第3話「偶然の出会い」
ある土曜のサロンで、若き宮田弥生はマネキンの首に向かってハサミを握りしめていた。
アジア大会の開幕まで、あとわずか。だが、どれほどハサミを走らせても、どれほど正確にパネルを打ち抜いても、指先にしっくりと来る手応えがない。
「......駄目だ。マネキンじゃ、緊張しない」
ウィッグの髪は動かない。
話さない。頭の角度も変えなければ、汗もかかない。
生活の匂いすらしない。
世界を狙うなら、予定調和ではない「本物の人間の髪」を切り落とす緊張感が欲しかった。
その時、レジの電話が鳴った。
受付のアシスタントが受話器を取り、困惑した顔で店内を見る。
「誰か今からカット一名いけますか? 予約なしのフリーのお客様なんですけど......」
弥生は、電話の方に振り返った
「お前、大会前のリハーサル中だろ。断れ」
奥から店長が声を飛ばしたが、弥生は即座にカットクロスを手にとった。
「店長、私やります。マネキンじゃ駄目なんです。初めてのお客さんを切らせてください」
電話の主は、市役所の子育て支援課に勤める当時25歳の男――姫川 和彦(ひめかわ かずひこ)だった。
弥生より3歳年上の彼は、どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。
基本は土日祝日休みの彼だったが、前日の金曜日夕方、上司から急遽「週明け月曜、県庁での子育て支援意見交換会に課長と一緒に出席しろ」と命じられていた。
本来は係長以上が出る重要な会議だ。
あわてて身だしなみを整えようと数軒の美容室に電話をかけたが、金曜の夕方はもちろん、土日の予約もどこもいっぱい。
藁にもすがる思いでかけたのが、弥生のいるサロンだった。
「担当のご希望はありますか?」
『特にありません。どなたでも。』
「午後15時からご案内できます」
『15時からお願いします。店の場所は把握しています』
「では15時にお待ちしています」
店にやってきた和彦をセット面に案内し、弥生はコームを入れながら情報を探った。
「とりあえず、清潔感のある感じでお願いします」
(......清潔感、ね)
弥生は心の中で呟いた。
大会の競技なら、緻密な完成図と採点基準がある。
だが、店では「清潔感」には長さも形も数値もない。
「耳は出しても大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「前髪は?」
「仕事で邪魔にならなければ」
「普段、ワックスとかは?」
「全然使わないです。朝も時間がないので」
なるほど、と弥生は頷いた。
セットに頼らず、手ぐしだけで整い、役所の会議で好印象を与える形。
目の前の人間の「生活」に合わせてハサミの角度を決めていく。
シャキン、シャキン。
規則正しいハサミの音が響く中、和彦は手持ち無沙汰そうに尋ねた。
「突然、予約もせず駆けつけてすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。美容室は土日祝日が一番忙しいですから」
「ああ、そうか。大変ですね」
大会の重圧で張り詰めていた弥生の心が、ふっと緩んだ。
世界大会の話もしない。
技術論も語らない。ただの何でもない日常の会話。
その温度差が、妙に心地よかった。
一ヶ月後。
アジア大会で優勝を果たし、周囲から「世界の宮田」と持て囃され始めた頃、サロンの予約表にあの名前が載った。
『姫川 和彦様(フリー→指名:宮田弥生)』
セット面に座った和彦は、開口一番、照れくさそうに笑った。
「いや〜、前回切ってもらったら、なんかすごく反響が良くって」
「反響、ですか?」
「ええ。自分じゃよく分からないんですけど、違う部署の人から『なんか印象変わりました?』とか『爽やかでいいね』って言われて。......あと、偶然なんですけど、内々に係長に昇進が決定しまして」
