ホームハサミが、刻んだ景色。番外編・第弐話「次女誕生」
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番外編・第弐話「次女誕生」

五月の空は、どこまでも青かった。

病院の玄関を出ると、柔らかな風が街路樹の若葉を揺らしている。

姫川和彦は、その青空を見上げて小さく息を吐いた。

「......大丈夫。まだ大丈夫だ」

誰に言うでもなく呟く。

その右手を、小さな手が握っていた。

二歳になったばかりの長女・愛理だった。

「パパー」

「ん?」

「おなかすいた」

「ああ。そうだな」

娘にとって今日という日がどれほど特別なのか、まだよく分かっていないのだろう。

もうすぐ妹が生まれる。

そう何度も教えてはいる。

弥生の大きくなった腹を撫でながら、

「赤ちゃん、いるの?」

と聞くこともあった。

けれど、二歳の愛理にとって「妹」という存在は、まだ見たことも触れたこともない。

自分に何か新しい家族が増えるらしい。

おそらく、その程度だった。

そして二歳児にとって、病院の待合室で何時間も座っていることほど退屈なものはない。

長女が生まれたときは、約八時間かかった。

あの日のことは、和彦もよく覚えている。

時計を見る。

廊下を歩く。

座る。

また時計を見る。

自動販売機で飲み物を買う。

飲めばトイレへ行きたくなる。

ついでに顔を洗う。

戻って、また時計を見る。

義父の明から、

「和彦くん、ちょっと落ち着きなさい」

と何度言われたことか。

――今回は違う。

二人目だ。

父親としても、少しくらいは成長している。

八時間も二歳児を待合室に座らせておく必要はない。

弥生の父・明も病院に残っている。

何かあれば大丈夫だ。

そう考えて、和彦は愛理を連れて病院の近くを散歩することにした。

 

二人目の子供の名前は、まだ決まっていなかった。

愛理のときは違った。

生まれる前から弥生と和彦で何度も話し合った。

大切なことは二人で決める。

それが二人のやり方だった。

和彦が「愛」を選び、弥生が「理」を選んだ。

――愛理。

二人で考えた、最初の娘への最初の贈り物だった。

だが、二人目の妊娠が分かった頃。

弥生には、ゆっくり名前を考える時間さえ、なかなか取れなくなっていた。

美容室『Salon de Yayoi』が、波に乗り始めていたからだ。

いや。

波に乗った、という表現では足りない。

大盛況だった。

きっかけは、世界大会でもなければ雑誌の記事でもない。

公園だった。

愛理を遊ばせていた公園で、弥生にも少しずつママ友ができた。

「弥生さんって、美容師さんなの?」

「今度、切ってもらおうかな」

そんな何気ない会話から、一人が店を訪れた。

その一人が、また別の母親へ話した。

「あそこ、いいよ」

たったそれだけの口コミが、少しずつ広がっていった。

もう一つは、和彦の職場だった。

かつて和彦が、弥生に初めて髪を切ってもらった直後。

係長へ昇進した。

もちろん、髪を切ったから昇進したわけではない。

そんなことは和彦自身が一番よく分かっている。

だが、その昔話を知った同僚たちは面白がった。

「姫川さん、あのときの美容師さんと結婚したんですか?」

「奥さんに切ってもらったら、俺も出世できますかね」

冗談半分で訪れた同僚。

その妻。

その家族。

そこから、また別の客へ。

客が客を連れてくるようになった。

そして、しばらくしてから知られることになった。

――あの店の美容師、昔HWCで三連覇した人らしい。

世界一を三度。

その事実は、後からついてきた。

弥生は最初から、それを看板に掲げなかった。

店先に金メダルを並べることもなかった。

「元世界一の美容師が切ります」

そんな宣伝もしなかった。

それが、かえって客たちには好まれた。

世界一だから行く店ではない。

行ってみたら腕のいい美容師だった。

話してみたら気取らない人だった。

そして後から、

――えっ、この人、そんな凄い人だったの?

