第12話「クソ真面目な人」
仕事場で見せる顔と、そうではない時間の顔。
その二つが寸分の狂いもなく重なった時、人は相手の深部にある生き方に触れるのかもしれない。
ことの始まりは、弥生が当時勤務していた美容室の30周年記念イベントだった。
サロンでは、日頃の感謝を込めて常連客と取引先の営業マンを招いたバーベキュー大会を催すことになり、スタッフ一人ひとりが、家族や特別な顧客を招待することになった。
(誰を呼ぼうかな......)
弥生が真っ先に思い浮かべたのは、市役所に勤める常連客、姫川和彦の顔だった。
彼女が海外のコンテストに挑戦し始めていることを知っても、必要以上に詮索してこない男。
肩書や話題性で自分を品定めせず、ただ髪を切られる時間を静かに楽しんでくれる客。
この人を担当している時間は、美容師としての純粋な喜びに満ちていた。
一方、招待を受けた和彦の頭にあったのは、まったく別の思惑だった。
(美容室の三十周年バーベキュー......? なぜ俺が?)
最初は戸惑ったものの、和彦はすぐに思考を切り替えた。
さまざまな年代の地域住民や事業者が一堂に会する場だ。
市政に対する生の意見や、普段の窓口では聞けない市民の要望を直に聞ける絶好の機会かもしれない。
「市民の声を聞く、いい機会だな」
恋愛の気配など微塵もない、あまりに大真面目な動機で、和彦は参加を承諾した。
当日、会場となった河川敷は賑わっていた。
和彦は到着するなり、地域行事で顔見知りになったレンタル業者を紹介し、急ぎで借りられる大型テントがないか問い合わせたり、食料の保管方法についてアドバイスを送るなど、ごく自然に動いていた。
やがて宴が始まると、和彦の本領が発揮された。
常連のおばあちゃんからバスの減便についての愚痴を聞かれれば「時間帯によって不便になりますよね」と親身に耳を傾け、営業マンと景気の話になれば的確に相槌を打つ。
子どもの遊び相手を務め、炭が少なくなれば自ら運んだ。
役所で培われた聞き手としての姿勢は、決して作りものではなかった。
相手に心地よく話させる術を持ちながらも、本気でその話に興味を示している。
そして何より、市民の声を聞くという当初の目的すら忘れ、いつの間にか地域の人々に混ざって、心からその場を楽しんでいた。
(あ......この人、店の中だけじゃないんだ)
肉を焼きながらその姿を目で追っていた弥生は、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
美容室の椅子に座っている時の穏やかな雰囲気と、大勢の人の中に混ざっている時の姿が、何一つ変わらない。裏表がない。誰に対しても、ただの「姫川和彦」としてそこに立っている。
「和彦さん、少し話せますか?」
片付けがひと段落した夕暮れ時、弥生は和彦を川沿いの少し離れた場所へ誘い出した。川面が夕日に染まっている。
「今日、来てくれてありがとうございました。和彦さんのおかげで助かりました」
「いや、俺も楽しかったよ。市民のみなさんの話も聞けたし......何より、すごくいい集まりだった」
和彦は照れくさそうに笑った。
弥生はその横顔を見つめ、静かに呼吸を整えた。
「......ねえ、和彦さん」
「ん?」
「私たち......お付き合いしてみませんか?」
まっすぐな告白だった。
サロンでの出会いから今日に至るまで、積み重なった信頼が確信に変わった瞬間だった。
しかし、和彦は即答しなかった。
喜びの表情を浮かべるどころか、急に真顔になり、腕を組んで深く考え込んでしまったのだ。
「......和彦さん?」
「いや......嬉しいよ、弥生さん。すごく嬉しい。俺も、弥生さんのことが好きだ」
「......なら、どうしてそんな難しい顔をしてるの?」
和彦はゆっくりと視線を弥生に向けた。
その瞳には、冗談や誤魔化しの色は一切なかった。
「弥生さん。ご両親には、俺と付き合うことを話せるか?」
弥生は思わず首を傾げた。
「え? ご両親......って、私の家族?」
「そうだ」
「なんで急に家族が出てくるの? 私たち、もう大人だよ? ただ付き合い始めるだけの話で――」
「ただ付き合う、なんて言わないでくれ」
和彦の口調は静かだったが、そこには揺るぎない芯があった。
「俺は、付き合うなら結婚のことも見据えて付き合いたい。そうじゃなきゃ、大切な娘さんの時間を預かる資格はないと思ってる。だから、コソコソ付き合いたくないんだ。ちゃんとご両親に挨拶をして、お許しをもらいたい」
「......えぇ!? 結婚の挨拶じゃなくて、交際の挨拶を!?」
あまりの古風さと真面目さに、弥生は言葉を失った。
「もし......もし私の親が反対したらどうするの?」
「反対されたら、納得してもらえるまで何回でも会いに行く。俺がどんな人間か知ってもらって、安心して預けてもらえるようになるまで諦めない」
「本気で言ってるの......?」
「本気だ。逃げるような付き合い方はしたくない。俺と付き合うことで、弥生さんが家族に嘘をついたり、気まずい思いをしたりするのは絶対に嫌なんだ」
呆れと、驚きと、そしてそれらを遥かに上回る深い愛おしさが、弥生の胸に押し寄せた。
(この人......想像していた以上に、面倒くさくて、真面目だ)
世間体や自分の立場を守るための「真面目さ」ではない。
自分の行動が引き起こす責任から、絶対に逃げないという男の矜持。 世界を目指して戦う自分に対しても、この男は同じ熱量と誠実さで向き合おうとしているのだと、弥生は理解した。
「......分かったわ」
弥生はくすっと笑い、吹き出してしまうのを必死で抑えた。
「来週末、うちに車で迎えに来て。お父さんもお母さんも、びっくりしてひっくり返るかもしれないけど......覚悟しておいてね」
「ああ。スーツを着ていく」
「そこまでしなくていいって!」
「いや、最低限の礼節は必要だろ」
「とりあえず、ちょこちょこ連絡するから、互いに準備しましょう」
西日に照らされた河川敷で、呆れ顔の弥生と、真剣そのものの顔をした和彦の会話が響いていた。
自分の選んだ関係から、決して逃げない。
この一筋縄ではいかない真面目な男となら、どんな未来が来ても一緒に歩んでいける
――確かな予感とともに、二人の歩みはここから始まった。
第12話 完
第13話つづく