第三章:星神夫婦の過保護なお出掛け
新たに生まれ落ちた星々の瞬きが、青々とした豊かな大地を優しく照らし出す『星産み』の領域。
かつての閉じた暗闇はとうに消え去り、今では満ち足りた光と生命の息吹が満ちるその庭で、地母神・翠嶺はふわりと薄緑の神衣を揺らした。
足取りも軽く出掛けようとする彼女の背中に、すかさず少しばかり焦ったような、それでいて深い甘さを帯びた声がかけられる。
「翠嶺、どこへ行く?」
振り返れば、そこには星神・辰星の姿があった。
かつて深淵で狂おしいほどの愛執と劣等感に囚われていた彼は、本来の神威と輝きを取り戻した今でも、翠嶺の姿が少しでも視界から外れることをひどく嫌う。
「皓月のところですよ、あなたさま」
翠嶺が慈愛に満ちた微笑みを向けると、辰星はほっとしたように目元を和らげ、しかし当然のように距離を詰めてきた。
「なれば私も共に」
「構いませんが......その手は?」
歩み寄るなり、辰星の両腕が翠嶺の腰へ伸びてくる。翠嶺が不思議そうに小首を傾げると、辰星はさも重大な真理を説くかのように、ひどく真面目な顔で答えた。
「何、ここからでは距離がある。私が抱えて行けば、そなたの負担は軽減されよう」
「......ほんの少ししか離れておりませんが」
いまや至高の座にある最高神・天地神のもとにいる月神のところまでは確かに少しは距離がある。それでも神である彼女たちの足ならば瞬きする間に等しい。
けれどかつては、その腕が伸ばされることはなかった。
互いを想いながらも届かず、ただ世界を拒絶し続けた永い歳月。
だからこそ今、この温もりを拒む理由など、翠嶺にはどこにもなかった。
翠嶺が思いを馳せる少しの間に、辰星はばつが悪そうに、しかし決して引くことはなく翠嶺を己の胸の中へと引き寄せた。
「......私が、そなたに触れておらねば気が済まぬのだ」
ぽつりと零された言葉には、数千年もの間、腕の中にいながら決して手が届かないと思い込んでいた過去が滲んでいる。
ようやく掴んだ幸福を、もう二度と失いたくない。
その切実な独占欲が、彼の声には宿っていた。
痛いほどの彼の本音に、翠嶺はほんの少しだけ目を伏せ、それから柔らかく花が咲くように微笑んだ。
「それは困りましたね...。なれど、あなたさまがそうされたいのであれば」
咎めることなどできるはずもない。翠嶺もまた、彼と同じように途方もない時間をこじらせ、彼を求め続けていたのだから。
「...どうぞ?」
彼女がそっと両腕を伸ばして辰星に身を委ねると、彼は満足げに力強く頷き、愛おしい宝物を扱うように翠嶺の身体をふわりと抱き上げた。
「うむ。しかりと捕まっておれ」
「本当に、仕方のない御方」
自分を抱き上げた途端に声に滲んでいた切実さが霧散し、神威すら温かく包み込むようにまとわりつくのを翠嶺は感じる。
広くて温かい胸元に頭を預け、そうして、少しだけ呆れたように嘆息する。
けれどその手はしっかりと辰星の衣を握りしめ、二柱は寄り添ったまま、光の帯を引いて月神の待つ領域へと昇っていく。
「皓月には、新しく芽吹いた大地を見せたいのです」
翠嶺は辰星の胸元へ身を預けたまま、眼下に広がる緑豊かな大地へと視線を向ける。
柔らかな風が二柱の神衣を揺らし、生まれたばかりの星々が祝福するように静かな輝きを放っていた。
「月神も喜ぶだろう」
辰星は翠嶺の穏やかな横顔を眺めながら静かに頷く。
皓月は夜を巡らせる神であると同時に、この豊かな世界を誰よりも慈しむ神でもある。
翠嶺が丹精込めて育んだ大地を見れば、きっとあの銀の双眸を優しく細めることだろう。
「玄霄さまも、きっと」
その名に、辰星は僅かに眉を寄せた。
「......あの男は月神しか見ておらぬ気もするが」
どこか呆れを含んだ声音に、翠嶺は堪えきれず小さく笑みを零す。
「ふふっ。ひと柱だけを見ているのは玄霄さまだけではないでしょう?」
「......揶揄うでない」
返ってきたのは、どこか気まずそうな低い声だった。
普段なら泰然と構える星神が、こうして言い返せずに視線を逸らすことなど滅多にない。
その珍しい反応がおかしくて、翠嶺は肩を震わせながら、そっと彼の胸へ頬を寄せる。
「あなたさまは今、私だけを見て下さる」
「......否定はせぬ」
観念したようなその一言に、二柱の間へ穏やかな笑い声が溶けていった。
――長い夜を越え、ようやく重なり合った星と大地。
こちらの二柱の日常もまた、甘く、そしてどこまでも平穏に満ちていた。