となる。

二か月先まで、予約表はびっしり埋まった。

もちろん、その中には、

「弥生ちゃん、来月もお願いね」

と変わらず通ってくる節子の名前もあった。

世界大会三連覇を知らずに髪を任せていた客。

知った後も、何も変わらず椅子へ座る客。

弥生にとっては、どちらも同じ客だった。

そして店を閉めれば、母親になる。

愛理を風呂へ入れる。

食事を作る。

寝かしつける。

翌日の準備をする。

妻として和彦と暮らす。

その腹の中には、もう一人の娘がいる。

母親。

美容師。

妻。

その三つを、弥生は毎日行ったり来たりしていた。

ある夜。

愛理をようやく寝かしつけた弥生が、ソファへ身体を預けた。

「......名前」

和彦が言った。

「ん?」

「まだ決めてなかっただろ。赤ちゃんの名前」

「あ......」

弥生は天井を見た。

本当に忘れていたらしい。

和彦は笑った。

「いいよ」

「え?」

「生まれてから決めよう」

弥生が顔を向ける。

「いいの?」

「ああ」

和彦は大きくなった弥生の腹を見た。

「顔を見て、仕草を見て。それから二人で考えてもいいだろ」

「でも愛理のときは、生まれる前に決めたじゃない」

「愛理は愛理。この子はこの子だよ」

「............」

「それに」

和彦は少し笑った。

「今のお前に、名前まで急いで決めろって言ったら怒られそうだから」

「怒らないわよ」

「本当に?」

「......たぶん」

二人で笑った。

そうして次女は、

名前を持たないまま、今日を迎えた。

 

「何食べたい?」

「おこチャま!」

「やっぱりお子様ランチか」

「うん!」

病院近くの食堂へ入ると、愛理は目の前に置かれた皿に歓声を上げた。

小さな旗。

ハンバーグ。

エビフライ。

ケチャップのかかったオムライス。

そしてプリン。

「パパ! はた!」

「ああ、旗だな」

「エビィ!」

「エビだな」

「プリンン!」

「プリンは最後」

「プリンンン!」

「最後」

「プリンン!」

「......一口だけな」

一方、和彦が注文したのは、うどんセットだった。

今の自分には、これくらいしか喉を通らない。

二人目だから大丈夫。

まだ時間はある。

そう自分に言い聞かせながら、うどんを啜る。

けれど頭の半分では、ずっと弥生のことを考えていた。

今頃どうしているだろう。

痛みは強くなっていないか。

何かあれば、明が知らせてくれるだろうか。

「パパ」

「ん?」

「たべちぇ」

愛理が父親のうどんを指差した。

ほとんど減っていない。

「ああ......食べる食べる」

父親というものは忙しい。

目の前にいる娘の昼食を世話しながら、まだ顔も見ていない娘のことを考えている。

 

