ホーム白書の魔女第1章『公安都市白書』
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第1章『公安都市白書』

日本国東京の南東に浮かぶ湾内海上都市。
一億冊以上の書物が集められた、白書大図書館を中心に形成された巨大都市。
「ほらアル、そろそろ目的地に到着するよ」
雪原の小屋に住み始めてから1カ月ほどが経過した頃、エバの仕事は大詰めを迎えていた。
エバに出会ってから、わたしは毎日をエバと共に過ごした。
暖炉の火の温かさを感じながら本を読み、朝の雪掻きを手伝い、エバがいつも焦がす玉ねぎの入ったスープを飲む。
穏やかな生活だった。
だけど、嫌ではなかった。
むしろ、生まれて初めて“居場所”のようなものを手に入れた気がしていた。
だからこそ、その言葉は突然だった。
「エバ、今日も仕事に行くの?」
雪が降り続ける朝。
いつものように支度をするエバへ、わたしは何気なく尋ねた。
「いや、もう仕事は片付いた」
エバは机へ地図を広げながら、小さく息を吐く。
「近々、ここを離れて日本に帰国する予定だ」
寝耳に水だった。
ここを離れる。
その言葉が理解できた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
置いて行かれる。
また、一人になる。
それがどうしようもないほど怖かった。
「あ ...その ...」
声がうまく出ない。
喉の奥で言葉が絡まり、何を言えばいいのか分からなかった。
そんなわたしを見て、エバは少し困ったように笑う。
「そこでなんだが ...お前がよければ、私と一緒に日本へ行かないか」
エバは、こちらをまっすぐと見つめていた。
試すようでもなく、同情するようでもなく。
その目は、わたしの言葉を待っていた。
日本。

本の中でしか見たことのない国。
高い建物が立ち並び、人が溢れ、夜も眠らぬ国。
怖くないと言えば嘘になる。
だけど、エバがいるだけで自然と安心できた。
「い ...いく!」
気づけば、わたしは声を上げていた。
「わたしも、一緒に行きたい」
その瞬間、心が少しだけ軽くなった。
嬉しかった。
捨てられるわけじゃなかった。
また一人になるわけではなかった。
「そいつは良かった」
エバは安堵のため息を吐くと、勢いよく立ち上がった。
そして、大きなバッグをわたしに向かって放り投げる。
「急いで準備しろ。
明日には日本に飛ぶぞ」
「あ、明日⁉」
「遅れたら、置いていくからな」
エバは、軽く冗談を言いながら外に荷物を取りに向かった。
そうしてわたしたちは数日かけて雪原を抜け、日本行きの飛行機へ乗り込んだ。
数日間歩き続けていた疲れで、飛行機に乗るや否や眠ってしまった。
そしてエバの声によって、わたしはゆっくりと目を覚ました。
窓の外には、どこまでも青い海が広がっている。
その奥には、白い霧の中から無数の高い建物が姿を現し始めている。
あれが、白書。
飛行機は、やがて大きく揺れながら空港へ降り立った。
そして空港へ足を踏み入れた瞬間、わたしは思わず足を止めてしまった。
うるさい。
人の声。
足音。
電子音。
聞き取れないアナウンス。
雪原とは違う。
そこら中が音で溢れていた。
人々は小さな板のようなものを片手に歩き、巨大な電光掲示板には絶え間なく文字が流れていく。
騒がしくて、息が詰まりそうになった。

