10.令嬢にあるまじき振る舞い
鷹司の家は、寒々としている。何度も訪れているのに、美也子はいつもそんな感想を抱いてしまう。
松平では柔らかい表情を見せる昇二も、鷹司の門をくぐった瞬間、冷酷な顔になる。
厳しい顔をしている昇二の横で、妻が粗相する訳にはいかない。美也子も、一段と気を引き締めるのだった。
「明けましておめでとうございます」
美也子は、まず義父母に向かって三つ指をついた。おめでとう、と声をかけられたのを合図に顔を上げた美也子は、体を少し動かし義兄の雄一にも頭を下げた。
「お義兄様も、明けましておめでとうございます」
「ああ」
雄一の返答はそれだけだった。義父は、おめでとうと、言い添えたのに。
正妻である義母との間に生まれた雄一は、昇二と同じ二十五歳。なのに、あからさまに昇二を見下している。
美也子でも、感じ取れるのだ。敷地内の別宅に住んでいたとはいえ、妾の子である昇二にとっては、居心地がいい環境ではなかったのだろう。
しかし、同情心はない。
時代は変わっているとはいえ、長男が優遇されるのはどの家も同じだ。年が同じのそれも男性同士、というのは常に比較されて不幸とは思うが、せいぜいそれだけ。
美也子が抱くのは。
(相変わらず、嫌な目つきですわね)
美也子は雄一に気付かれないように、そっと息をつく。上から下まで、睨め回すように自分を見てくる雄一の目には、いつも嫌悪感が走る。
美也子は悟られないように義兄に微笑むと、義父母の方へ再度向き合った。
一刻も早く、家に帰りたいと願いながら。
※
「あー、美也子って言ったか」
暗い廊下で後ろから呼びかけられた美也子は、ドキリとする。
振り向いた先には思った通り、雄一が立っていた。
新年の挨拶に訪れる鷹司の親類や知人の接待が終わり、ご不浄に立った美也子を追いかけて来た雄一は、完全に酔っ払っていた。
酒が過ぎている、と雄一を窘める人間は、鷹司にはいなかった。
雄一の妻である義姉は、出産のために実家へ戻っているし、何故か義父は雄一に甘い。雄一に、というより、常に義母に気を遣っているのだ。
来訪者の前でも、昇二を下に見る態度でいる雄一に、妻としては腹立たしくて仕方なかった。
だが卒なく挨拶をし接待する昇二に、美也子も妻として従うしかなかった。
(二日で良かったわ。今日が元旦で、もっと来訪者が多ければ、確実に我慢ができませんでした)
半ばイライラしながら歩いていた時に、原因の雄一に呼び止められたのだ。これほど不快なことはない。が、美也子は令嬢だった。
「お義兄様も、ご不浄ですか。お先にどうぞ」
心の内を隠すなど造作もない。美也子は廊下の端に寄り、雄一に譲った。だが、雄一は何故か美也子に近寄ってくるではないか。
「お義兄様? 酔われたのですか!?」
強い声になったのは、警戒心と嫌悪感から。雄一は先程よりも欲望を露わにした目で、美也子の前に立ち塞がった。
「侯爵家というのが鼻につくが。若いし、見た目だけは悪くない。昇二には勿体ないくらいだ」
ゾワッと肌が粟立った。美也子は、早口で「ありがとうございます」とだけ告げ、目を伏せた。なのに、雄一は絡んでくる。
「結婚したのに、まだ女学校に通っているんだって? それに上の学校に行きたいらしいじゃないか。女は家庭を守るものだろう?」
雄一もか。美也子は思わず眉間に皺を寄せる。表面を取り繕い、サラリと水に流す。それが華族の妻に求められる要素だということは、重々承知している。
しかし、上の学校に行くのは、結婚の条件で提示していたこと。雄一が口出ししてくることではない。
何故なら、昇二は松平家の婿。よその家のことに口出し、偉そうに考えを振りかざしてくる雄一に美也子は腹が立つ。
(昇二様は柔軟なお考えですのに、お義兄様は頭が固いわ。だから、凡人なのですね)
胸の内で呟いたつもりだったのに。昨日は松平家での接待、今日は鷹司で朝から遅くまで来客の相手で疲れていた美也子は、感情を上手く隠せなかったようだ。
ただでさえ、負の感情は相手に伝わりやすい。口に出していないのに、言いたいことは如実に伝わってしまった。
「なんだ、その目は!?」