食事を終え、二人は病院へ戻ることにした。

五月の風は相変わらず心地よかった。

愛理は父親の手を握り、道端のものを見つけては忙しく指を差す。

「あ!」

「犬だな」

「あ!」

「バスだな」

「あ!」

「......マンホールだな」

普段の愛理は、自分が世界の中心だと言わんばかりに、目に映るものすべてに興味を示す。

だから和彦も最初は気づかなかった。

数歩進んで。

右手が後ろへ引っ張られた。

「愛理?」

娘が止まっている。

視線の先には、小さな花屋があった。

店先には五月の日差しを浴びた、色とりどりの花が並んでいる。

「どうした?」

返事はない。

和彦が手を引く。

「愛理、病院に戻るぞ」

動かない。

「お母さん、待ってるぞ」

動かない。

和彦は娘の前へしゃがんだ。

「お花、見たいのか?」

こくり。

愛理は頷いた。

そのとき、店の奥から女性店員が出てきた。

「いらっしゃいませ。お花、お好きなんですか?」

愛理は和彦の後ろへ半分隠れた。

「あ、すみません。仕事のお邪魔をして」

和彦は反射的に頭を下げる。

役所勤めで身についた対人応対が、こんなところでも出る。

「いえいえ。中にもたくさんありますよ。よかったらどうぞ」

愛理が父親を見上げた。

「......少しだけだぞ」

店内には、さらにたくさんの花が並んでいた。

愛理はその間をゆっくり歩いていく。

さっきまで犬だ、バスだ、マンホールだと騒いでいた子が、不思議なくらい静かだった。

やがて、一輪を指差す。

真っ赤なバラ。

「これ?」

こくり。

続いて別の場所へ歩く。

今度は、淡いピンク色のカーネーション。

「......こっちも?」

こくり。

「二つ?」

「うん」

「一つにしないか?」

愛理は動かなかった。

「............」

和彦には分かる。

この顔は駄目だ。

普段は大人しい娘なのに、一度こうと決めたときだけは頑として譲らない。

こういうところは――

(弥生にそっくりだな)

「二つとも欲しいのか?」

「うん」

「どうして?」

答えない。

ただ、二本の花を交互に指差した。

「ひとちゅずつ」

「一つずつ?」

「うん」

何のためなのか、和彦には分からなかった。

「......分かった」

和彦は立ち上がった。

「すみません。この二本を一輪ずつお願いします」

「はい」

「あ、それと......別々に持たせてもらえますか?」

店員は愛理を見て微笑んだ。

「もちろんです」

店を出ると、愛理は二本の花を大切そうに胸の前へ抱えた。

「お父さんが持とうか?」

「だめ」

「落とすなよ」

「うん」

来たときより、少しだけゆっくりした歩幅で。

愛理は二本の花を宝物のように抱え、病院へ戻った。

 

待合室へ戻った和彦は、首を傾げた。

「......あれ?」

明がいない。

「おじいちゃん、いないね」

「トイレかな?」

長椅子へ座る。

時計を見る。

病院を出てから、まだ二時間ほどしか経っていない。

長女のときは八時間だった。

まだまだだろう。

三分ほど経った頃。

廊下の向こうから、看護師が足早にやってきた。

「あっ、姫川さん!」

「はい?」

「どちらへ行かれてたんですか!」

「え?」

「もう赤ちゃん、生まれてますよ!」

「............え?」

和彦の頭が止まった。

時計を見る。

看護師を見る。

もう一度時計を見る。

「いや......まだ二時間くらいしか......」

「元気な女の子ですよ」

「ええっ!?」

和彦は飛び上がった。

「愛理!」

「なに?」

「抱っこ!」

「おはなぁ!」

「花も持って! いや、お父さんが――」

「だめェ!」

「分かった! じゃあ、しっかり持って!」

愛理を抱き上げる。

娘は両手に花。

父親は娘を抱え、廊下を急ぐ。

二人目だから少しくらいは成長した。

そう思っていた自分は、何だったのだろう。

 

