第1話「ハサミは雄弁に語る。」
シャキン。
静まり返った閉店後のサロンに、刃と刃が重なり合う微かな硬金属音が響く。
「先生、こちら、今いちばん推している最新フラッグシップモデルです。今やトップスタイリストの6割がこちらに乗り換えておられますよ」
カタログを広げ、自信満々に試用品のハサミを差し出すのは、複数の美容メーカーの商品を扱う、大手美容材料卸の営業マンだった。
現在、60歳を迎えた弥生は、眼鏡の奥の目を細めてそのハサミを受け取った。
握り込み、空中で二度、三度と開閉させる。
指に吸い付くようなフィット感、吸い込まれるような開閉の滑らかさ。文句のつけようもない現代工学の結晶だ。
「うん。すごくいいハサミね」
弥生は素直に褒め、それをそっと革のマットの上に戻した。
そして、カタログの隅に追いやられた、モノクロ写真の古いページを指差す。
「いつもの、お願いできる?」
営業マンは困惑したように眉をひそめた。
「また、あの型番ですか? 先生、あれはもう通常ラインから外れていて、完全受注生産なんです。納期もかかりますし、何より重いでしょう? こちらの最新型なら長時間のサロンワークでもお手に負担がかかりませんよ」
「そうね。重いよ」
弥生はくすりと笑い、自分の腰革のシザーケースから、研ぎ減って刃幅が少し細くなった愛用のハサミを引き抜いた。
「でもね......軽すぎると、どこに『いる』のか分からなくなるの」
「ハサミが......ですか?」
「そう。私の指は、この重さで育っちゃったから。どこに刃先があるか、目で見なくても指の肉が知ってるのよ」
営業マンは言葉を詰まらせ、諦めたように「受注生産で手配します」とノートを閉じた。
弥生にとって、ハサミは単なる道具ではない。
自分の十数センチ伸びた指先そのものだった。
同じ型番のハサミを、研ぎ潰しては買い替え、何本も手になじませてきた。
世の中の流行が変わり、薬剤が進化し、自分自身が歳を重ねて指関節に小さじ一杯の強張りを覚えるようになっても、この重量と重心だけが、かつて世界を制したあの時代の自分と、今の自分を違わず繋ぎ止めてくれるのだった。
時計の針を、三十数年前に巻き戻す。
当時25歳。熊本の美容室でアシスタントから昇格し、大会へ挑み始めていた若き弥生は、自分に合うハサミを探して喘いでいた。
有名メーカーの高級品、大会優勝者が愛用する軽量モデル。
どれを試しても、しっくりこない。
そんな時、資材屋の片隅に置かれていた、聞いたこともないメーカーの無骨な一本が目に留まった。
「これ、どこの?」
「ああ、それですか。新潟の小さな町工場ですよ。元々は鍬とか鎌とか、農具を作ってるところでね。最近美容ハサミに参入したらしいんですが......まあ、無名ですね」
「農具?」
思わず吹き出しそうになりながら、弥生はその無骨なハサミを握った。
シャキン。
(......え?)
もう一度、開閉する。
シャキン。
重い。華奢なデザインとは程遠い。
今の洗練されたハサミに比べれば癖もある。
だが、手から離そうとすると、指先が強烈に拒絶した。
熱を帯びた鋼の奥から、地鳴りのような自負が伝わってくる感覚。
超常現象などではない。だが、若い弥生の耳には、確かに聞こえた気がしたのだ。
――『俺を選べ』
『俺とお前で世界の頂点に行くぞ』
と。
鋼の冷たさの裏にある、狂おしいほどの熱量。
職人が鉄を叩き、焼きを入れ、何度も
何度も試行錯誤した「魂の声」のような泥臭さ。
「......これにします」
弥生は迷わず、その名もなき一本を選んだ。
新潟の雪深い町工場。 真っ赤に熾った炉の前で、55歳の熟練職人兼社長の男は、汗を滴らせながら鋼を叩いていた。
カン――! カン――! カン――!