人の波に押され、わたしは無意識にエバのコートを掴んでいた。
エバは、困惑するわたしを軽く笑いながら椅子に座らせると、空港内の量販店に入っていった。
「ほら、これをつけて見ろ」
エバが量販店から戻ってくると、わたしの耳に蓋をしてくれた。
「このヘッドホン、お前にやるよ」
音は先ほどよりも小さくなり、ようやく息が吸えた様な気がした。
その後はエバに連れられながら海上モノレールに乗り、海に浮かぶ巨大都市へと向かった。
海の上へ築かれた無数の塔。
「あれが公安都市白書」
エバは静かに呟いた。
「これからお前が過ごす新しい街だ」
わたしの胸の中には、不安と期待が入り混じった不思議な感覚が渦巻いている。
そうしている間にも海上モノレールは静かに速度を落とし、終点 ――白書大図書館駅へと滑り込んでいった。
扉が開いた瞬間、潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。
駅を出ると、目の前には巨大な街並みが広がっていた。
ガラス張りの高層ビル。
空中を走る搬送レール。
絶え間なく動き続ける電光広告。
そして、その遥か奥。
白い霧を貫くようにして建てられた巨大な塔 ――白書大図書館。
まるで街そのものが、あの建物を中心に動いているみたいだった。
「アル、悪いが先に仕事先へ向かわなくちゃならなくてね」
エバが片手を上げながら歩き出す。
わたしは小走りでその後ろを追いかけた。
「 ......仕事」
そういえば、エバが何の仕事をしているのか、わたしはほとんど知らない。
雪原では“調査”と言っていた気もするけれど、それ以上は聞かなかった。
エバは少しだけ悩むように顎へ手を当てると、ふっと笑った。
「せっかくだ。
あんたも一緒に来るか」
「いいの?」
「別に、人に言えないような仕事をしてるわけじゃないし」
そう言うと、エバはわたしの返事を待たずに大通りの奥へ歩き始める。
わたしは慌ててその背中を追った。

「エバの仕事先って、図書館に近いんだね」
何気なく呟く。
するとエバは、少し間の抜けた顔でこちらを見てくる。
「ん?
言ってなかったっけ」
「私の仕事先、図書館の中だよ」
「 ...はぁ」
もはや呆れたため息しか出てこない。
エバは毎回、大事な説明が抜けている。
日本へ帰ることも。
仕事のことも。
飛行機のことだって、前日まで話していなかった。
「もっと早く言ってよ」
「悪い悪い」
口では謝っているが、まったく反省している様子はない。
そんな時だった。
「きゃあああっ!
私のバッグ!」
女性の甲高い悲鳴。
通りを挟んだ向かい側で、女性が地面へ倒れ込んでいた。
黒いフードを被った男が、そのバッグを抱え込むようにして路地へ駆け出していく。
周囲の人々がざわめき始める。
「アル、ちょっとここで待 ―」
エバが動き出そうとした、その瞬間だった。
通りのベンチにだらしなく座っていた男が、そっと足を伸ばした。
次の瞬間。
走ってきたフードの男が、その足に引っ掛かるようにして盛大に転倒する。
「あかんやん、お兄さん。
人のもん盗ったら」
陽気な訛りのある喋り方をした、細長い目をした青年がベンチから立ち上がる。
年齢は二十歳くらいだろうか。
黒いコートを羽織り、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。
「うるせぇ!」
フードの男は立ち上がると、青年の顔を殴りつけるように腕を振ると再び走り出した。
「あっ、ちょ、もー」
青年は頬を押さえながら、面倒臭そうにため息を吐く。
周囲が騒然とする中、彼だけが妙に気楽だった。
そして次の瞬間には、彼は走り出していた。
フードの男との距離は十数メートルはあったはずだ。

