第2章
白書での一日は、思っていたよりもずっと長かった。
受付嬢に案内された部屋は、無機質なコンクリートの部屋。
置かれているのは小さな机とベッドだけ。
それ以外には何もない。
ただ、それで十分だった。
わたしの荷物は多くない。
荷下ろしはない。
わたしは静かにベッドへ腰を下ろす。
身体が深く沈み込んでいく。
雪原の小屋の簡素な寝床とは違う。
柔らかい。
だけど、落ち着かなかった。
静かすぎる。
エバの本をめくる音も。
暖炉の薪が弾ける音も。
外で吹き荒れる雪風も。
ここにはない。
わたしはそっと小窓を見上げた。
窓の外では、巨大な都市の光が夜を照らしている。
白や青のネオン。
空を横切る搬送レールの明かり。
海の向こうで点滅する赤い警告灯。
雪原とは違う夜だった。
静かなのに、眠っていない。
街全体が、ずっと起き続けているみたいだった。
「エバ ...」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
その事実が、胸の奥をじわりと冷やしていく。
わたしは不安を誤魔化すように毛布へ潜り込んだ。
すると、疲れが一気に押し寄せてくる。
気づけば意識はゆっくり沈んでいた。
朝。
目を覚ますと、部屋の入口から小さなノック音が聞こえた。
「失礼します」
昨日の受付嬢だった。
彼女は無表情のまま、机へ朝食を置いていく。
パンと水。
それだけだった。
わたしは小さく頭を下げると、塩パンを手に取る。
少し冷めていて、表面は固くなっていた。
だけど、一口噛むと中から濃厚なバターの香りが広がる。
美味しい。
...はずなのに。
ふと、エバのスープを思い出した。
鶏の出汁。
少し焦げた玉ねぎ。
塩気の強い味。
大雑把なのに、不思議と身体の奥まで温まるスープ。
二日しか経っていない。
それなのに、もう恋しくなっていた。
わたしは小さく俯きながら、冷めた塩パンを食べ切った。
受付嬢は皿を回収すると、そのまま静かに部屋を出ていく。
再び一人。
部屋の静けさが、昨日より少しだけ重く感じた。
わたしは気分を紛らわせるように寮を出た。
図書館へ向かう。
白書大図書館は、朝から多くの人で賑わっている。
本を抱えた学生。
忙しそうに歩く研究員。
昨日は見る余裕がなかったけれど、この街には本当に色んな人がいる。
わたしは昨日の“光”を思い出しながら、再び十五階へ向かった。
エレベーターが静かに上昇していく。
数字が一つずつ増えるたびに、人の気配は減っていった。
そして十五階。
昨日と同じ静かな空間。
哲学書の並ぶ本棚。
だけど、あの光はもうなかった。
棚は何事もなかったみたいに沈黙している。
昨日の出来事が夢だったように思えてしまうほどだった。
わたしはしばらく棚を眺めていた。
けれど何も起きない。
そこで今日は別の階を見て回ることにした。
三階。
小説コーナー。
ここには朝から十数人ほどの人がいた。
子供。
学生。
皆、それぞれ静かに本を選んでいる。
わたしは本棚を眺めながら、ファンタジーコーナーから一冊の小説を抜き取った。
表紙には黒い服を着た少女が描かれている。
タイトルには、“魔女”という文字。
わたしは吹き抜け近くの長いソファへ腰を下ろすと、ゆっくりページを開いた。
その物語は、魔女が殺し屋として生きる話だった。
魔女は人を殺す。
だけど決まって、最初に喉を潰す。
叫べないように。
助けを呼べないように。
そして最後に、本のページを破って置いていく。
わたしはページをめくる手を止めた。
本のページ。
どうしてそんなものを残すんだろう。
意味があるのだろうか。
それとも、ただの儀式なのか。
気づけば、わたしはどんどん物語へ引き込まれていた。
その時だった。
視界の端を、一人の青年が横切る。
わたしは反射的に顔を上げた。
細長い目。
黒いコート。
気だるそうな歩き方。