「これから農具だけじゃ立ち行かなくなる」と一念発起し、美容ハサミに手を伸ばしたものの、壁は分厚かった。
草を刈る鎌や、土を掘る鍬とは違う。
髪の毛という繊細で柔らかい一本の繊維を、逃がさず、傷つけず、わずかな狂いもなく断ち切る刃。
人間の指の延長になる道具。
「切れるだけじゃ駄目なんだな......」
失敗の山を築き、爪を黒く染めながら、職人は魂を削るようにして初期型の一本を組み上げた。
その工場では、大学を卒業したばかりの息子が、営業カバンを抱えて全国を駆け回っていた。
ある日、出張から戻った息子が、作業場で砥石に向かう父親の背中に声をかけた。
「親父!」
「ん?」
「熊本のサロンの宮田弥生さんっていう若い美容師さん」
「......誰だ」
「親父の作ったあのハサミ、使ってる人だよ。他の有名メーカーのを断って、ずっとうちの初期型を使ってくれてるんだ」
父親は手を止めず、削り節のような鉄粉を吹き飛ばした。
「そうか」
「でね、伝言。『作ってる職人さんに伝えてください。このハサミには魂を感じます。愛を感じます。ありがとうございます』ってさ」
息子はくすっと笑って、「じゃ、飯行ってくるわ」と作業場を出て行った。
残された父親は、ゆっくりと砥石から手を離した。
黒く汚れた極太の指で、机の上に転がっていたハサミの試作品を拾い上げる。
開いて、閉じる。
シャキン。
職人は、めったに見せない歪な笑みを浮かべ、ボソリと呟いた。
「......小娘が、いっちょ前に分かっとるじゃないか」
感極まって泣くような真似はしない。
だが、胸の奥底で、炉の火よりも熱いものが爆発した。
翌朝、息子が修復部門にハサミを渡す準備をしていると、父親が箱を奪い取った。
「これは、俺がやる」
「え? 工場のラインに回せばいいだろ」
「駄目だ。熊本のあの娘の分だけは、研ぎも磨きも調整も全部俺がやる」」
「なんで急に?」
「......うるせえ。いいから置いとけ」
職人の頑固な一言。
それが、誰に宣言するでもない、一つの「契約」の始まりだった。
それからの三十数年は、怒涛のようだった。
25歳、国内大会勝ち残り、シンガポール・アジア大会初優勝。
ハサミは静かに研ぎ直されて熊本へ戻ってきた。
26歳、国内主要大会で複数優勝。
一気に頭角を現す。
シンガポール・アジア大会初2連覇。
息子が「親父! あの子アジアで勝ったぞ!」と叫んでも、父親は「そうか」とだけ言い、黙々と刃を研いだ。
27歳、パリHWC世界大会初優勝。
28歳、HWC世界大会2連覇。
29歳、HWC世界大会3連覇。
「あの日本の小さな東洋人が使っている、黒い輝きを放つハサミは何だ?」
パリのプレスがざわつき、世界中のトップスタイリストから、新潟の小さな町工場へ注文が殺到した。
弥生の名が世界へ広がるにつれ、彼女の手元にあった無名のハサミにも注文が集まり始めた。
町工場の名は、いつしか海外の美容師にも知られるようになっていた。
社長業がどれほど忙しくなろうとも、新製品のラインがいくつ立ち上がろうとも、父親は弥生から「研ぎ直し」や「新調」の注文が入るたび、社長室を出て一人静かに工房へと出向いた。
弥生自身は、顔を合わせたこともない職人の裏の事情など、何も知らなかった。
ただ、何年経っても、新しい一本を注文するたびに箱から漂う「あの炉の熱気」と、寸分狂わぬ手応えに、深い信頼を寄せているだけだった。
そして、現在。
サロンの営業が終わり、一人鏡の前に立つ弥生のもとへ、初老の男性が訪ねてきた。
かつて若い営業マンとして熊本を訪れていた、あの副社長だった。
「弥生さん、ごぶさたしています」
「あら、副社長。わざわざどうされたの?」
副社長は手に、重厚な木箱を抱えていた。
「これ......持ってきたんです」
「え? 私、ハサミ頼んでないわよ?」
弥生が不思議そうに首を傾げると、副社長は落ち着いた眼差しで、静かに頭を下げた。
「先週、父が息を引き取りました」
