第3章
律とタッグを組んでから、わたしたちは連日図書館内の資料室へ籠っていた。
目的は、あの不審人物の正体を探ること。
公安都市白書は、世界中から集められた貴重な書物を保管する都市。
そのため警備は異常なほど厳重。
大通り。
駅。
オフィスビル。
図書館内部。
ありとあらゆる場所に防犯カメラが設置されているらしい。
白書の人間は、家などのプライベートでない限りカメラに映る。
そんな街だった。
だからこそ、おかしかった。
映っていない。
何度記録を確認しても、あの不審人物だけが綺麗に消えている。
正確に言えば、律が追いかけたあの瞬間以外すべて。
それ以前も、それ以降も。
どの記録にも存在していない。
「 ...ない」
わたしはモニターを睨んだ。
資料室には、古い紙の匂いと電子機器の熱気が混ざっている。
壁一面にはここ数週間分のデータが読み込まれている。
そこへ映し出される白書の街。
映像を巻き戻し。
止め。
拡大し。
また巻き戻す。
そんな作業を、わたしたちは三日間繰り返している。
不審人物がカメラを警戒して、路地だけを移動していた可能性はある。
あるいは。
途中で変装を変えていたのかもしれない。
だけど違和感が残る。
あの時、不審人物は大通り側を背にしていた。
もし本当に路地だけを移動していたのなら。
最初に遭遇したのは、律のはずだ。
わからない。
わたしはモニターから目を離す。
長時間座り続けていたせいで、肩が重い。
「んー」
小さく身体を伸ばすと、背中の骨が伸びるとともに鳴る。
調べ始めて三日目。
未だに相手の正体も目的も分からない。
あれから、また襲われることはなかった。
だけど。
だからこそ怖い。
いつ、どこから現れるか分からない。
思い出しただけで、肩が小さく震える。
「大丈夫やで」
入口の方から声が聞こえる。
振り返ると、律が片手を振りながら部屋へ入ってきた。
どうやら外回りから戻ってきたらしい。
黒いマントを翻しながら、律は机へ腰を下ろす。
「ワイが相棒な限り、絶対守ったる」
律は笑いながらそう言った。
軽い調子。
いつものふざけた笑み。
だけど、不思議と落ち着く。
悪魔のほほえみは時に天使にもなるらしい。
「 ...それで」
わたしはモニターから視線を外しながら聞く。
「何か見つかったの?」
「いーや、不審人物については何も」
律は椅子へ深く座り込みながら答える。
そして。
どこか楽しそうに目を細めた。
「ただ、面白そうな事件は見つけたで」
「 ...事件?」
わたしは思わず律を見る。
不審人物に関する情報だろうか。
少しでも繋がりがあるなら知りたい。
そんなわたしを見ながら、律は机へ一枚の写真を放り投げた。
そこには。
喉元を大きく裂かれた白衣の男が映っていた。
わたしはびっくりして、椅子から滑り落ちた。
死体を見るのは慣れない。
ただ、一瞬見ただけだったが見覚えがあった。
路地裏で見た死体と、同じ。
「また、起きたんや」
「しかも、犯行方法は全く一緒」
律の口角が上がっている。
「なら、行って確かめて見ましょ」
そう言いながら私たちは椅子から立ち上がる。
わたしたちタッグに支給された黒いスーツ。
黒いマント。
律は壁へ立て掛けていた刀を腰へ差した。
刀の所持は法律に引っかからないのかと思ったが、警察の拳銃と同じ扱いになっているらしい。
「ほな、事件解決といこか」
そう言って。
わたしたちは、新たな事件現場へ向かった。
――事件現場は、古びたアパートの一室だった。
被害者は、白書大図書館で研究員として働いていた男性。
死因は、喉元を大きく裂かれたことによる出血死。
これが、わたしたちに渡された事前情報。
そして。
これが現実 ...。
わたしたちは、燃え上がる現場をただ茫然と見つめていた。
「 ...なんやこれ」
事の始まりは二時間前。
わたしたちは、事件現場である研究員の部屋へ調査に来ていた。