怒号が飛んでくる。だが美也子の頭は逆に、どんどん冷めてくる。と、その時、暗い廊下の隅で動く影があった。
美也子には、誰かすぐに分かった。いざとなったら、彼が止めに入ることも。ならば、敢えて吹っ掛けてみよう。
美也子は視線を上げ、睨むような目つきで雄一を見据えて、言い放った。
「松平家のことです。鷹司家には関係ありませんわ」
きっぱりと拒絶した美也子に、案の定、雄一は怒気を露わにした。
「生意気な女だ!」
といい、美也子の顎をぐいっと掴んで顔を上げさせた。
「お止めください」
冷ややかな声で美也子は制すると、雄一の手を払い除けた。
その行いが、雄一の怒りに火をつけた。
下卑た目つきから、一気に憤怒の表情に変わる雄一を眺めながら、美也子の口は止まらなかった。
「わたくしは昇二様の妻です。触れないでくださいな」
「それがなんだ?」
雄一は美也子に迫る。
「俺は鷹司の長男だぞ? 次男の嫁は、大人しく言うことを聞けばいいんだ! まぁ本当は、昇二の方が先に生まれたんだがな」
今初めての事実を知り、美也子は思わず固まってしまった。その隙に、雄一は美也子の腰を抱き寄せる。
「なんだ、知らないのか。妾腹のあいつの方が、俺より数日早く生まれたことを。正しい順番で長男・次男と戸籍を登録していたら、あんたの夫は俺だったわけだ!」
そう叫ぶ雄一の瞳は酔眼にも関わらず、暗い炎を宿していた。
あぁ、そういうことか。美也子は、やっと腑に落ちた。
雄一は憎んでいるのだ、昇二を。
妾の子のくせに、自分より優秀な弟。どれだけ長男だと威張ろうとも、義母が甘やかそうとも、結局、義父が目をかけているのは昇二なのだ。
その証拠に、海外での商談は昇二が担っている。松平の婿となり、国内でしか展開していない美也子の父の仕事を引き継いだ今も、昇二が外国を訪れるのは、鷹司の商談を雄一には任せられないからだ。
本来なら松平の家業に専念すべきなのに。
昇二は今でも業務提携という形で鷹司の商談をまとめ、報酬を受け取っているのだ。
それが、ますます雄一を苛立たせてしまう。
歪んでいる。が、同情はしない。どの家でも自分の思い通りにならないことなど、山のようにあるのだ。
美也子だってそうだ。兄が出奔したことで婿を取り、松平の家を継いだ。潰れるのを待つだけのところを、すんでのところで救ってもらってよかったな、という者もいたが、家名を守る重荷を知らない人間の言い分だ。
貧乏だろうが、没落寸前だろうが、松平は侯爵家。見えないところで、負わないといけない義務は多い。お上より爵位を拝命した家の人間の務めであるのだ。
美也子だって、跡取りの兄がいなくなったことで背負わなければいけない義務は増えた。最たる例が、婿を取ったことだ。だが、文句を言ってどうなるというのか。与えられた環境で生きるしかないのだ。
それが無理なら、兄のようにすべてを捨てて出奔したらいい。それがいいのか悪いのかはわからないが、筋は通っている。
雄一のように恵まれた環境なのに、不平不満しか言わない人間は、大嫌いだ。
美也子は微笑んだ。笑っているのに腰を掴んでいた雄一が、一歩引いてしまうくらい、怖い顔だった。
「お義兄様が次男でしたら、わたくしに選ばれたと。そう仰りたいのでしたら、思い上がりも良いところですわ」
「な、何を言っ......」
「昇二様ですから、わたくしは婿に迎えたのですわ。わたくしが上の学校に行くことも、良妻賢母になれないことも飲み込んでくださるので。お義兄様にそれがお出来になるのですか」
「あ......いや」
案の定だ。美也子が強気に出るだけで、雄一はタジタジとなる。強いものにはこびへつらい、弱い者には強気に出る。典型的な弱い人間である。
美也子は駄目押しとばかりに、強く言い放った。
「わたくしは貧乏とはいえ、侯爵家の娘です。爵位を振りかざすのは好ましくはありませんが......。男爵家のお義兄様が、指図なさるのですか? わたくしに? 弟の妻だから、と仰って指図を?」
「ひっ......」
雄一の口から悲鳴のような声が出た時だった。
「兄さん、その辺りにしてください」
ようやく昇二が割って入ったのだった。