もう何度目になるか分からないほど、その時計を見上げた。
「............」
立ち上がる。
廊下を数歩歩く。
窓の外を見る。
特に見るものもなく、また時計を見る。
座る。
膝の上で両手を組む。
十秒もしないうちに、また立ち上がった。
その様子を、弥生の父・明は待合室の長椅子に腰掛けたまま、黙って見ていた。
いや、正確には見てすらいない。
腕を組み、目を閉じている。
「......ちょっと、トイレ行ってきます」
「ん」
和彦が廊下の向こうへ消えていく。
三十分ほど前にも聞いた台詞だった。
その前にも聞いた気がする。
しばらくして戻ってきた和彦の前髪は、少し濡れていた。
どうやら顔まで洗ってきたらしい。
再び時計を見る。
座る。
立つ。
歩く。
「............」
明は薄く目を開けた。
「和彦くん」
「はい!」
和彦が背筋を伸ばす。
「ちょっと落ち着きなさい」
「はい!」
素晴らしい返事だった。
和彦は長椅子へ腰掛けた。
両手を膝の上に置く。
背筋を伸ばす。
「............」
一分。
「............」
二分。
三分も経たないうちに、和彦の視線が時計へ動いた。
そして立ち上がった。
「......飲み物、買ってきます」
「............」
明は何も言わなかった。
自動販売機で買った缶コーヒーを手に、和彦が戻ってくる。
一口飲む。
時計を見る。
もう一口飲む。
時計を見る。
やがて缶コーヒーを飲み干すと、
「......ちょっと、トイレ行ってきます」
明は小さく息を吐いた。
「飲んではトイレじゃ、忙しかな」
「す、すみません」
「謝らんでよか」
明は再び目を閉じた。
「出産ばかりは、男は待つしか無か」
「............」
「気持ちは分かるが、俺たちがウロウロしたところで早く生まれてくるわけじゃなか。黙って待つしか、何もできん」
「......はい」
和彦は神妙な顔で頷いた。
今度こそ分かったらしい。
そう思った。
五分後。
また時計を見ていた。
明は注意しなかった。
できなかった、と言った方が正しいかもしれない。
目を閉じると、ずっと昔の光景が浮かんでくる。
今よりずっと若かった自分。
今日とよく似た病院の待合室。
時計を見ては立ち上がり、廊下を歩き、また座る。
何か音がするたびに顔を上げた。
まだか。
大丈夫か。
何かあったんじゃないか。
何もできない自分が、ひどくもどかしかった。
そして――
元気な女の子です。
そう聞いた瞬間のことを、明は今でも覚えている。
その女の子が成長し、美容師になり、世界を飛び回り、三度も世界の頂点に立った。
そして今日。
母親になろうとしている。
明は薄く目を開けた。
数メートル先では、和彦が相変わらず時計を見ている。
「............」
まあ。
人のことは言えんな。
明は再び目を閉じた。
それから、約八時間。
長い時間が過ぎた。
和彦は何度時計を見たか分からない。
何度立ったかも分からない。
トイレへ何回行ったのかも、途中から数えるのをやめた。
外はいつの間にか、昼間とは違う色になっていた。
そして――
「オギャア! オギャア!」
待合室まで響く、力強い泣き声。
和彦の身体が跳ねた。
「――生まれた!?」
返事を待つこともなく立ち上がる。
「弥生!」
廊下へ飛び出していった。
明はゆっくり目を開けた。
慌ただしく遠ざかっていく娘婿の背中を見る。
「......やれやれ」
八時間待った男とは思えないほど、明はゆっくり立ち上がった。
しかし、その右手は――
強く拳を握っていた。
(......良かった)
それだけだった。
声には出さなかった。
明はゆっくりと、娘と初孫の待つ方へ歩いていった。
部屋へ入ると、最初に目に飛び込んできたのは赤ん坊ではなかった。
「弥生ぃぃ......!」
和彦だった。
泣いていた。
それも、少し涙ぐむ程度ではない。
目を真っ赤にし、鼻水まで垂らしている。
「よかった......本当に......よかったぁ......」
「ちょっと和彦......」
疲れ果てた弥生が、ベッドの上から夫を見る。
その顔にも涙が流れていた。
しかし、泣きじゃくる夫の顔を見ているうちに、感動とは別の感情が混じり始めたらしい。
「......鼻、拭いたら?」
「だって......弥生......娘が......」
「分かったから。ほら、ティッシュ」
「うぅ......」
弥生は呆れたように笑った。
その腕の中では、小さな赤ん坊が眠っている。
明は何も言わず、その光景を眺めた。
泣いている娘婿。
疲れ切っているのに、幸せそうに笑っている娘。
そして、生まれたばかりの孫娘。
――悪くない。
いや。
こんな景色を幸せと言うのだろう。
「お父さん」
弥生が気づいた。
「ほら。女の子」
「......そうか」
明はベッドのそばまで歩いた。
小さい。
自分の娘も、こんなに小さかっただろうか。
今では世界中の美容師が名前を知っているというのに。
最初は、この子と同じだった。
明は孫娘の顔をしばらく見つめた。
「元気なら、それでよか」
それだけ言った。
少しして、和彦が涙を拭きながら弥生の隣へ座った。
「......名前」
弥生が言った。
「決めてたでしょう?」
「ああ」
二人は、この子が生まれる前から話し合っていた。
男の子だったら。
女の子だったら。
いくつもの名前を考えた。
けれど女の子なら、一つだけ決めていたことがある。
一文字ずつ、二人で決めよう。
これまでだってそうだった。
結婚することも。
暮らす場所も。
弥生が美容師を続けることも。
大事なことは、二人で決めてきた。
だから、娘の名前も二人で決める。
和彦が選んだ一文字は、
「愛」。
愛のある子に育ってほしい。
人を愛し、人から愛される。
そんな人生を歩いてほしい。
そして、もう一文字は弥生に託した。
弥生はずいぶん考えた。
美容師として世界を目指していた頃なら、違う文字を選んだかもしれない。
けれど、やがて一つの文字に辿り着いた。
「理」。
ことわり。
道理。
社会には決まりがある。
人と人が一緒に生きていくための約束がある。
弥生は、それをきちんと守りながら生きてきた二人の男を知っていた。
一人は父。
そして、もう一人は夫。
派手ではない。
世界大会の表彰台に立つこともない。
けれど二人とも、自分の仕事をし、社会の決まりを守り、家族を支えながら生きてきた。
そんな父と夫の姿を見てきた弥生が、娘へ贈りたかった一文字だった。
愛と、理。
「愛理」
和彦が、赤ん坊の顔を見ながら呼んだ。
「......愛理」
弥生も続けた。
その声に反応したのか。
眠っていた小さな愛理が、ほんの少しだけ口元を動かした。
「動いた!」
和彦が再び泣き始める。
「和彦、もう......」
弥生は笑いながら、またティッシュを差し出した。
明は少し離れたところから、三人を眺めていた。
娘がいる。
娘婿がいる。
そして今日、孫娘が増えた。
誰もが泣いたり、笑ったりしている。
明は何も言わなかった。
ただ、生まれたばかりの孫娘の名前を、心の中で一度だけ呼んだ。
(......愛理か)
悪くない名前だ。
窓の外では、長かった一日が静かに暮れようとしていた。
番外編・第壱話 完