被害者の死体はすでに運び出された後だったが、床や壁には大量の血痕が残されている。
赤黒く乾き始めた血。
鉄みたいな臭い。
鼻の奥へこびりつく生臭さ。
「おえぇぇぇぇぇ ...」
わたしは耐え切れず、トイレへ駆け込んだ。
胃の中のものを吐き出しながら、震える手で壁を掴む。
無理だった。
何度見ても慣れない。
死体はなくても。
ここで誰かが死んだという事実だけで、胸の奥が重くなる。
「そろそろ慣れんかぁ」
律がけろっとした顔で背中をさする。
「な、慣れるわけないでしょ ...」
わたしは蛇口をひねり、水で口をゆすぐ。
冷たい水が少しだけ意識を落ち着かせた。
深呼吸をしてから、改めて部屋の中を見渡す。
研究員の部屋には、無数の本が置かれていた。
床。
机。
ベッドの周囲。
さらには壁一面の本棚まで。
海外の古い言語学書。
哲学書。
歴史文献。
見たこともない文字で書かれた本まである。
研究員は、図書館から書物を借り、自室で研究することが許されている。
だから、この本のほとんどは図書館の所有物らしい。
「 ...なんやこれ」
律が本棚を眺めながら呟く。
わたしは律の視線を追った。
そこには、本棚の中で一か所だけ微妙に高さがズレている場所があった。
律は何かを思いついたように、本を何冊か入れ替え始める。
「ちょ、なにして ――」
止める前に。
カチリ。
小さな音が鳴った。
次の瞬間。
本棚と本棚の隙間が、ゆっくり横へ開いた。
「 ...うわ」
わたしは思わず声を漏らす。
隠し扉だった。
律は子供みたいな顔で笑う。
「おー、空いたわ」
そして。
隙間が開くと同時に、一冊の本が床へ落ちてきた。
黒い表紙の分厚い本だった。
ただ表紙には、紫色のテープが貼られている。
わたしは触ろうとする律の手を抑えた。
図書館で調べ物をしていた時、わたしは書物のランクについて教わっていた。
白と黒は、一般公開されている本。
黄色は歴史的価値の高い文献。
赤と青は、学術的・人類学的価値を持つ危険書物。
そして。
紫。
“誰も触れてはいけない本”。
理由は知らない。
そもそも、管理職の人ですら見ることは滅多にないらしい。
そんな本が。
なぜ、研究員の部屋にあるのか。
「律 ...これって」
「まぁ、完全にあかんやつやろ」
律も真顔になっていた。
わたしたちは顔を見合わせる。
嫌な予感しかしない。
律はすぐに警察官を呼ぶ。
駆け付けた警察官は、白い手袋を嵌めると慎重に本を持ち上げた。
「こちらで回収します」
その声を聞きながら、わたしたちはクマさんへ報告するため部屋を出ようとする。
その時だった。
警察官が、本を開いた。
いや、本が勝手に開いたようにも見えた。
瞬間。
本が、脈打つように光り始めた。
「 ...っ」
淡い白色。
ページの隙間から無数の光が漏れ出していく。
風もないのに本のページは勝手に捲れ始め、文字が浮かび上がる。
黒いインクで書かれていた”文字”が、本から剥がれるように宙へ浮かび上がっていった。
無数の“文字”が、生き物みたいに空中を漂っている。
わたしは息を呑む。
あの時。
十五階で見た光と同じだった。
だけど、今度は違う。
言葉が浮かび上がっている。
それにその文字たちは、見覚えがある気がした。
警察官が後ずさる。
「な、なんだこれ ...!」
「絶対やばいやつやん!」
律の声が響く。
今度は律にも見えていた。
浮かび上がった文字列が、警察官の周囲を取り囲む。
そして。
一斉に収束した。
その瞬間だった。
律がわたしを抱え上げた。
「逃げるぞ!!」
律はそのまま全力で階段を駆け下りていく。
凄まじい速度だった。
景色が流れていく。
何が起きているのか理解できない。
ただ、本能だけが叫んでいた。
“あれは危険だ”と。
律は建物の外へ飛び出す。
その直後だった。
ドゴォォォン ――!!
