9.本当に自分の夢なのか
パウリスタで話してから、一月後の大安吉日。
十七歳の美也子と、二十五歳の昇二は夫婦となった。
侯爵家らしからぬ、こじんまりした式。めでたいこととはいえ、大々的に式をするのは、父も憚れたようだ。豪華絢爛な式を挙げる金銭もない。
婿に迎える以上、松平の家が結納金をはじめ、金銭を出すのが筋だが、用意するゆとりは残っていない。大部分を鷹司家が担った。
利害関係が一致した政略結婚だ。新婚の二人が幸せそうな顔を浮かべていないこともあり、来賓は複雑な笑みを浮かべながら祝いの言葉を口にしたのだった。
※
「昇二様、後で書斎に伺ってもよろしいでしょうか?」
夕食後、席を立つ昇二に美也子は声をかけた。昇二が不在の時でも書斎に立ち寄る美也子が、断りを入れる。それだけで昇二は今日が何日か、ピンときたようだ。
「一日か」
「ええ」
美也子の顔が赤らむ。今日は雑誌の発売日。美也子はこの日を毎月楽しみにしていた。特に連載中の小説がいいところで終わっている。一刻も早く読みたい。
「まだ読んでいる途中でしたか?」
「いや。今日は忙しくて、まだ読めていない」
「そう......でしたか」
あからさまにがっかりした表情だったのだろう。昇二は愉快そうに笑った。
「書斎に置いてあるんだ。先に読めばいい」
「そうはいきません」
頑なに首を振る。美也子は、昇二が読み終えてから自分が読む、と決めていた。
昇二が結婚前の条件に出した、完璧な妻。昇二がどう捉えているのか、具体的に尋ねたことはないが、今のところ文句は出てこない。
美也子が何かしら勉学に励んでいる姿が好ましいのか。手がすいたら、昇二の方から海外の様式や英語など、教えてくれることもある。
代わりに美也子も、昇二が率先して社交場に連れて行こうとするのを、断ったことはない。勉学を優先したい、という要望は聞いてもらっているが、それ以外は時間の許す限り、付き添っている。
立ち振る舞いは問題ない。美也子は華族令嬢として、父母から徹底的に礼儀を叩き込まれているのだから。
とはいえ、博識で如才なく振る舞う昇二には、美也子の援助など不要だった。隣に立ち、微笑んでいるだけだった。
完璧な妻になると誓ったのに。昇二は美也子の力を借りなくても、上手く人脈を広げている。
隣に立って会話を盗み聞きしていても、半分も内容が分からない。そのことが、非常に悔しい。
母に愚痴れば「殿方のお話に口を挟むなど、差し出がましいことはしてはなりません」と叱られるだろう。
それでも美也子は、断片的に聞こえてくる昇二の話を耳にする度に、知識が足りず傍観者に徹するしかないことが悔しくて堪らなかった。
(昇二様の言う通り、女子大学校に進学した方がいいのかしら)
パウリスタで師範学校に進むと宣言した美也子に、昇二は良いとも駄目だとも言わなかった。何となくうやむやになったまま、美也子は勉学に励んでいた。成績は変わらず上位であるし、まだ受験までは猶予がある。
今から進路を女子大学校に変える、と告げても昇二は二つ返事で了承するだろう。
美也子は、無意識に髪を留めているリボンに手を伸ばした。
毎日髪をくくっているリボンは、くたくただ。それでも、美也子は常に身に着けていた。
自分では絶対に選ばない、金春色。外国ではターコイズと呼ばれる、明るい青。
(約束を......)
その瞬間、美也子の脳裏に過去の記憶が蘇った。
送り主は、女学校近くの男子学生だった。学校近くで見かける彼が帝国図書館に通っていると知り、偶然を装って何度か言葉を交わした。
三つ上の彼は、教師になりたいという夢を抱いていた。が、軍人の家系だったため、その進路は許されないと寂しそうな声で呟いた彼の顔は、今でも鮮明に覚えている。
士官学校に進む彼と最後に会った日、美也子は金春色のリボンと共に託されたのだ。
「僕の代わりに、教師になる夢を叶えてくれないか」
と。
一方的に淡い恋心を抱いていた、彼からの頼み。その日から、彼の夢は美也子の目標になった。
もともと興味はあったから、教師を目指すことに抵抗はなかった。むしろ、女学校を卒業して、誰かわからない男性の元に嫁いで妻や母となるよりも、職業婦人の一人として働く方が美也子には魅力的に映った。
贅沢な悩みだ。尋常小学校の後、女学校に進学できるのは、一握りの人間だ。没落寸前とはいえ、進学できたのは家柄のおかげだ。
新しい知識を得るのは純粋に楽しかった。女に学などいらぬ、という父への反抗心もあった。なにより、学べば学ぶほど、自分が賢くなる気がした。
しかし、昇二の隣に立っている自分は、あまりにも無知だ。知らないことだらけだ。こんな浅薄な人間が、人を教え導く職に相応しいのか。
美也子には、わからなくなっていた。
「......美也子?」
ハッと気づくと、目の前に昇二の顔があった。いつの間にか黙りこくっていた美也子の顔を、覗き込んでいたのだ。
「体調が悪いのか?」
淡々とした口調なのに、瞳は心配そうに揺らいでいた。
見透かされる。整理がついていない、自分のぐちゃぐちゃな胸の内をすべて、見透かされてしまう。
美也子は昇二から逃れるように、視線を逸らした。
今の昇二の目は、見たくない。最初の頃のように冷徹で無関心で、美也子のことなどただのお飾りの妻という態度で居続けてほしいのに。
共に暮らす内に、昇二は変わった。険が取れ、柔和な顔つきになった。
「奥様のおかげですね」
昔から昇二に仕えている使用人は皆、口を揃えた。
それが、美也子には負担になっていた。
(情を交わさない。そういうお約束で......お互いに利用しあって......)
なのに。昇二の方は、たまに一線を越えようとしてくる。女としての情が欲しいのなら、外に妾でも作ってほしいと伝えているのに。昇二の本意がわからなくて美也子は混乱する。
「どうした? 返事すらできないのなら、医者を......」
「不要です。少々ぼんやり......。いえ、やはり少し体調が悪いみたいですので、本日は先に床についてもよろしいでしょうか」
美也子は昇二と目を合わせないまま、小声で呟いた。頷いたのか、昇二の周りの空気がふわりと動く。
「そうしなさい。......誰か、美也子を部屋に」
「いえ。一人で歩けますから」
美也子は昇二と目を合わせないまま、立ち上がった。
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
逃げるように自室に戻った美也子は、真っ暗な部屋に入るなり、ズルズルと座り込む。
昇二とは結婚以来、寝室は分けている。昇二が部屋に立ち入ることも、近くに寄ることもない。
安堵と同時に、美也子の手足がさぁ、と冷たくなって、その場から動けなくなった。
胸にぽっかりと大きな穴が開いたように、心まで寒々と冷えている。
雑誌の最新号が出た高揚感は、いつの間にか遠くに消え去っていた。