部屋へ入ると、最初に見えたのは明だった。

「............」

顔が緩みきっている。

二人目の孫娘を覗き込み、完全にデレデレだった。

「お義父さん!」

明が振り返る。

「遅かったな」

「いや、すみません!」

その声に、ベッドの弥生が反応した。

「......和彦!!」

「弥生!」

「どこ行ってたのよ!」

「えっ」

「大事な次女の出産に、いないなんて!」

怒っている。

ただし出産直後で疲れ切っているため、声は小さい。

「いや、その......愛理を連れて時間潰しに散歩を......」

「はぁ?」

「長女のとき八時間だっただろ? だから今回もそれくらいかかると思って......」

「............」

「本当に散歩してただけで......途中で昼飯を......」

「ご飯まで食べてたの?」

「俺はうどんだけだ! 愛理はお子様ランチで――」

「そういう問題じゃないでしょう」

「はい......」

明は口を挟まなかった。

ただ、少しだけ肩が揺れていた。

そのときだった。

和彦の腕の中で愛理が動いた。

「おーりる」

「ああ」

床へ下ろす。

愛理は二本の花を握ったまま、母親のベッドへ近づいた。

「ママ~」

「ん?」

「はい」

小さな手が差し出したのは、

淡いピンク色のカーネーションだった。

「......え?」

弥生が目を丸くする。

和彦も驚いた。

「愛理?」

「ママに」

「これ......ママにくれるの?」

「うん」

知っていたのか。

偶然だったのか。

それは誰にも分からない。

弥生はカーネーションを受け取った。

「......ありがとう」

愛理はもう一方の手を見る。

真っ赤なバラ。

そして、生まれたばかりの妹へ近づいた。

「こっちはね」

小さな手が伸びる。

「あかちゃんにー」

和彦が固まった。

弥生も言葉を失った。

「......愛理」

和彦は娘の前へしゃがんだ。

「もしかして......お母さんと赤ちゃんにプレゼントするために、花屋から動かなかったのか?」

「うん」

今度は、しっかり返事をした。

「あのとき言ってくれれば、お父さん、もっといっぱい買ったのに......」

愛理は少し考えた。

そして、はっきり言った。

「わたしが、えらびちぃかった」

「............」

和彦が言葉を詰まらせる。

「愛理ぃ......」

「ちょっと和彦、今度はそっちで泣くの?」

そう言った弥生の目にも、涙が浮かんでいた。

二年前。

この子は、自分の腕の中で泣いていた。

今では、自分で選んだ二本の花を抱えて歩き、母と妹へ一本ずつ渡している。

弥生は胸元のカーネーションを見る。

そして、愛理が妹へ贈った赤いバラを見る。

「......花」

弥生が呟いた。

「ん?」

「この子の名前」

和彦が黙った。

二人は、あえて決めていなかった。

顔を見てから。

仕草を見てから。

生まれてきたこの子を見て、二人で考えればいい。

そう話していた。

けれど――

二人だけではなかった。

弥生は愛理を見る。

そして、生まれたばかりの次女を見る。

「『愛』は、この子にも使わない?」

「愛?」

「うん」

長女の名前を考えたとき、和彦が選んだ文字。

愛のある子に。

人を愛し、人から愛される子に。

その願いは、長女だけのものではない。

「愛理と同じ。あなたが選んだ『愛』」

和彦は娘二人を見た。

ゆっくり頷く。

「ああ」

姉妹二人へ。

父親から、同じ願いを贈る。

そして弥生は、赤いバラへ目を向けた。

「......華」

「華?」

「花じゃなくて、『華やか』の華」

華やか。

華麗。

一輪でも、そこにあるだけで人の目を引く花。

何より――

その一文字へ弥生を導いた花は、姉が妹のために自分で選んだものだった。

和彦が、二つの文字をつなげる。

「......愛華」

「うん」

「愛華......」

もう一度、娘の顔を見る。

「いい名前だ」

二年前。

長女の名前は、父と母で決めた。

和彦の「愛」

弥生の「理」

――愛理。

そして今日。

次女の名前は、

父から受け継いだ「愛」と、

姉が贈った花から生まれた「華」

――愛華。

今度は二人ではない。

父と母。

そして、二歳の姉。

三人で生まれた名前だった。

「愛理」

弥生が呼んだ。

「なに?」

「妹のお名前、愛華よ」

愛理は首を傾げた。

「あいかぁ?」

「そう。愛華」

愛理は眠っている妹を覗き込んだ。

「あいかぁ」

もう一度呼ぶ。

そして少し考えてから、

「おねえちゃんだよ」

と言った。

部屋が静かになった。

和彦は鼻をすすった。

弥生はとうとう涙をこぼした。

明は少し離れたところから、四人を見ていた。

二年前にはいなかった家族がいる。

あの日、生まれたばかりだった愛理が、今日は姉になった。

そして今日。

もう一人、新しい家族が増えた。

明は二人の孫娘を交互に見た。

(......良か名前たい)

口には出さなかった。

(愛理。愛華)

二人の名前に、同じ一文字がある。

愛。

(愛に恵まれて育つとよか)

ジィちゃんは、それだけでよか。

窓の外には、五月の清々しい青空が広がっていた。

病室には、

淡いピンク色のカーネーションと、

真っ赤なバラが一輪。

朝まで名前のなかった女の子は、

その日、姉が選んだ一輪の花から、

「愛華」になった。




番外編・第弐話「次女誕生」

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ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
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番外編・第弐話「次女誕生」

