ホームハサミが、刻んだ景色。第11話「14階」
← 次の話目次前の話 →

第11話「14階」

スポットライトの眩しさに目が眩み、自分の足元さえ見失いそうになっていた時期のことだ。

世界大会三連覇。
過熱するマスコミ報道、鳴りやまないサロンの電話、押し寄せる新規客と見物人。
世間が勝手に作り上げる「天才美容師・宮田弥生」という虚像に追いかけられ、弥生はまともに息をすることすらできなくなっていた。

そんなある日の平日、19時過ぎ。
仕事を終えた弥生は、帽子を深めにかぶり、首をすくめるようにして熊本市役所の本庁舎へと足を踏み入れた。

エレベーターで一気に上へ登る。案内板に記された目的地は、14階。

「遅かったな」
エレベーターの扉が開くと、自販機の前に立った和彦が缶コーヒーを手に待っていた。

役所の通常勤務を18時に終え、ここで待っていたらしい。

「ごめん、最後のお客さんのカラーが長引いて」

「腹減ったろ。なんか食うか?」

「え、ここで?」

「弁当持ち込み可だぞ。自販機もあるし、エアコンも効いてる。夜22時まで開いてるんだ」

和彦は至極当然のような顔で、窓際の机と椅子を指さした。

「市役所の最上階って、展望ロビーなんだぞ。ほら、案内板にも書いてあるだろ。でも、誰も来ない。みんな住民票なら何階、税金なら何階って、自分の目的の階しか見ないからな。14階が展望フロアなんて、市民でも滅多に知らない穴場中の穴場だ」

「......和彦。デートよね、今日?」

「そうだぞ?」
少しも悪びれずに答える和彦を見て、弥生は思わず噴き出してしまった。

高級レストランでも、洒落たバーでもない。
世界一の美容師になった自分を連れてきたのが、市役所の14階。

だが、手すりに寄って窓の外を見た瞬間、弥生は息をのんだ。

目の前には、闇の中に浮かび上がるライトアップされた熊本城と、どこまでも広がる市街地の夜景が広がっていた。

静かだった。聞こえるのは自販機の低い作動音と、遠い街の微かな喧騒だけ。
「......すごい。きれい」

「だろ? 高級店じゃないけど、景色だけなら一等席だ。それにここなら、記者も追ってこない」

和彦が差し出してきた温かい缶コーヒーを受け取る。
缶の熱が、冷え切っていた指先にじわじわと伝わってきた。

世界大会では、何千人もの視線と強いスポットライトを全身に浴びた。

日本に帰ってきてからも、カメラとマスコミの視線に晒され続けていた。

常に「見られる側」として緊張を強いられていた弥生にとって、誰もいないこの14階で、ただ街の灯りを「見る側」にまわれる時間は、何物にも代えがたい救いだった。

「熊本城を見るなら、みんな城まで歩いて行くからな。わざわざ市役所の上まで登って城を見ようとする奴はいない」

「ふふ、なにそれ。屁理屈」

「事実だろ」
和彦は「世界一の宮田弥生」に憧れているわけでも、チヤホヤしたいわけでもない。

世間がどれだけ彼女を過剰に持ち上げようと、和彦だけは出会った頃と変わらない距離感で、ただの「弥生」として接してくれる。

「ねえ、和彦」

「ん?」

「私......たぶん、今の店を出ると思う」
夜景を見つめたまま、弥生は静かに呟いた。

店や同僚に迷惑をかけ続けていること、自分の意思とは無関係に膨らんでいく世間の評価、そして自分のキャパシティを超えてしまった現状。
初めて、他人に本音を口にした。

和彦は驚く風もなく、静かに缶コーヒーを口に運んだ。

「そうか。独立か」

「......自分勝手かな」

「なんでだ? 溢れたなら、大きな器に変えればいいだけだろ。今の店はお前を育てるための場所で、今の状態を受け止めるために作られた場所じゃない。お前が新しく作ればいいだけの話だ」

和彦の実用主義で淡々とした言葉が、弥生の心にすっと染み込んでいく。
制度や仕組みの隙間を知っている公務員らしい冷徹さではなく、ただ隣にいる人間の生活と現実をまっすぐに見つめている男の温かさだった。

「そっか......そうだよね」

「よし、決まりだな。腹減ったから、下に降りて何か食うぞ」

「あ、ちょっと待って。あと五分だけ、この夜景見ていきたい」

「いいけど、21時半には出ないと警備員さんに声かけられるぞ」
文句を言いながらも、和彦は弥生の隣に並んで窓の外を眺めた。

世界の頂点に立ったパリの華やかな夜とは、まるで違う熊本の静かな夜。

人目を避け、隠れるように辿りついた市役所の14階は、弥生にとって「世界一の宮田弥生」から降りて、ただの自分に戻れる場所になった。


第11話 完
第12話へつづく
シェア
前の話 →
第10話「私を語る見知らぬ人々」
← 次の話
第12話「クソ真面目な人」
ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
目次を見る
コメント0
ログインしてコメントする
まだコメントがありません
ホームハサミが、刻んだ景色。第11話「14階」
← 前の話目次次の話 →