爆発。
わたしたちがいた階が吹き飛んだ。
熱風が背中を叩く。
ガラスが砕け散る。
本のページが、雪みたいに空を舞った。
人々の悲鳴。
逃げ惑う足音。
辺りは阿鼻叫喚の嵐だった。
律はわたしを抱えたまま、さらに後方へ下がる。
「あかん、まだ近いわ!」
わたしは呆然と炎を見つめていた。
本を開いた警察官はどうなったのだろう。
あの光は、あの本はいったい何だったのか。
頭が追いつかない。
「 ...なんやこれ」
律も、燃え上がるアパートを見つめながら茫然。
その時。
風に乗って、一枚の紙切れがわたしの頭へ落ちてくる。
わたしはそれをそっと掴んだ。
焼け焦げた紙。
その中央に。
たった二文字だけ、読める言葉が残っていた。
『〝魔女〟』
その瞬間、背筋が凍った。
まただ。
あの時と同じ。
“魔女”という言葉を聞いた時の感覚。
身体の奥が、恐怖に満ちていく。
律はそんなわたしを見ると、静かに背を向けた。
「 ...帰るぞ」
わたしは小さく頷く。
その後。
律に背負われるようにして、わたしたちは燃え続ける現場を後にした。
「あの、クマさん」
「私たちに隠していること、ありませんか」
燃え上がるアパートから戻ったわたしたちは、そのままクマさんの執務室へ来ていた。
部屋の中には、静かなクラシック音楽が流れている。
ただ、部屋の空気は重い。
机の上へ置かれた紅茶から、細い湯気だけが立ち上っている。
「 ...なんのことだ」
クマさんは椅子へ深く腰掛けたまま答えた。
「ランク紫の書物が外部へ持ち出されていた件についてなら、我々も把握していなかった」
「申し訳ない」
クマさんは静かに頭を下げる。
わたしは紅茶を一口飲んだ。
温かい。
だけど、胸の中の違和感は消えなかった。
おかしい。
この街は異常なほど警備が厳重だ。
一般人ですら監視されている。
そんな場所で。
“誰も触れてはいけない本”が盗まれた。
しかも、誰にも気づかれないまま。
さらに、その本は光り、爆発した。
そして、律から聞いた話だと今回の事件を“勧めてきた”のはクマさん自身だと言う。
偶然にしては出来すぎている。
「 ...本当に知らなかったんでしょうか」
わたしは静かに問い返した。
その瞬間。
律が驚いたようにこちらを見る。
「そう言うとるやないか」
律は不思議そうに眉をひそめる。
だけど、クマさんは違った。
「 ......何が言いたいんだ」
低い声だった。
空気が重くなる。
わたしは思わず喉を鳴らした。
怖い。
この人は、律を片手で吹き飛ばした。
本気で怒れば、きっとわたしなんて簡単に潰せる。
それでも。
ここで止まるべきじゃない気がした。
「この街では、窃盗みたいな軽犯罪も含めれば、一週間に五百件近い事件が起きています」
わたしは震える足を必死に押さえながら続ける。
「その中で」
「わざわざ、わたしたちへ勧めた事件でランク紫の書物が出てきた」
「そんな偶然、あるんでしょうか」
部屋が静まり返る。
時計の針の音だけが響いている。
「つまり」
クマさんが静かに口を開く。
「私が、君たちを殺そうとしたと?」
圧が強くなる。
空気が重い。
呼吸が苦しい。
「いえ」
わたしは首を横へ振った。
「クマさんが、わたしたちを殺す理由はないと思います」
そう。
殺すだけなら、もっと簡単な方法がある。
そもそも。
エバさんが、そんな人へわたしを預けるはずがない。
「ただ」
「別の目的があったんじゃないでしょうか」
クマさんの目が細くなる。
わたしは続けた。
「クマさんは、ランク紫の存在を知っていた」
「そして」
「わたしたちなら対処できると考えて、現場へ向かわせた」
律が目を見開く。
「 ...は?」
「お前、何言っとんねん」
律は信じられないという顔でこちらを見た。
「ワイがおらんかったら、お前死んどったやないか」