「......そう」
一度も会ったことのない、遠い新潟の職人。
弥生は静かに言葉を受け止めた。
泣くような距離感ではない。
だが、どこか胸の奥の深い場所で、冷たい風がそっと吹き抜けるような感覚があった。
「これは、父が病床につく直前まで手をつけていた、最後のハサミです。......あなたへの、最後の一本になりました」
副社長の手から木箱を受け取り、フタを開ける。
そこには、三十数年間、彼女の指先であり続けた「あの古い型番」が、新品の漆黒の光を放って横たわっていた。
弥生はそれを持ち上げ、指を通した。
シャキン。
目を閉じる。 重さ。重心。刃先のミリ単位の位置。開閉の抵抗。親指に伝わる鋼の「声」。
「......完璧ね。相変わらず」
指先から伝わる感触の先に、一度も会ったことのない男の「頑固な背中」がはっきりと見えた気がした。
副社長は穏やかな声で語り始めた。
「弥生さん、覚えていらっしゃいますか? 三十数年前、私がまだ駆け出しの営業で、父が農具からハサミを作り始めたばかりの頃のことです」
「ええ......」
「あなたが『このハサミには魂を感じる。作った職人さんにありがとうと伝えてくれ』とおっしゃったのを」
「......そんなこと言ったかしら」
「父に伝えたんです。そうしたら父は、試作品を握りしめて『小娘が、いっちょ前に分かっとるじゃないか』と、少しだけ笑っていました」
弥生は何も言わず、ただ手の中のハサミを見つめた。
そして副社長は弥生に問いかける様に、言葉をかけた。
「同じ型番だと思ってました?」
「え?」
「実は、父があなたに作ったハサミは、全部少しずつ違うのです」
「確かに商品紹介のカタログには、同じ型番が存在します。
しかし、父は『駄目だ。熊本のあの娘の分だけは、研ぎも調整も全部俺がやる』と社長命令と言わんばかりに、営業部や製造部には強く念入りに指示していました」
「最初に研ぎ直しへ戻ってきた一本を見て、父は若い弥生さんの開閉の強さを読んだそうです。それからは、同じ型番でも少しずつ重心やバランスを変えていました。世界王者になった二十七歳、三連覇された二十九歳、そして今の六十歳。同じ手でも、使い方はずっと同じではありませんから」
副社長が思い出したように、フッと笑った。
「刃のどこが減っているか。どこに力が掛かっているか。どう使っているか、それを見つけるのが楽しかったようでした」
『前より刃先を使うようになったな』
『開閉が速くなった』
『また切り方を変えやがったな』
「そんなことを言いながら、いつも少し笑っていましたよ」
弥生は今までまったく知らなかった。
自分が変わるたび、遠い新潟で、自分を見たこともない職人もハサミを変えていたとは。
そして副社長が最後に、静かに呟いた。
「父にとって、これはもう商品じゃなかったんでしょうね」
短い沈黙のあと、副社長が続けた。
「お代は不要です、父が残した最後のハサミを受け取って下さい」
「あなたの一言が、あの人の職人としての誇りだったんです。弥生さん、父のハサミを長年使ってくださって、本当にありがとうございました」
副社長は静かに礼を言い、サロンを後にした。
一人残された店内で、弥生はセット面の椅子に腰掛けた。 鏡に映る自分と、手の中のハサミ。
会ったこともない新潟の職人の死は、遠い出来事のようでもあり、それでいて、自分の一部がそっと欠けたようでもあった。
(そうか......もう、この人のハサミは届かないのね)
寂しさが、じわりと指先に染み込んでくる。
これから同じ型番の新しい一本が届いたとしても、もうあの人の手ではない。
かつて自分を世界へ連れて行った相棒にも、いつか終わりが来る。
その事実が、指先から静かに伝わってきた。
弥生はハサミをもう一度だけ開閉した。
シャキン。
鋭く、けれど温かい音。
「......私の指先を造ってくれて、ありがとう」
声に出して呟き、弥生はハサミを愛おしそうにシザーケースへ収めた。
第一話 完