第11話「14階」

スポットライトの眩しさに目が眩み、自分の足元さえ見失いそうになっていた時期のことだ。

世界大会三連覇。
過熱するマスコミ報道、鳴りやまないサロンの電話、押し寄せる新規客と見物人。
世間が勝手に作り上げる「天才美容師・宮田弥生」という虚像に追いかけられ、弥生はまともに息をすることすらできなくなっていた。

そんなある日の平日、19時過ぎ。
仕事を終えた弥生は、帽子を深めにかぶり、首をすくめるようにして熊本市役所の本庁舎へと足を踏み入れた。

エレベーターで一気に上へ登る。案内板に記された目的地は、14階。

「遅かったな」
エレベーターの扉が開くと、自販機の前に立った和彦が缶コーヒーを手に待っていた。

役所の通常勤務を18時に終え、ここで待っていたらしい。

「ごめん、最後のお客さんのカラーが長引いて」

「腹減ったろ。なんか食うか?」

「え、ここで?」

「弁当持ち込み可だぞ。自販機もあるし、エアコンも効いてる。夜22時まで開いてるんだ」

和彦は至極当然のような顔で、窓際の机と椅子を指さした。

「市役所の最上階って、展望ロビーなんだぞ。ほら、案内板にも書いてあるだろ。でも、誰も来ない。みんな住民票なら何階、税金なら何階って、自分の目的の階しか見ないからな。14階が展望フロアなんて、市民でも滅多に知らない穴場中の穴場だ」

「......和彦。デートよね、今日?」

「そうだぞ?」
少しも悪びれずに答える和彦を見て、弥生は思わず噴き出してしまった。

高級レストランでも、洒落たバーでもない。
世界一の美容師になった自分を連れてきたのが、市役所の14階。

だが、手すりに寄って窓の外を見た瞬間、弥生は息をのんだ。

目の前には、闇の中に浮かび上がるライトアップされた熊本城と、どこまでも広がる市街地の夜景が広がっていた。

静かだった。聞こえるのは自販機の低い作動音と、遠い街の微かな喧騒だけ。
「......すごい。きれい」

「だろ? 高級店じゃないけど、景色だけなら一等席だ。それにここなら、記者も追ってこない」

和彦が差し出してきた温かい缶コーヒーを受け取る。
缶の熱が、冷え切っていた指先にじわじわと伝わってきた。

世界大会では、何千人もの視線と強いスポットライトを全身に浴びた。

日本に帰ってきてからも、カメラとマスコミの視線に晒され続けていた。

常に「見られる側」として緊張を強いられていた弥生にとって、誰もいないこの14階で、ただ街の灯りを「見る側」にまわれる時間は、何物にも代えがたい救いだった。

「熊本城を見るなら、みんな城まで歩いて行くからな。わざわざ市役所の上まで登って城を見ようとする奴はいない」

「ふふ、なにそれ。屁理屈」

「事実だろ」
和彦は「世界一の宮田弥生」に憧れているわけでも、チヤホヤしたいわけでもない。

世間がどれだけ彼女を過剰に持ち上げようと、和彦だけは出会った頃と変わらない距離感で、ただの「弥生」として接してくれる。

「ねえ、和彦」

「ん?」

「私......たぶん、今の店を出ると思う」
夜景を見つめたまま、弥生は静かに呟いた。

店や同僚に迷惑をかけ続けていること、自分の意思とは無関係に膨らんでいく世間の評価、そして自分のキャパシティを超えてしまった現状。
初めて、他人に本音を口にした。

和彦は驚く風もなく、静かに缶コーヒーを口に運んだ。

「そうか。独立か」

「......自分勝手かな」

「なんでだ? 溢れたなら、大きな器に変えればいいだけだろ。今の店はお前を育てるための場所で、今の状態を受け止めるために作られた場所じゃない。お前が新しく作ればいいだけの話だ」

和彦の実用主義で淡々とした言葉が、弥生の心にすっと染み込んでいく。
制度や仕組みの隙間を知っている公務員らしい冷徹さではなく、ただ隣にいる人間の生活と現実をまっすぐに見つめている男の温かさだった。

「そっか......そうだよね」

「よし、決まりだな。腹減ったから、下に降りて何か食うぞ」

「あ、ちょっと待って。あと五分だけ、この夜景見ていきたい」

「いいけど、21時半には出ないと警備員さんに声かけられるぞ」
文句を言いながらも、和彦は弥生の隣に並んで窓の外を眺めた。

世界の頂点に立ったパリの華やかな夜とは、まるで違う熊本の静かな夜。

人目を避け、隠れるように辿りついた市役所の14階は、弥生にとって「世界一の宮田弥生」から降りて、ただの自分に戻れる場所になった。


第11話 完
第12話へつづく
シェア
← 前の話
第10話「私を語る見知らぬ人々」
次の話 →
第12話「クソ真面目な人」
ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
目次
コメント0
ログインしてコメントする
まだコメントがありません