昨日の青年 ――律さんだった。
律さんは周囲を見ることもなく、そのまま図書館の外へ出ていく。
クマさんには近づくなと言われた。
だけど。
昨日から、ずっと気になっていた。
どうしてあんな反応をしたのか。
なぜ、わたしを見て怒ったのか。
それに。
窃盗犯を捕まえるときに見せた、あの異常な動き。
わたしは気づけば立ち上がっていた。
急いで本を棚へ戻し、律さんの後を追いかける。
図書館を出ると、律は通りの向こうを歩いていた。
人混みの中でも、なぜかすぐ見つけられる。
わたしは気づかれないよう、少し距離を空けながら後をつけた。
律さんは真っ直ぐ歩いていく。
やがて大通りを外れ、昨日人が倒れていた路地へ入っていく。
わたしは慌てて追いかけた。
だけど。
路地へ入った時には、律さんの姿は消えていた。
「え ...」
わたしは辺りを見渡す。
狭い路地。
湿った空気。
ゴミ袋の臭い。
誰もいない。
見失った。
わたしは焦りながら奥へ進む。
その時だった。
「お前、何しに来た」
背後から声が響いた。
わたしは驚いて振り返る。
律さんが、壁にもたれながらこちらを睨んでいた。
わたしは焦って言葉を詰まらせた。
「あ ......その ......あの ......」
「ま、迷子になっちゃって ......」
苦し紛れの言い訳だった。
律さんは深いため息を吐きながら、さらに強くこちらを睨む。
「お前バカなんか」
「こんな路地に入ってくる奴なんておらんやろ」
「それに、お前が追いかけてたのなんか最初からわかっとったわ」
「す、すみません ......」
わたしは小さく俯きながら謝る。
律さんは面倒臭そうに頭を掻いた。
「今回は見逃したる」
「でも次やったら ――」
最後まで言わず、律さんは路地の奥へ歩き始める。
黒いコートの裾が、薄暗い路地の奥へ溶けていく。
わたしは小さく息を吐いた。
怒られた。
当然だ。
クマさんに近づくなと言われていたのに、勝手についてきたのだから。
逆に彼が見逃してくれたのは最大の優しさだった。
わたしは大人しく大通りへ戻ろうと踵を返す。
その時だった。
視界の端で、淡い光が揺れた。
「 ...え」
昨日見た光の粒子。
小さな蛍みたいな白い光。
それが再び、わたしの目の前へ現れていた。
しかも今度は、わたしの方へ向かって流れてきている。
粒子はゆっくり空中を漂いながら、地面の一点へ集まっていた。
わたしは不思議に思いながら、その場へしゃがみ込む。
地面には何もない。
「なんで ...」
わたしはそっと地面へ触れようとした。
その瞬間だった。
――キン。
頭上で、鉄同士がぶつかるような鈍い音が響いた。
わたしは驚きながら顔を上げる。
そこには、ナイフを持った人影が立っていた。
顔は黒い布で覆われている。
見えるのは目だけ。
その目は、感情のないままこちらを冷たく見下ろしていた。
わたしは驚きのあまり、その場で腰を抜かした。
身体が動かない。
逃げなきゃ。
そう思っているのに、足に力が入らなかった。
「お前、本はどこだ」
低い声。
男か女かも分からない。
機械みたいに感情がなかった。
「 ...本?」
意味が分からなかった。
わたしは本なんて持っていない。
だけど相手は、ナイフをゆっくりこちらへ近づけてくる。
金属の刃が、路地の薄暗い光を反射していた。
「そ、そんなの知らない ...」
声が震える。
喉が張り付いたみたいに上手く息ができない。
助けを呼びたくても言葉は出てこない。
相手は数秒、黙ったままこちらを見下ろした。
そして。
「そうか」
「言わないか」
静かな声。
次の瞬間、その声は冷たく落ちた。
「なら死ね」
ナイフが振り上げられる。
切っ先は真っ直ぐ、わたしの首へ向いていた。
殺される。
そう理解した瞬間。
不思議と、心は静かだった。
怖い。
身体は震えている。
だけど。