五月の空は、どこまでも青かった。

病院の玄関を出ると、柔らかな風が街路樹の若葉を揺らしている。

姫川和彦は、その青空を見上げて小さく息を吐いた。

「......大丈夫。まだ大丈夫だ」

誰に言うでもなく呟く。

その右手を、小さな手が握っていた。

二歳になったばかりの長女・愛理だった。

「パパー」

「ん?」

「おなかすいた」

「ああ。そうだな」

娘にとって今日という日がどれほど特別なのか、まだよく分かっていないのだろう。

もうすぐ妹が生まれる。

そう何度も教えてはいる。

弥生の大きくなった腹を撫でながら、

「赤ちゃん、いるの?」

と聞くこともあった。

けれど、二歳の愛理にとって「妹」という存在は、まだ見たことも触れたこともない。

自分に何か新しい家族が増えるらしい。

おそらく、その程度だった。

そして二歳児にとって、病院の待合室で何時間も座っていることほど退屈なものはない。

長女が生まれたときは、約八時間かかった。

あの日のことは、和彦もよく覚えている。

時計を見る。

廊下を歩く。

座る。

また時計を見る。

自動販売機で飲み物を買う。

飲めばトイレへ行きたくなる。

ついでに顔を洗う。

戻って、また時計を見る。

義父の明から、

「和彦くん、ちょっと落ち着きなさい」

と何度言われたことか。

――今回は違う。

二人目だ。

父親としても、少しくらいは成長している。

八時間も二歳児を待合室に座らせておく必要はない。

弥生の父・明も病院に残っている。

何かあれば大丈夫だ。

そう考えて、和彦は愛理を連れて病院の近くを散歩することにした。

 

二人目の子供の名前は、まだ決まっていなかった。

愛理のときは違った。

生まれる前から弥生と和彦で何度も話し合った。

大切なことは二人で決める。

それが二人のやり方だった。

和彦が「愛」を選び、弥生が「理」を選んだ。

――愛理。

二人で考えた、最初の娘への最初の贈り物だった。

だが、二人目の妊娠が分かった頃。

弥生には、ゆっくり名前を考える時間さえ、なかなか取れなくなっていた。

美容室『Salon de Yayoi』が、波に乗り始めていたからだ。

いや。

波に乗った、という表現では足りない。

大盛況だった。

きっかけは、世界大会でもなければ雑誌の記事でもない。

公園だった。

愛理を遊ばせていた公園で、弥生にも少しずつママ友ができた。

「弥生さんって、美容師さんなの?」

「今度、切ってもらおうかな」

そんな何気ない会話から、一人が店を訪れた。

その一人が、また別の母親へ話した。

「あそこ、いいよ」

たったそれだけの口コミが、少しずつ広がっていった。

もう一つは、和彦の職場だった。

かつて和彦が、弥生に初めて髪を切ってもらった直後。

係長へ昇進した。

もちろん、髪を切ったから昇進したわけではない。

そんなことは和彦自身が一番よく分かっている。

だが、その昔話を知った同僚たちは面白がった。

「姫川さん、あのときの美容師さんと結婚したんですか?」

「奥さんに切ってもらったら、俺も出世できますかね」

冗談半分で訪れた同僚。

その妻。

その家族。

そこから、また別の客へ。

客が客を連れてくるようになった。

そして、しばらくしてから知られることになった。

――あの店の美容師、昔HWCで三連覇した人らしい。

世界一を三度。

その事実は、後からついてきた。

弥生は最初から、それを看板に掲げなかった。

店先に金メダルを並べることもなかった。

「元世界一の美容師が切ります」

そんな宣伝もしなかった。

それが、かえって客たちには好まれた。

世界一だから行く店ではない。

行ってみたら腕のいい美容師だった。

話してみたら気取らない人だった。

そして後から、

――えっ、この人、そんな凄い人だったの?

