第2話「歩み、変わる景色」
熊本の路地裏に佇む自宅兼美容室。
一日の作業を終えた夜、60歳を迎えた弥生は、受付のカウンターで厚みのあるファイルを開いていた。
その拍子に、一枚の写真が床に落ちた。
拾い上げると、そこには三十年前、初めて世界一になった時の若き日の弥生が映っていた。
首から重厚な金メダルを下げ、眩しい光の中で誇らしげに胸を張っている。
睡眠時間を削り、指の皮が剥けるまでハサミを振り続けて手に入れた「世界一」の証。
審査員が点数をつけ、満場の拍手の中で受け取った、誰の目にも明らかな頂点だった。
弥生は写真をそっとファイルに挟み込み、閉じた。
その分厚いファイルこそ、角が擦り切れた「顧客カルテ」の束だった。
弥生はパラパラとページをめくり、ある一枚の紙で指を止めた。
『神谷 節子(かみや せつこ)』 初回来店:1994年11月8日。
三十二年前の文字。
その下には、二度の住所変更が朱書きで記録されている。
最初は隣の市へ。
次は隣の県へ。
現在の住所からこの店までは、JRとバスを乗り継いで、ぴったり二時間かかる。
住所の横には、店から遠ざかっていく地図とは裏腹に、三十二年間一度も途切れることなく、ほぼ二ヶ月おきに刻まれた施術記録がぎっしりと埋め尽くされていた。
(あんなに遠くなったのに......この人、まだ来てる)
弥生がカルテの余白を愛おしそうになぞっていると、ドアの鈴が小さくカランと鳴った。
「ごめんなさいね弥生さん、少し早めに着いちゃった」
入ってきたのは、手提げ袋を抱えた節子だった。
今年で60代後半になる彼女は、少し息を切らせながらも、慣れた足取りでセット面の椅子へ向かう。
弥生は微笑み、手際よくカットクロスを広げて節子の首元に巻いた。
「わざわざ二時間もかけて来なくても、そっちの家の近所にも美容室くらいあるでしょうに」
弥生がいつもの調子で軽口を叩くと、鏡の中の節子はくすりと笑った。
「あるよ。いっぱい。駅前にも綺麗な店ができたし、スーパーの中にもある。最近は安くて、若くて最新の技術を知ってる男の子が切ってくれる店もあるわ」
「じゃあ、そこで切ればいいじゃない」
「嫌よ」
「なんで?」
「だって、あんたじゃないもの」
一瞬の迷いもない言葉だった。
世界一のタイトルがあるから通っているのではない。
「弥生」という美容師に、自分の髪を触ってもらいたいから来ている。
弥生は何も言わず、シザーケースからハサミを引き抜いた。
シャキン。
静かな金属音が響き、弥生の指先が節子の髪をふわりとすくい上げる。
「......節子さん、ここ、昔から跳ねるのよね」
「知ってるわよ。二十七年前からそう言ってるじゃない」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「最近ちょっと、トップの髪が細くなったかしら」
「歳だからねぇ。でも大丈夫。今日はこの内側の髪を少し短く残して、土台を作っておくわ。そうすれば手ぐしだけでふんわり見えるから」
言葉少なに交わされる会話。
だが、その背後には三十二年分の記憶が横たわっている。
独身時代、初めてこの店にやってきた日の緊張した面持ち。
結婚式のために大切に伸ばしていた黒髪。
妊娠して「つわりがひどいから早く終わるショートにして」と駆け込んできた日。
育児に追われ、自分の服すら構えなくなった時期。
夫と喧嘩して、気分転換に少し派手なパーマをかけた日。
そして、母親を亡くした直後、沈黙の中で静かに涙を流していた日。
弥生はいつだって、彼女の人生の分岐点や何気ない日常のすぐ後ろで、ハサミを握り、鏡越しにその姿を見守ってきた。
世界大会の審査員は、毛先の角度やラインの正確さを採点した。
だが彼らは知らない。節子の髪が雨の日にどう膨らむか。
彼女がどんな人生を歩み、どんな想いで今日ここに座っているのかを。
「ねえ、弥生さん」
節子が鏡越しに弥生を見つめた。
「娘の由香、覚えてる? 小さい頃、ここで騒いでクロスの中に潜り込んでた」
「覚えてるわよ。あの子がもう、立派なお母さんだものね」
「そうなの。今度、孫を連れて来るって言ってるわ。『おばあちゃんがずっと通ってるお店に行ってみたい』って」
弥生の手が一瞬止まり、すぐにまた滑らかなリズムを取り戻した。
「......楽しみに待ってるわ」
カットが終わり、ドライヤーの風で毛先を整えると、鏡の中には落ち着いた華やかさを纏った節子の姿があった。
「やっぱり、あんたに切ってもらうと落ち着くわ。また二ヶ月後にね」
お会計を済ませ、手提げ袋を抱えた節子は、満足そうな笑顔を残して再び二時間かかる帰り道へと歩き出した。
一人になった店内で、弥生はカルテを開き、今日の日付と『トップ土台補強、手ぐし仕上げ』と書き加えた。
あの写真に映っていた金メダルの輝き、鳴り響く歓声、胸に抱いた重い金属の感触。
死ぬほど練習して勝ち取った「世界一」。あれは間違いなく、自分の青春の全てであり、今も変わらない誇りだ。
次に、手元にある擦り切れた一枚のカルテを見る。
審査員はいない。点数もない。
賞金も名誉もない。
コンクールはその日の技術を測るが、美容室の評価は「客が次回来るかどうか」でしか測れない。
一人の客が、自分の人生の三十二年を預け、往復四時間をかけて自分を選び続けてくれたという、動かしようのない事実。
「昔の世界一より今の方が価値がある」などとは言えない。
どちらも本物だ。
若き日に極限まで技術を高めた自分がいたからこそ、今の自分の手がある。
ただ、評価の測り方が違うだけなのだ。
弥生はカルテを静かに閉じ、棚の最も取り出しやすい場所へと戻した。
窓の外では、夕暮れの街を人々が行き交っている。
引き出しの中の擦り切れたカルテは、三十二年分の温かな熱を静かに宿していた。
完