それなのに。
わずか数秒のうちに、青年は男へ追いついていた。
何が起きたのか分からない。
気づけば、男は地面へ押さえつけられていた。
「はいはい、暴れんといてなー」
青年は笑いながら男の腕を拘束している。
その動きは軽い。
なのに、不思議なほど無駄がなかった。
わたしはただ唖然と立ち尽くしていた。
「アル、図書館へ行くよ」
エバがわたしの腕を軽く引く。
「え、あっちは ...」
「あいつなら問題ないでしょ」
エバは青年の方をちらりと見た。
だけどその表情は、“信頼”というより“気まずい”そんな顔だった。
わたしたちは白書大図書館の正門とは反対側へ回り込む。
そこには、人目につかない小さな扉が存在していた。
エバは迷いなくその扉を開ける。
中は驚くほど静かだった。
外の喧騒が嘘みたいに、本の匂いだけが漂っている。
細い通路をしばらく歩き続けた先。
突き当たりの部屋の前で、エバは勢いよくドアを開いた。
「クマ、今帰ったぞー」
「っげ!
姉御!」
部屋の中にいたのは、エバよりさらにふた回りは大きなスーツ姿の男だった。
熊みたいな巨体に鋭い目つき。
なのに、エバを見るなり露骨に顔を引きつらせている。
「げってなんだ、げって」
「いやだって、急に来るもんですから ...」
しかし、そのがたいとは裏腹にエバに対する態度は飼いならされた大型犬のようだった。
「っていうか、調査はどうしたんです」
「ちょうど先日、終わったとこだよ」
エバはどこか楽しそうに笑う。
それとは逆に、大男 ――クマは嫌な予感しかしないといった顔をしていた。
「 ...それで、帰ってきて真っ先にここへ来たってことは」
「アル、こっち来な」

エバが手招きする。
わたしはおそるおそる前へ出た。
「クマ。
こいつが今回の調査中に拾った子だ」
「誘拐してきたんですか!!」
「ちげぇよ!!」
エバは、どこからともなくハリセンを取り出すと、大男の頭へ勢いよく叩き込んだ。
パァンッ ――という乾いた音が部屋へ響く。
「痛ぇっ!
なにすんですか姉御!」
大男は頭を押さえながら涙目になっていく。
「アホなこと言うからだ」
エバは呆れたようにため息を吐いた。
「誘拐じゃない。
雪原で拾ったんだよ」
そう言いながら、エバはわたしの方へ視線を向ける。
その目は、わたしを安心させるようにどこまでも穏やかだった。
「私はまだ他にも仕事が残っててね」
「しばらくの間、この子をお前に預かってほしいんだよ」
「え ......」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。
エバについて来るために、日本へ来た。
なのに。
もう、離れるのだろうか。
せっかく見つけた居場所が、また遠くへ行ってしまう気がした。
わたしの表情に気づいたのか、エバはそっと肩へ手を置く。
「大丈夫」
低く、落ち着いた声だった。
「帰ってきたら、すぐ会いに来る」
その手は大きくて、温かい。
わたしは小さく俯きながら、黙って頷いた。
「いやぁ ......ただ俺も忙しいんですよねぇ」
大男は困ったように頭を掻きながら椅子へそっと腰掛ける。
巨大な身体が沈み込むたび、椅子がぎしりと音を立てた。
「なら律にでも任せればいい」
エバは軽い調子で言う。
「 ......いいんですか?」
大男は驚いたような表情をしている。
「あいつ、なんだかんだ面倒見は悪くないだろ」

「姉貴は、ひどいですねぇ」
エバはその言葉に軽く笑っていたがその顔は少し引きつっていた。
「ってことで、私はもう行く」
エバはそう言うと、わたしの頭を軽く撫でる。
その仕草は乱暴なのに、なぜだか安心する。
「ちゃんといい子にしてろよ、アル」
「 ......うん」
エバは満足そうに笑うと、そのまま部屋を出ていった。
重たい扉が閉まる音が、静かな部屋へゆっくり響いた。
わたしは、不安を誤魔化すように辺りを見渡した。
知らない場所。
知らない人。
そして、エバのいない空間。
さっきまで隣にいたはずなのに、その存在が消えただけでわたしは不安に駆られた。
部屋の中には、壁掛け時計の針が進む音だけが小さく響いている。
カチ。
その音がやけに大きく聞こえた。
まるで時間だけがゆっくり流れているみたいだった。
その時だった。
「アルちゃん、こっちにおいで」
大男が、優しい顔でこちらへ手招きをしていた。
わたしは少しだけ警戒しながら、そっと近づいていく。
するとクマさんは、机の引き出しから透明なホルダーを取り出す。
「はい、これ」
「今は仮だけど入館証ね。
無くさないように首から掛けときなさい」
そう言うとクマさんは、紙をホルダーへ丁寧に差し込み、わたしの首へそっと掛けてくれた。
透明なカードケースが胸元へ当たる。
そこには、『白書大図書館仮入館許可証』
と書かれていた。
「これで図書館の大体の場所には入れるから、律が来るまで本でも読んで待っててくれるかい?」
大男は柔らかく笑いながら首を傾げる。
それに、わたしは小さく頷いた。
「それと、まだ名前言ってなかったね」