となる。

二か月先まで、予約表はびっしり埋まった。

もちろん、その中には、

「弥生ちゃん、来月もお願いね」

と変わらず通ってくる節子の名前もあった。

世界大会三連覇を知らずに髪を任せていた客。

知った後も、何も変わらず椅子へ座る客。

弥生にとっては、どちらも同じ客だった。

そして店を閉めれば、母親になる。

愛理を風呂へ入れる。

食事を作る。

寝かしつける。

翌日の準備をする。

妻として和彦と暮らす。

その腹の中には、もう一人の娘がいる。

母親。

美容師。

妻。

その三つを、弥生は毎日行ったり来たりしていた。

ある夜。

愛理をようやく寝かしつけた弥生が、ソファへ身体を預けた。

「......名前」

和彦が言った。

「ん?」

「まだ決めてなかっただろ。赤ちゃんの名前」

「あ......」

弥生は天井を見た。

本当に忘れていたらしい。

和彦は笑った。

「いいよ」

「え?」

「生まれてから決めよう」

弥生が顔を向ける。

「いいの?」

「ああ」

和彦は大きくなった弥生の腹を見た。

「顔を見て、仕草を見て。それから二人で考えてもいいだろ」

「でも愛理のときは、生まれる前に決めたじゃない」

「愛理は愛理。この子はこの子だよ」

「............」

「それに」

和彦は少し笑った。

「今のお前に、名前まで急いで決めろって言ったら怒られそうだから」

「怒らないわよ」

「本当に?」

「......たぶん」

二人で笑った。

そうして次女は、

名前を持たないまま、今日を迎えた。

 

「何食べたい?」

「おこチャま!」

「やっぱりお子様ランチか」

「うん!」

病院近くの食堂へ入ると、愛理は目の前に置かれた皿に歓声を上げた。

小さな旗。

ハンバーグ。

エビフライ。

ケチャップのかかったオムライス。

そしてプリン。

「パパ! はた!」

「ああ、旗だな」

「エビィ!」

「エビだな」

「プリンン!」

「プリンは最後」

「プリンンン!」

「最後」

「プリンン!」

「......一口だけな」

一方、和彦が注文したのは、うどんセットだった。

今の自分には、これくらいしか喉を通らない。

二人目だから大丈夫。

まだ時間はある。

そう自分に言い聞かせながら、うどんを啜る。

けれど頭の半分では、ずっと弥生のことを考えていた。

今頃どうしているだろう。

痛みは強くなっていないか。

何かあれば、明が知らせてくれるだろうか。

「パパ」

「ん?」

「たべちぇ」

愛理が父親のうどんを指差した。

ほとんど減っていない。

「ああ......食べる食べる」

父親というものは忙しい。

目の前にいる娘の昼食を世話しながら、まだ顔も見ていない娘のことを考えている。

 