どこか遠くで、“仕方ない”と思っている自分がいた。
一か月前。
雪原で死にかけた命。
エバに拾われなければ、あの時終わっていた。
結局わたしは、偶然少し長く生きただけなのかもしれない。
そう思うと。
死ぬことが、少しだけ遠く感じた。
抵抗しても意味はない。
きっと結果は変わらない。
だったら。
もう。
その時、ふと頭に浮かんだ。
暖炉の火。
焦げた玉ねぎの匂い。
大きな手。
わたしの頭を撫でる感触。
「エバ ......」
会いたかった。
だけど。
身体は動かなかった。
わたしは抵抗していた手を下ろし、そっと目を閉じた。
空気を切る音が聞こえてくる。
その瞬間だった。
ギィィイイン ――。
耳を裂くような金属音が、狭い路地へ響き渡った。
「ざっけんじゃねぇ!!」
それと同時に、怒鳴り声が響く。
聞き覚えのある訛った声。
わたしは恐る恐る目を開く。
そこには、わたしとナイフの間へ割って入る彼 ――律さんの姿があった。
律さんは鉄パイプを両手で握り締め、振り下ろされたナイフを強引に受け止めている。
火花が散る。
次の瞬間。
律さんは身体を傾けながら、相手のナイフを流した。
ただ、なぜだか律さんの頭の方に光が集まっていく。
なぜか嫌な予感がした。
「頭 ...」
相手はナイフを流された瞬間に足を上げる。
かかとに仕込まれたナイフを全力で律さんの頭へ向けて蹴りだした。
ただ、律さんはそれを軽くよけきる。
そしてすぐに空いた左脇腹へ、全力の蹴りを叩き込む。
鈍い音。
相手の身体が大きく吹き飛んだ。
路地の壁へ激突し、そのまま大通りの方へ転がっていく。
「君さ」
律さんは鉄パイプを握りしめながら、こちらへ背を向けたまま話す。
「ふざけてんの?」
「 ...え」
声が出ない。
律さんの声は明らかに怒っていた。
だけど。
わたしは何に怒っているのかわからなかった。
わたしは殺されそうになった側だ。
なのに。
「さっき」
「死のうとしたやろ、自分から」
「 ...っ」
返す言葉がなかった。
律さんは振り返らない。
だけど、確かにわたしへ言っている。
律さんは鉄パイプを投げる。
一直線に飛んだそれを、相手はギリギリで避けた。
鉄パイプは壁へ突き刺さる。
「わいは、軽い命が大っ嫌いやねん」
その声には、さっきまでの軽さがなかった。
怒り。
苛立ち。
そして。
悲しみが混ざっているような気がした。
「次そんなことしようとするんやったら」
「俺が殺すからな」
律さんはそう言い捨てると、一気に地面を蹴った。
一瞬で距離が開く。
黒いコートが翻り、そのまま大通りへ飛び出していく。
逃げた相手を追っていく。
だけど相手も相当速いのか、2人はすぐに姿が見えなくなった。
路地には静寂だけが残る。
「軽い命 ...」
わたしは小さく呟く。
何も抵抗しなかった。
意味がないと思ったから。
結局、一か月前に終わっていた命。
だけど。
律さんは、それを否定した。
死ぬことを受け入れたわたしへ、本気で怒っていた。
どうして。
どうして、そんなことを言うんだろうか。
わたしには分からなかった。
ただ。
胸の奥が少しだけ苦しかった。
わたしはゆっくり身体を起こす。
倒れた時に強く打った腰が痛む。
だけど歩けないほどじゃない。
路地の先では、まだ街の喧騒が続いていた。
何事もなかったみたいに。
わたしはふらつく足で立ち上がると、光っていた地面を見る。
そこにはもう何もない。
なんだったのだろうか。
わたしは、大通りへ出るとゆっくり図書館へ歩き始めた。
図書館へ戻る頃には、わたしの足取りはふらついていた。
路地裏で転んだせいか、足首がじんじんと痛む。
それに、気を張っていた反動なのか身体全体が重かった。
裏口へ入った瞬間、受付嬢の女性がわたしを見るなり目を見開いた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