「私は大熊衛。
クマって呼んでくれ」
大男 ――クマさんはそう言うと、大きな手をこちらへ差し出した。
「アルです。
よろしくお願いします」
反射的にそう名乗り、わたしも手を差し出す。
次の瞬間、わたしの手はクマさんの大きな掌にすっぽり覆われた。
エバよりも大きい。
なのに、不思議と握り方は優しかった。
ただ ――その手は驚くほど冷たかった。
まるで、雪のように。
――それから。
わたしはクマさんの部屋を出て、白書大図書館の中を自由に歩き回っていた。
図書館の中は、外から見た以上に広かった。
吹き抜けになった空間の中心を、無数のエレベーターと階段が上下している。
見上げても、天井は霞んで見えない。
まるで建物そのものが空へ伸び続けているみたいだった。
1階には絵本。
2階には児童書。
3階からは小説や文学作品。
さらに上へ行けば、歴史書、専門書、研究資料。
階層が上がるごとに、置かれている本の種類も、そこにいる人々の空気も少しずつ変わっていく。
わたしは階層を移動しながら、エバに読ませてもらった本の作者を探していた。
知らない本ばかりだった。
それに、本棚の匂い。
古い紙の感触。
静かな空気。
ページをめくる微かな音。
遠くで誰かが咳払いする声。
雪原の静けさとは違う。
なのに、不思議と心が落ち着く。
下の階層には、子供や家族連れも多かった。
小さな子供が絵本を抱えながら走り回り、その後ろを親が慌てて追いかけている。
その光景を見ていると、少しだけ胸が温かくなった。
だけど階層が上がるごとに、人影は少なくなっていく。
15階へ到着した頃には、周囲には数人しかいなかった。

この階層には哲学書が並んでいるらしい。
分厚い本が壁みたいに並んでいた。
右から順に、『告白』
『国家』
『存在と時間』
『純粋理性批判』
聞いたことのない哲学書が多く並んでいる。
わたしは書物の多さに驚きながらも、その光景を静かに眺めていた。
そんな時だった。
ふと、視界の端で何かが揺れた。
わたしは思わず立ち止まる。
棚の隙間から、小さな光が零れていた。
淡い粒子だった。
蛍みたいに、ゆっくり宙を漂っている。
白く、淡く。
だけど、確かにそこに存在していた。
わたしは息を呑む。
ここは図書館だ。
1階の子供向けエリアならともかく、こんな大人向けの上層階にこんなに尖った装飾があるとは思えない。
少し怖かった。
だけど、それ以上に気になった。
胸の奥がざわつく。
まるで、“それを知っている”みたいに。
わたしはゆっくり棚へ近づいていく。
すると、一段だけぼんやり光っていた。
まるで蛍光液でも零れたみたいに。
しかし、その棚には本が一冊も置かれていなかった。
「なにこれ ...」
小さく呟く。
わたしは周囲を見渡した。
他にも同じものがあるかもしれないと思った。
けれど、どこにもない。
この棚だけだった。
近づくほど、胸が妙にざわつく。