「そんな危険なこと、クマさんがさせるわけ ――」
「逆です」
わたしは律の言葉を遮った。
「律がいたから、行かせたんです」
律が黙る。
クマさんは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「クマさんは、律なら絶対に死なせないと知っていた」
「それに」
「実際、あの場で“本”を見て生き残ったのは、わたしたちだけです」
わたしは机を見つめながら続ける。
「もし他の人間が生き残っていたら」
「あの光」
「あの文字」
「ランク紫の情報が漏れる」
「それを防ぎたかったんじゃないですか」
重い沈黙だった。
わたしはだんだん不安になってくる。
全部、間違っていたらどうしよう。
その時だった。
パンッ ――。
部屋へ大きな拍手が響いた。
クマさんだ。
「 ...すまない」
「少し、試すような真似をしてしまった」
「え」
律が固まる。
「ほ、本当なんか?」
クマさんは小さく笑った。
「やっぱり、頭脳面では律はダメダメだな」
「なんやそれ」
律が抗議する。
だけど。
クマさんは真面目な顔へ戻った。
「アル君」
「君の推測は、半分正解だ」
半分。
わたしは小さく息を呑む。
「確かに、ランク紫の存在はこちらも把握していた」
「だが」
「計画したのは私じゃない」
「エバさんだ」
その名前を聞いた瞬間、胸がざわついた。
「 ...エバさんが?」
「もし」
「君たち二人が、きちんと“組める”状態になったなら今回の事件に向かわせる。
そして今回の事件を生き残り我々の考えを理解できたなら、正式に任命してほしい」
「そう頼まれていた」
「任命 ...?」
クマさんは静かに立ち上がる。
窓の外の白書を見つめながら、低い声で続けた。
「律は身体能力が異常だ」
「ただ、考えるのは苦手だ」
「アル君は逆だ」
「知識と観察力は優秀だが、まだ弱い」
そして。
クマさんはゆっくりこちらを振り返った。
「二人で、ようやく一人前だ」
律が不満そうに眉をひそめる。
「ランク紫があるって知ってたなら、なんで警察官を行かせたんや」
律は静かに怒っていた。
「それなら問題ない」
「問題ない?」
「人を殺しておいてか!」
律がクマさんの胸ぐらを掴む。
だけどクマさんは動じない。
「彼らなら全員生きている」
「 ...は?」
わたしは思わず声を漏らした。
あの爆発の中で。
助けることなんて不可能だったはずだ。
「爆発する直前、光が収束した瞬間があっただろう」
「あのタイミングで窓から全員引き上げた」
わたしは息を呑む。
確かに。
大量のガラスが散っていた。
あれは爆風だと思っていた。
「私が窓を破って入ったんだ」
律も、わたしも言葉を失う。
クマさんは静かに椅子へ座り直した。
そして。
わたしたちをまっすぐ見つめる。
「君たちには、NOTEへ入ってもらう」
「NOTE ...?」
「白書の裏側を扱う部署だ」
「君たちが知りたいこと」
「ランク紫」
「あの光」
「そして、“魔女”についても」
「そこへ入れば、いずれ知ることになる」
“魔女”。
その言葉を聞いた瞬間。
また背筋が冷たくなった。
身体の奥がざわつく。
わたしは無意識に、自分の腕を掴んでいた。
クマさんは静かに続ける。
「もちろん危険も多い」
「だからこそ、今回の件は適性試験でもあった」
「どうする」
「NOTEへ入るか?」
部屋の空気が静まり返る。
律は腕を組みながら、ちらりとこちらを見た。
「まぁ、ワイはそのつもりやけど」
「アルちゃん次第やな」
突然話を振られ、わたしは言葉に詰まる。
だけど。
知りたかった。
あの光の正体を。
“魔女”という言葉を聞くたびに身体が震える理由を。
そして。
雪原で倒れていた、わたし自身のことを。
わたしはゆっくり顔を上げる。
「 ...入ります」
その瞬間。
クマさんは静かに笑った。