食事を終え、二人は病院へ戻ることにした。

五月の風は相変わらず心地よかった。

愛理は父親の手を握り、道端のものを見つけては忙しく指を差す。

「あ!」

「犬だな」

「あ!」

「バスだな」

「あ!」

「......マンホールだな」

普段の愛理は、自分が世界の中心だと言わんばかりに、目に映るものすべてに興味を示す。

だから和彦も最初は気づかなかった。

数歩進んで。

右手が後ろへ引っ張られた。

「愛理?」

娘が止まっている。

視線の先には、小さな花屋があった。

店先には五月の日差しを浴びた、色とりどりの花が並んでいる。

「どうした?」

返事はない。

和彦が手を引く。

「愛理、病院に戻るぞ」

動かない。

「お母さん、待ってるぞ」

動かない。

和彦は娘の前へしゃがんだ。

「お花、見たいのか?」

こくり。

愛理は頷いた。

そのとき、店の奥から女性店員が出てきた。

「いらっしゃいませ。お花、お好きなんですか?」

愛理は和彦の後ろへ半分隠れた。

「あ、すみません。仕事のお邪魔をして」

和彦は反射的に頭を下げる。

役所勤めで身についた対人応対が、こんなところでも出る。

「いえいえ。中にもたくさんありますよ。よかったらどうぞ」

愛理が父親を見上げた。

「......少しだけだぞ」

店内には、さらにたくさんの花が並んでいた。

愛理はその間をゆっくり歩いていく。

さっきまで犬だ、バスだ、マンホールだと騒いでいた子が、不思議なくらい静かだった。

やがて、一輪を指差す。

真っ赤なバラ。

「これ?」

こくり。

続いて別の場所へ歩く。

今度は、淡いピンク色のカーネーション。

「......こっちも?」

こくり。

「二つ?」

「うん」

「一つにしないか?」

愛理は動かなかった。

「............」

和彦には分かる。

この顔は駄目だ。

普段は大人しい娘なのに、一度こうと決めたときだけは頑として譲らない。

こういうところは――

(弥生にそっくりだな)

「二つとも欲しいのか?」

「うん」

「どうして?」

答えない。

ただ、二本の花を交互に指差した。

「ひとちゅずつ」

「一つずつ?」

「うん」

何のためなのか、和彦には分からなかった。

「......分かった」

和彦は立ち上がった。

「すみません。この二本を一輪ずつお願いします」

「はい」

「あ、それと......別々に持たせてもらえますか?」

店員は愛理を見て微笑んだ。

「もちろんです」

店を出ると、愛理は二本の花を大切そうに胸の前へ抱えた。

「お父さんが持とうか?」

「だめ」

「落とすなよ」

「うん」

来たときより、少しだけゆっくりした歩幅で。

愛理は二本の花を宝物のように抱え、病院へ戻った。

 

待合室へ戻った和彦は、首を傾げた。

「......あれ?」

明がいない。

「おじいちゃん、いないね」

「トイレかな?」

長椅子へ座る。

時計を見る。

病院を出てから、まだ二時間ほどしか経っていない。

長女のときは八時間だった。

まだまだだろう。

三分ほど経った頃。

廊下の向こうから、看護師が足早にやってきた。

「あっ、姫川さん!」

「はい?」

「どちらへ行かれてたんですか!」

「え?」

「もう赤ちゃん、生まれてますよ!」

「............え?」

和彦の頭が止まった。

時計を見る。

看護師を見る。

もう一度時計を見る。

「いや......まだ二時間くらいしか......」

「元気な女の子ですよ」

「ええっ!?」

和彦は飛び上がった。

「愛理!」

「なに?」

「抱っこ!」

「おはなぁ!」

「花も持って! いや、お父さんが――」

「だめェ!」

「分かった! じゃあ、しっかり持って!」

愛理を抱き上げる。

娘は両手に花。

父親は娘を抱え、廊下を急ぐ。

二人目だから少しくらいは成長した。

そう思っていた自分は、何だったのだろう。

 