慌てたように駆け寄ってくる。
わたしは大丈夫だと言おうとした。
だけど、その瞬間に膝が少し崩れた。
「あっ ――」
「無理しないでください」
受付嬢は慌ててわたしの身体を支える。
そのまま肩を貸されながら、図書館裏口のすぐ近くにある救急室へ案内された。
白いカーテンで簡単に区切られた小さな部屋。
アルコールの匂いが少し鼻につく。
部屋の棚には包帯や薬が綺麗に並べられている。
「座ってくださいね」
わたしは小さく頷きながら椅子へ腰掛ける。
その瞬間、全身から力が抜けた。
思っていた以上に疲れていたのかもしれない。
受付嬢は慣れた手つきで、わたしの腕や足を確認していく。
「擦り傷がありますね ...」
言われて初めて気づいた。
腕と膝。
倒れた時に擦ったのかもしれない。
細かな傷がいくつかできていた。
「痛っ ...」
傷口へ消毒液が触れた瞬間、鋭い痛みが走る。
思わず肩が跳ねた。
「少し沁みます」
「うぅ ...」
受付嬢は丁寧に手当てを続けていく。
その間、わたしはぼんやり天井を見つめていた。
頭の中では、さっきの光景が何度も繰り返されている。
振り下ろされるナイフ。
火花。
怒鳴り声。
そして。
『死のうとしたやろ、自分から』
律さんの言葉。
胸の奥が少し痛んだ。
やがて手当てが終わり、わたしはゆっくり立ち上がろうとする。
その時だった。
「やめといたほうがええ」
入口の方から声が聞こえてきた。
特徴的な訛り。
わたしは反射的に入口のほうを見る。
入口には、壁へ寄りかかるようにして律さんが立っていた。
黒いコートは少し汚れている。
たぶん、さっきまで追いかけていたのだろう。
「さっきはあり ――」
「そんな感謝はいらん」
わたしが頭を下げようとすると、律さんは言葉を遮った。
その声は、思っていたより静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
だけど、どこか張り詰めている。
律さんは救急室の中へゆっくり入ってくる。
「君さ」
「ワイが戦闘中に“頭”って言ったやろ」
「 ...」
わたしは俯いた。
あの光。
律さんの頭へ集まっていた白い粒子。
だけど、律さんの様子を見る限り、彼には見えていないようだった。
「なんで、敵が頭を狙うって分かった」
「普通、あのタイミングじゃ分からへん」
律さんは真っ直ぐこちらを見る。
細長い目。
その奥だけが鋭かった。
「あ ...その ...」
言葉が出ない。
光が見えた。
そう言えばいいだけなのに。
だけど。
そんなことを言って、信じてもらえるのだろうか。
もし気味悪がられたら。
そんなことを考えれば考えるほど、喉が締まっていく。
「なんでや」
律さんがさらに近づく。
一歩。
また一歩。
気づけば、目の前まで来ていた。
近い。
わたしは思わず目を閉じる。
また首を掴まれる。
身体に力が入った。
だけど。
「いや、別に無差別に攻撃するつもりはない」
予想していたより、ずっと柔らかい声だった。
恐る恐る目を開ける。
律さんは頭を掻きながら、困ったように眉を下げていた。
「 ...」
「 ...すまん」
律さんは視線を逸らした。
「あの時は、ついカッとなってもうて」
その横顔は、本当に申し訳なさそうだった。
わたしはどう反応すればいいのかわからなくなる。
怒ればいいのか。
許せばいいのか。
こんな時、エバならどうするだろう。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
「な、なら」
「今回のことは、聞かないでくれませんか」
「 ...う」
律さんは露骨に顔をしかめた。
頭を抱える。
「そこ誤魔化すんかい ...」
小さくぼやく。
「しゃーない」
「それで勘弁してもらうわ」
律さんは深くため息を吐く。
わたしはほっと肩を撫で下ろした。