こうして、わたし達は白書の裏部隊NOTEに所属することになった。
新しい部隊へ所属することになったわたしたちは、街の中で聞き込みを続けていた。
NOTEへ入ってから 1週間。
だけど、収穫はほとんどない。
「やっぱ情報ないなぁ ...」
律が最初に音を上げた。
ベンチへ倒れ込むように座り込み、だらしなく足を投げ出す。
「違法薬物なんてもん、ほんまに出回っとるんか?」
律は空を見上げながらぼやく。
「こんだけ警備厳重な街で、わざわざ薬なんか売るアホおるんかいな」
公安都市白書。
この街は世界中の貴重書を保管している。
だからこそ警備も異常。
大通りには無数の防犯カメラ。
ただここ数週間だけ、妙に事件件数が増えていた。
殺人事件。
廃人化。
失踪。
NOTEでは、それらすべてが“違法薬物”によるものだと考えられていた。
「実際、事件件数は増えてる」
わたしは端末を確認しながら答える。
「でも、防犯カメラにも売人らしき人影は映ってない」
「なら次は?」
律がだるそうに聞く。
わたしは地図を見ながら答えた。
「路地を調べる」
「えぇ ...」
律が露骨に嫌そうな顔をする。
だけど、わたしは無視して歩き出す。
すると結局、律も後ろからついてくる。
律は口うるさい。
だけど、なんだかんだ最後までついてくる。
暗い路地へ入った瞬間、空気が変わった。
湿っていて、生臭い。
大通りの光も届かず、壁は薄汚れている。
足元をネズミが走り去っていく。
細い配管からは、ところどころガスが漏れ出している。
「この前も思ったけど、路地、怖ないんか?」
律が周囲を見回しながら聞いてくる。
「いや?」
わたしは即答した。
路地は怖くない。
わたしにとって恐怖は、“死を想像した瞬間”にやってくる。
血、ナイフ、殺意。
あの日の感覚。
ただ、死ぬから怖いのではない。
体が動かなくなり、何もできなくなることが怖い。
「ほんま可愛げないなぁ」
「必要?」
「めっぽう必要」
「そう」
わたしは適当に聞き流しながら奥へ進む。
白書は、中心から外れるほど警察の力が弱くなる。
だから裏社会の人間は外側へ集まる。
今回の薬物も、おそらく同じだ。
一時間ほど歩き続けると、路地が少し開けた。
小さな広場のような空間。
三方向へさらに細い道が伸びている。
隅には木箱が大量に積まれていた。
その時。
一匹のネズミが、木箱の隙間へ潜り込んだ。
わたしは目を細める。
「律」
「この木箱、動かせる?」
「はいはい」
律はだるそうに木箱を持ち上げ始める。
すると。
その奥に、古びた扉が現れた。
小さな看板。
『ネーム』
バーみたいな店名だった。
「あかんなぁこれ」
律が端末を確認する。
「店の登録情報ないわ」
つまり違法営業。
裏社会向けの店。
薬物取引にはうってつけだ。
ただ、中から物音はしない。
鍵も開いている。
わたしたちは目を合わせると、そっと扉を開けた。
中には古びた机と椅子、酒瓶。
だけど埃は少ない。
最近まで使われていた形跡が確かにあった。
さらに奥へ進む。
そこには、大量の結晶が詰め込まれた木箱が積まれていた。
壁には赤いスプレーで文字が書かれている。
『言葉は力を与える』
『力は世界を支配する』
「 ...完全に黒やん」
律が呟く。
わたしは急いで端末で写真を撮っていく。
その時だった。
ガチャ ――。
入口の扉が開く音。
「まだランク紫を手に入れられねぇのか!」
男の怒鳴り声が響く。
「あれがねぇと ......」
複数人。
しかも多い。
「アル、ここ離れるぞ」
「捕まえないの?」
「無理や」
律が窓の外を指さす。
そこには二十人以上の人影。
「囲まれとる」
「おい、そういえば木の箱誰がどけたんだ?」
男が侵入者に気づいたその瞬間、律はわたしを抱き上げる。
「逃げるで」
次の瞬間。
バンッ ――!!