身体の奥が熱を持つ。
なぜだろう。
怖いのに、目を離せない。
光へ指を伸ばそうとした、その時だった。
粒子がゆっくり崩れ始めた。
雪のように。
しかし今度は、地面の微細な光の粒子が浮かび上がる。
まるで道みたいに。
どこかへ誘導するように。
ただ、すぐに消えていく。
わたしは無意識にその光を追いかけた。
光は階段を下り、長い通路を抜け、気づけば図書館の外へまで続いていた。
白い粒子は風に流されながらも一定の方向へ漂い続けている。
どうしてだろう。
目を離してはいけない気がした。
わたしは人混みを避けるように、その光を追い続ける。
ビル群を抜け、海の香りが強くなっていく。
その時だった。
ドン ――。
何か硬いものへ頭をぶつけた。
「おっと、どこ向いて歩いてんねん」
聞き覚えのある声だった。
わたしが顔を上げると、そこには先ほどひったくり犯を捕まえていた青年が立っていた。
細長い目。
気の抜けた笑み。
黒いコート。
その周囲には、複数の警察官が慌ただしく動いている。
「って、なんで一般人がおるん?」
青年は驚いたように目を細め私を凝視すると、近くの警察官へ手を振った。
「この子、外まで頼みますわ」
警察官たちは慌てたようにわたしを連れ出そうとする。
「あ、待って ...」
わたしは思わず振り返った。
光が、まだ続いている。
その先。
白衣を着た男が、地面へ倒れ込んでいた。

まるで糸が切れた人形みたいに。
そしてその周りには池のように広がっていく赤く濁った血。
鉄の匂いが、風に混じって漂ってくる。
その瞬間。
雪原で倒れていた時の感覚が頭の奥をよぎった。
冷たい雪。
重くなる瞼。
消えていく意識。
もし、エバが見つけてくれなかったら。
わたしも、あんな風に。
「っ ...」
気づけば、身体が小さく震えていた。
呼吸がうまくできない。
胸の奥が苦しい。
青年はそんなわたしを見ると、小さくため息を吐いた。
「はぁ ...しゃーないなぁ」
そう呟きながら、わたしの首から下がった入館証を見る。
「あー、クマさんのところの子か」
青年は少しだけ困ったように笑った。
「ほな、このお嬢さんは俺が連れて行きますわ」
「ここはよろしく頼みます」
そう言うと、青年はそっとわたしの手を取った。
その手は、わたしと同じくらいの大きさだった。
ただ、とても温かかった。
そして図書館へ戻るころには、街はオレンジ色の夕焼けに染まっていた。
白書大図書館の壁面に夕日が反射し、巨大な建物全体が淡く燃えているように見える。
昼間は騒がしく感じた街も、人の数が少なくなったせいか、今はどこか落ち着いて見えた。
海から吹く風も少し冷たい。
青年に手を引かれながら歩いている間も、わたしは何度も後ろを振り返っていた。
さっき見た白衣の男。
地面へ広がる赤い血。
雪原で倒れていた時の感覚。
それらが頭の奥にこびりついて離れない。
「クマさーん」
気だるげな青年は、だるそうに片手で扉を開けると、もう片方の手でわたしの腕を引っ張った。