そんなわたしを見て、律さんは少しほくそ笑う。
「君さ」
律さんはそっと手を差し出した。
大きくはない手。
だけど、とてもしっかりとしていた。
「ワイと相棒にならんか?」
「 ...え」
意味がわからなかった。
ついさっきまで怒っていたのに。
嫌われていると思っていたのに。
「君は、ワイらに言えへんことあるやろ」
律さんは軽い口調のまま続ける。
「でもワイが相棒やったら、見て見ぬふりできる」
「どうや、ええ条件やろ」
確かに。
光のことは、誰にも言わない方がいい気がしていた。
だけど。
「 ...律さんには、なんの得があるんですか」
わたしがそう聞くと、律さんは少しだけ目を丸くした。
「得?」
そして。
なぜか楽しそうに笑った。
「君のこと、気になったんや」
「ただそれだけ」
わたしは呆然とする。
本当に意味が分からなかった。
この人は、何を考えているんだろう。
だけど。
知らない誰かと一緒にいるよりは。
律さんの方が、まだ安心できる気がした。
「 ...わかりました」
わたしは小さく頷いた。
だけど。
差し出されたその手を、まだ握ることはできなかった。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
律さんは差し出していた手を引っ込めながら、思い出したように呟いた。
「アルです」
わたしは小さな声で答える。
すると律さんは、どこか楽しそうに目を細めた。
「アルちゃんか」
「ワイは律でええよ」
「ちゃん⁉」
思わず変な声が出た。
背筋がぞわっと震える。
今までそんな呼ばれ方をしたことがない。
というより、名前を呼ばれること自体ほとんどなかった。
律さん ――いや、律はそんなわたしの反応を見て吹き出した。
「なんやその反応」
「別にええやろ、アルちゃん」
「うぅ ...」
なんだろう。
妙にむず痒い。
律はしばらく笑ったあと、ふと真面目な顔へ戻る。
「それじゃ、ワイはクマさんのとこに報告行くわ」
そう言いながら、入口の方へ視線を向けた。
「アルちゃんも来るか?」
「行きます」
一人で残るのは、まだ少し怖かった。
わたしが頷くと、律は「あー」
と何か思い出したように声を漏らす。
「その足やったな」
そう呟くと、律は救急室の奥へ歩いていく。
ガラガラ、と何かを引きずる音が聞こえる。
数秒後。
律は車いすを押しながら戻ってきた。
「ほら、乗り」
「え、でも ......」
「転ばれても面倒やし」
そう言いながら、律はわたしの前に車いすを止める。
わたしは少し迷ったあと、そっと腰を下ろした。
「よし」
律は後ろへ回ると、そのまま車いすを押し静かな救急室を出た。
廊下へ出ると、図書館の夜の空気が肌へ触れた。
昼間より人は少ない。
だけど館内の灯りは消えておらず、本棚の間にはまだ何人か人影が見える。
白い照明に照らされた廊下は、昼とは違ってどこか静かだった。
車いすのタイヤが床を転がる音だけが響いている。
「 ...」
「 ...」
気まずかった。
昨日首を絞めてきた相手と相棒になった。
状況だけ考えればかなり変だ。
だけど、不思議と怖さは少なかった。
律は無言のまま車いすを押している。
その歩幅は一定で、妙にやさしかった。
わたしは少しだけ後ろを振り返る。
律はぼんやり前を見ていた。
細長い目。
気だるそうな表情。
だけど。
さっき路地で怒鳴っていた時とは、少し雰囲気が違って見えた。
「 ...律さん」
「んー?」
「どうして、昼間はごめんなさい」
聞いた瞬間、律の足が一瞬止まった。
ほんの少しだけ。
ただ、律はすぐに歩き出す。
「ワイは命を軽く扱う奴が嫌いなだけや」
その声は、さっきよりずっと静かだった。
わたしはそれ以上、何も言わなかった。
廊下をしばらく進むと、見慣れ始めた扉が見えてきた。
クマさんの部屋だ。
昨日、今日で三回目になる。