部屋へ入ると、最初に見えたのは明だった。

「............」

顔が緩みきっている。

二人目の孫娘を覗き込み、完全にデレデレだった。

「お義父さん!」

明が振り返る。

「遅かったな」

「いや、すみません!」

その声に、ベッドの弥生が反応した。

「......和彦!!」

「弥生!」

「どこ行ってたのよ!」

「えっ」

「大事な次女の出産に、いないなんて!」

怒っている。

ただし出産直後で疲れ切っているため、声は小さい。

「いや、その......愛理を連れて時間潰しに散歩を......」

「はぁ?」

「長女のとき八時間だっただろ? だから今回もそれくらいかかると思って......」

「............」

「本当に散歩してただけで......途中で昼飯を......」

「ご飯まで食べてたの?」

「俺はうどんだけだ! 愛理はお子様ランチで――」

「そういう問題じゃないでしょう」

「はい......」

明は口を挟まなかった。

ただ、少しだけ肩が揺れていた。

そのときだった。

和彦の腕の中で愛理が動いた。

「おーりる」

「ああ」

床へ下ろす。

愛理は二本の花を握ったまま、母親のベッドへ近づいた。

「ママ~」

「ん?」

「はい」

小さな手が差し出したのは、

淡いピンク色のカーネーションだった。

「......え?」

弥生が目を丸くする。

和彦も驚いた。

「愛理?」

「ママに」

「これ......ママにくれるの?」

「うん」

知っていたのか。

偶然だったのか。

それは誰にも分からない。

弥生はカーネーションを受け取った。

「......ありがとう」

愛理はもう一方の手を見る。

真っ赤なバラ。

そして、生まれたばかりの妹へ近づいた。

「こっちはね」

小さな手が伸びる。

「あかちゃんにー」

和彦が固まった。

弥生も言葉を失った。

「......愛理」

和彦は娘の前へしゃがんだ。

「もしかして......お母さんと赤ちゃんにプレゼントするために、花屋から動かなかったのか?」

「うん」

今度は、しっかり返事をした。

「あのとき言ってくれれば、お父さん、もっといっぱい買ったのに......」

愛理は少し考えた。

そして、はっきり言った。

「わたしが、えらびちぃかった」

「............」

和彦が言葉を詰まらせる。

「愛理ぃ......」

「ちょっと和彦、今度はそっちで泣くの?」

そう言った弥生の目にも、涙が浮かんでいた。

二年前。

この子は、自分の腕の中で泣いていた。

今では、自分で選んだ二本の花を抱えて歩き、母と妹へ一本ずつ渡している。

弥生は胸元のカーネーションを見る。

そして、愛理が妹へ贈った赤いバラを見る。

「......花」

弥生が呟いた。

「ん?」

「この子の名前」

和彦が黙った。

二人は、あえて決めていなかった。

顔を見てから。

仕草を見てから。

生まれてきたこの子を見て、二人で考えればいい。

そう話していた。

けれど――

二人だけではなかった。

弥生は愛理を見る。

そして、生まれたばかりの次女を見る。

「『愛』は、この子にも使わない?」

「愛?」

「うん」

長女の名前を考えたとき、和彦が選んだ文字。

愛のある子に。

人を愛し、人から愛される子に。

その願いは、長女だけのものではない。

「愛理と同じ。あなたが選んだ『愛』」

和彦は娘二人を見た。

ゆっくり頷く。

「ああ」

姉妹二人へ。

父親から、同じ願いを贈る。

そして弥生は、赤いバラへ目を向けた。

「......華」

「華?」

「花じゃなくて、『華やか』の華」

華やか。

華麗。

一輪でも、そこにあるだけで人の目を引く花。

何より――

その一文字へ弥生を導いた花は、姉が妹のために自分で選んだものだった。

和彦が、二つの文字をつなげる。

「......愛華」

「うん」

「愛華......」

もう一度、娘の顔を見る。

「いい名前だ」

二年前。

長女の名前は、父と母で決めた。

和彦の「愛」

弥生の「理」

――愛理。

そして今日。

次女の名前は、

父から受け継いだ「愛」と、

姉が贈った花から生まれた「華」

――愛華。

今度は二人ではない。

父と母。

そして、二歳の姉。

三人で生まれた名前だった。

「愛理」

弥生が呼んだ。

「なに?」

「妹のお名前、愛華よ」

愛理は首を傾げた。

「あいかぁ?」

「そう。愛華」

愛理は眠っている妹を覗き込んだ。

「あいかぁ」

もう一度呼ぶ。

そして少し考えてから、

「おねえちゃんだよ」

と言った。

部屋が静かになった。

和彦は鼻をすすった。

弥生はとうとう涙をこぼした。

明は少し離れたところから、四人を見ていた。

二年前にはいなかった家族がいる。

あの日、生まれたばかりだった愛理が、今日は姉になった。

そして今日。

もう一人、新しい家族が増えた。

明は二人の孫娘を交互に見た。

(......良か名前たい)

口には出さなかった。

(愛理。愛華)

二人の名前に、同じ一文字がある。

愛。

(愛に恵まれて育つとよか)

ジィちゃんは、それだけでよか。

窓の外には、五月の清々しい青空が広がっていた。

病室には、

淡いピンク色のカーネーションと、

真っ赤なバラが一輪。

朝まで名前のなかった女の子は、

その日、姉が選んだ一輪の花から、

「愛華」になった。




番外編・第弐話「次女誕生」

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ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
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