突然引かれ、わたしは小さくよろめく。
部屋の中にいたクマさんは、驚いたように目を見開いた。
「お前ら、もう会ってたのか」
「はぁ?」
青年は露骨に顔をしかめる。
「ちゃうねん」
「こいつが捜査中の事件現場に入り込んできよったから、引っ張ってきたんですよ」
青年は苛立ったように頭を掻きながら、わたしを指差した。
「クマさんの子供なら、ちゃんと見といてくださいよ」
「私の子供⁉」
クマさんは目を丸くしてこちらを見る。
「なわけあるか!」
慌てて否定するクマさんを見て、青年は「ほななんなんですか」
と呆れたように眉をひそめた。
するとクマさんは、小さくため息を吐く。
「 ...エバさんが調査中に拾ってきた子だよ」
「っ ...」
その瞬間だった。
青年の空気が変わった。
さっきまでの軽い雰囲気が、音もなく消えていく。
細長い目は、大きく開きながらこちらを見ている。
その視線だけで、背筋が冷える。
「お前」
次の瞬間。
わたしの身体は強く引き寄せられていた。
「うっ ...!」
青年の手が、わたしの首元を掴み上げる。
苦しい。
息ができない。
視界がぐらぐら揺れる。
必死に手を振りほどこうともがく。
だけど、その手はびくともしなかった。
まるで鉄みたいだった。
その時だった。
「何してるんだ!!」
低く響いた怒声。

次の瞬間、大きな手が青年の腕を強引に振り払った。
クマさんだ。
わたしと話していた時とはまるで違う。
部屋の空気が凍り付くような、冷たい怒りだった。
「例え何があろうと、か弱い女の子を傷つけるためにお前を鍛えた覚えはない」
クマさんは、わたしを庇うように前へ出る。
そして。
次の瞬間には、青年の身体が宙へ浮いていた。
まただ。
何が起きたのかわからない。
視線で追う暇さえない。
気づけば青年は、部屋の壁へ叩きつけられていた。
ドゴン ――という鈍い音が響く。
コンクリートの壁が大きくへこみ、細かな破片が床へ散らばった。
それでも青年は悲鳴ひとつ上げない。
「一回、頭冷やしてこい」
クマさんは低い声で言い放つ。
その後ようやく、こちらへ振り返った。
「大丈夫かい」
わたしは咳き込みながら、小さく頷く。
喉が焼けるように痛かった。
クマさんは心配そうに、わたしの首元を見つめる。
そこには赤く指の跡が残っていた。
「 ...律がすまなかった」
クマさんは申し訳なさそうに頭を下げる。
だけどその後ろで、青年 ――律はゆっくり立ち上がっていた。
壁へぶつかったはずなのに、平然としている。
口元の血を拭うと、律はわたしを一瞥した。
その目には、明確な嫌悪があった。
そして何も言わないまま、部屋を出ていく。
「い、いえ ......」
わたしの声は震えていた。
怖かった。
だけど、それ以上にわからなかった。
どうして彼が、あそこまでわたしを嫌うのだろうか。
クマさんは深くため息を吐くと、引き出しから氷の入った袋を取り出した。