こんな短期間で何度も来る場所になるとは思っていなかった。
律はわたしを乗せた車いすを押しながら、そっと扉を開ける。
「ん、誰だ ――」
クマさんが、ゆっくり顔を上げる。
そこで言葉が止まった。
クマさんは目を丸くしたまま、わたしと律を交互に見る。
「な、何があった⁉」
椅子を大きな音を立てながら立ち上がると、クマさんは慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
その勢いのまま、わたしの前へしゃがみ込む。
「アル、大丈夫か⁉」
わたしの腕や足を確認するように視線を動かしたあと、クマさんはゆっくり律の方を見る。
その瞬間だった。
空気が変わる。
「 ...これは、どういうことだ律」
低い声。
昨日と同じ、冷たい目だった。
律はそれを真正面から受けながら、めんどくさそうに頭を掻く。
「どうもこうも、見ればわかるやないですか」
いつものテンションの律。
ただその軽い返答が、逆にクマさんの眉をさらに吊り上げた。
「お前、また ――」
次の瞬間。
クマさんの大きな手が律の胸元を掴み上げた。
スーツの襟元がぐしゃりと歪む。
律も驚いたのか、一瞬だけ目を見開く。
「ち、違います!」
わたしは慌ててクマさんの服を引っ張った。
全力で引っ張ってもびくともしない。
「アル、脅されたのか?」
クマさんは本気で心配そうな顔をしていた。
その目を見て、わたしは慌てて首を横へ振った。
「い、いえ」
「実は ......」
わたしは今日起こったことを、できるだけ簡潔に説明した。
律を追いかけたこと。
路地裏へ入ってしまったこと。
ナイフを持った人に襲われたこと。
そして。
律が助けてくれたこと。
話している途中、クマさんの表情は真面目にこちらを向いていた。
全部を聞き終えると、クマさんはようやく律の胸元から手を離した。
「 ...律、すまない」
クマさんは静かに頭を下げる。
律は服を整えながら、軽く肩を回した。
「ええっすよ」
「昨日、手ぇ出したんはこっちですし」
その返事は思っていたよりずっとあっさりしていた。
クマさんは少しだけ安心したように息を吐く。
だけど。
「あ、でも条件ありますよ」
律がにやりと笑った瞬間、クマさんの顔が露骨に嫌そうになった。
初めて分かった。
律は、人の弱みにつけ込むのが好きだ。
細長い目を細めながら笑う姿は、見方によっては悪魔みたいだった。
「アルちゃんと話し合ったんですけど」
「ワイら、タッグ組むことにしたんで許可くださいな」
「 ...は?」
クマさんの口がぽかんと開く。
その顔は完全に固まっていた。
しばらくしてから、ゆっくりこちらを見る。
「 ...いいのか、こんなやつで」
戸惑ったような声だった。
わたしは少しだけ律を見る。
律はどこか得意げだった。
「はい」
「本当に?」
「はい」
わたしは、まっすぐクマさんを見返した。
しばらく沈黙が流れる。
やがてクマさんは、深いため息を吐いた。
「 ...わかった」
その瞬間、律が嬉しそうに笑う。
だけど、彼の笑みはそれで終わらなかった。
「それとですね」
「不審人物の件、ワイらで調べるんでよろしく」
「 ...は?」
今度は、わたしまで固まった。
聞いてない。
そんな話、一言も聞いていない。
というか怖い。
普通に怖い。
クマさんも完全に唖然としていた。
その隙に。
「ほな、行きましょかアルちゃん」
「え、ちょ ――」
律は勝手に車いすを方向転換させると、そのまま部屋の外へ押し始める。
「おい律!」
「お前だけ後で戻ってこい!」
「不審人物の報告書も持って来いよ!」
後ろから、疲れ切ったクマさんの声が響く。
律は振り返りもせず、ひらひらと手だけ振った。
「はーい」
気の抜けた返事。
適当だった。
だけど。
気づけば、わたしは少しだけ笑っていた。
こうして。
こうしてわたしは騒がしい相棒ができた。