律が扉を蹴り破った。
男たちの横を強引に突破する。
「おい!
ネズミだ!」
「追え!」
一斉に足音が響く。
わたしたちは狭い路地を全速力で駆け抜けた。
最初は距離の差がひらいていた。
しかし、男たちが結晶を飲み込んだ次の瞬間。
彼らはあり得ない速度で距離を詰めてきていた。
「うそやろ!?」
「追いついてくるんかい!」
「バケモンやろ!」
律が叫ぶ。
その瞬間。
「てめぇが一番化け物だろ!」
追いついてきた、男の一人が上から剣が振り下ろした。
律はさらに地面を強く蹴りながら急加速し、ギリギリで回避する。
刃が地面へ突き刺さり、火花が散る。
ただ、敵の速度が落ちない。
むしろ速くなっている。
律の呼吸が荒くなり始めていた。
このままじゃ追いつかれる。
その時だった。
わたしは、路地の天井付近を見た。
古い配管。
そこから大量のガスが漏れている。
「律!」
「右の配管切って!」
「はぁ!?」
「早く!!」
律は意味が分からないまま刀を抜く。
次の瞬間。
斬撃が走る。
ブシュゥゥッ ――!!
大量のガスが路地へ噴き出した。
「次、ナイフ投げて!!」
「忙しいなおい!?」
律は腰からナイフを取り出す。
そして、追ってくる男たちのほうへ投げる。
キン ――。
火花が散る。
次の瞬間。
ボッ ――!!
漏れ出していたガスへ火が走った。
路地の奥で、小さな爆発が連鎖する。
「うおっ!?」
「がっ!?」
追手たちの足が止まる。
炎と煙が視界を覆い、男たちの足を止めた。
「今や!!」
律はわたしを抱えたまま地面を蹴る。
一気に加速。
建物の壁を蹴りながら、さらに上へ飛ぶ。
わたしたちは屋根の上へ着地した。
下では、炎に包まれた路地が赤く燃えている。
ただ。
完全に倒したわけじゃない。
男たちはまだ動いていた。
「チッ、しぶといなぁ」
律が舌打ちする。
「でも、足止めにはなった」
わたしが言うと、律はニヤリと笑った。
「アルちゃん、頭回るやん」
そのままわたしたちは屋根伝いに走り去っていく。
やがて。
後ろの足音が完全に消えた。
律はようやく足を止める。
「 ......っはぁ」
「 ......死ぬか思った」
壁へ背中を預けながら、律が荒く息を吐く。
わたしも心臓が激しく鳴っていた。
だけど。
律は息を切らしながら、こちらを見る。
「アルちゃん、最高やわ」
わたしは、自分の震える手を見つめた。
「 ......でしょ?」
わたしたちは、小さく拳をぶつけ合った。