「それは私、関係ないでしょう(笑)」
「いやいや、だからゲン担ぎですよ。今回もお願いしようかなって。前回みたいな感じで、お任せします」
和彦はただの世間話として言っていた。
だが、弥生の胸には、アジア大会の金メダルをもらった時以上の熱い波が押し寄せていた。
高校時代に夢見た「自分の切った髪が、店を出たあとの誰かの人生を少しだけ前に動かす」という感覚。
100点の採点よりも、一ヶ月後に「またお願いします」とドアを開けてくれたという事実。
それが、町の美容室での最初の成功体験だった。
それから和彦は、毎月通うようになった。
受付で受け取る雑誌は、女性向けの美容誌でも大会の特集号でもなく、新聞か一般の週刊誌。数メートル先の棚に、弥生のインタビュー記事が掲載された雑誌が置かれていても、
「このへん、最近道路工事が多くて混みますね」
と、相変わらず呑気な話をしていた。
アジア大会で優勝以降、誰と会っても「先生」「アジア大会優勝おめでとう」「次は世界大会ですね」と肩書きばかりを見られる中で、姫川和彦という男だけは違った。
彼は「世界の宮田弥生」でもなく「カリスマ美容師」でもなく、「毎月自分の髪をさっぱりさせてくれる宮田さん」として接し続けてくれた。
やがて交際が始まり、数年が経過した。
結納の日を迎えても、弥生はわざわざ自分の実績を口にしなかった。
両家が顔を合わせた席で、弥生の叔父が何気なく口を開いた。
「いやあ、和彦さん。うちの弥生は昔から美容一筋でしてね。パリの世界大会でも三年連続で優勝して......」
隣で重箱の中の昆布巻きをつついていた和彦の手が、ピタリと止まった。
「............え?」
和彦はゆっくりと弥生を振り向いた。
「......世界大会?」
「うん」
「三連覇?」
「したね」
「......今も世界一ってこと?」
「まあ、そうなるね」
「聞いてないんだけど!?」
「聞かれなかったから」
和彦は頭を抱えた。
「じゃあ俺、世界一の人にずっと『ここ、もうちょっと短くしてください』とか言ってたの!?」
「客なんだから当たり前でしょ」
周囲が大爆笑に包まれる中、和彦は信じられないという顔で弥生を見つめていた。
だが、世界一だと知った後も、和彦の態度は何一つ変わらなかった。
「先生」などと呼び始めることもなく、セット面に座るといつも通り言った。
「今日も清潔感ある感じで」
「現役の世界一に注文それだけ?」
「役場だからね」
そして、三十数年の歳月が流れた。
60歳を迎えた弥生の自宅兼美容室。
閉店後の店内で、63歳になり定年退職を迎えた和彦がクロスを首に巻いて座っている。
「どうする?」
「出会った頃の感じ。......と言いたいところだけど、いつも通りは無理か」
「分かってるじゃない。髪減ったんだから」
「増やす技術はないのか? 元世界一なんだろ」
「美容師を何だと思ってんの」
軽口を叩き合いながら、弥生は昔と変わらぬ手つきでハサミを握る。
「そういえばさ、最初に来た日のこと覚えてる?」
「覚えてるよ。土曜の昼間に切ってもらったろ」
「あの日ね、私、あなたで大会の練習をしてたのよ」
「は?」
「マネキンじゃ緊張感がないから、本物の人間を切りたいって」
「俺、練習台だったのかよ!」
「実戦練習。おかげで優勝できたんだから」
「......俺のおかげか?」
「それは違う」
二人は鏡越しに顔を見合わせて笑った。
和彦の髪を切る手の中で、重厚なハサミがシャキンと心地よい音を立てる。
あの電話がかかってきた日。
アジア、その先の世界を目指すために引き受けた「突然現れたフリー客」は、いつしか自分の人生を一番近くで支えてくれる夫になっていた。
「はい、お疲れ様。さっぱりしたわ」
「おお、サンキュー。やっぱり弥生に切ってもらうのが一番落ち着くな」
その鏡の中には、白髪の増えた3歳上の夫と、歳を重ねた自分が映っていた。
第3話 完
第4話につづく