「少し冷やしなさい」
そう言って、そっと首元へ当ててくれた。
「 ...少し時間はかかるけど、やはり律以外の人間を君につけよう」
クマさんは椅子へ腰掛けながら、疲れたように目を閉じる。
そして眉間をつまむように手を当てる。
「今週は自由に図書館を探索しててもいい」
「ただ、律にはできるだけ近づかないようにしなさい」
クマさんは静かな声で続けた。
「私がいない時にあいつへ会ったら、何されるかわからない」
わたしは小さく頷くことしかできなかった。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっている。
白書の街には、無数のネオンが灯り始めていた。
「今日はもう遅い」
「図書館の隣にある寮へ泊まりなさい」
クマさんは引き出しから携帯端末を取り出すと、どこかへ連絡を入れる。
数分後、受付嬢らしき女性が部屋へやってきた。
「こちらへどうぞ」
わたしは立ち上がる。
首元はまだ痛む。
部屋を出る前ににもう一度だけ、律が叩きつけられた壁を見る。
そこには、大きなへこみが残っていた。
どうしてだろう。
怖いはずなのに。
もう二度と会いたくないと思ってもいいはずなのに。
わたしは、律のあの目が忘れられなかった。
怒り。
嫌悪。
彼は、わたしの何を見たのだろう。
答えは出ないまま、わたしは受付嬢に連れられて部屋を出る。
夜の図書館は、昼間よりもずっと静かだった。
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日本国東京の南東に浮かぶ湾内海上都市。
一億冊以上の書物が集められた、白書大図書館を中心に形成された巨大都市。
「ほらアル、そろそろ目的地に到着するよ」
雪原の小屋に住み始めてから1カ月ほどが経過した頃、エバの仕事は大詰めを迎えていた。
エバに出会ってから、わたしは毎日をエバと共に過ごした。
暖炉の火の温かさを感じながら本を読み、朝の雪掻きを手伝い、エバがいつも焦がす玉ねぎの入ったスープを飲む。
穏やかな生活だった。
だけど、嫌ではなかった。
むしろ、生まれて初めて“居場所”のようなものを手に入れた気がしていた。
だからこそ、その言葉は突然だった。
「エバ、今日も仕事に行くの?」
雪が降り続ける朝。
いつものように支度をするエバへ、わたしは何気なく尋ねた。
「いや、もう仕事は片付いた」
エバは机へ地図を広げながら、小さく息を吐く。
「近々、ここを離れて日本に帰国する予定だ」
寝耳に水だった。
ここを離れる。
その言葉が理解できた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
置いて行かれる。
また、一人になる。
それがどうしようもないほど怖かった。
「あ ...その ...」
声がうまく出ない。
喉の奥で言葉が絡まり、何を言えばいいのか分からなかった。
そんなわたしを見て、エバは少し困ったように笑う。
「そこでなんだが ...お前がよければ、私と一緒に日本へ行かないか」
エバは、こちらをまっすぐと見つめていた。
試すようでもなく、同情するようでもなく。
その目は、わたしの言葉を待っていた。
日本。

本の中でしか見たことのない国。
高い建物が立ち並び、人が溢れ、夜も眠らぬ国。
怖くないと言えば嘘になる。
だけど、エバがいるだけで自然と安心できた。
「い ...いく!」
気づけば、わたしは声を上げていた。
「わたしも、一緒に行きたい」
その瞬間、心が少しだけ軽くなった。
嬉しかった。
捨てられるわけじゃなかった。
また一人になるわけではなかった。
「そいつは良かった」
エバは安堵のため息を吐くと、勢いよく立ち上がった。
そして、大きなバッグをわたしに向かって放り投げる。
「急いで準備しろ。
明日には日本に飛ぶぞ」
「あ、明日⁉」
「遅れたら、置いていくからな」
エバは、軽く冗談を言いながら外に荷物を取りに向かった。
そうしてわたしたちは数日かけて雪原を抜け、日本行きの飛行機へ乗り込んだ。
数日間歩き続けていた疲れで、飛行機に乗るや否や眠ってしまった。
そしてエバの声によって、わたしはゆっくりと目を覚ました。
窓の外には、どこまでも青い海が広がっている。
その奥には、白い霧の中から無数の高い建物が姿を現し始めている。
あれが、白書。
飛行機は、やがて大きく揺れながら空港へ降り立った。
そして空港へ足を踏み入れた瞬間、わたしは思わず足を止めてしまった。
うるさい。
人の声。
足音。
電子音。
聞き取れないアナウンス。
雪原とは違う。
そこら中が音で溢れていた。
人々は小さな板のようなものを片手に歩き、巨大な電光掲示板には絶え間なく文字が流れていく。
騒がしくて、息が詰まりそうになった。

人の波に押され、わたしは無意識にエバのコートを掴んでいた。
エバは、困惑するわたしを軽く笑いながら椅子に座らせると、空港内の量販店に入っていった。
「ほら、これをつけて見ろ」
エバが量販店から戻ってくると、わたしの耳に蓋をしてくれた。
「このヘッドホン、お前にやるよ」
音は先ほどよりも小さくなり、ようやく息が吸えた様な気がした。
その後はエバに連れられながら海上モノレールに乗り、海に浮かぶ巨大都市へと向かった。
海の上へ築かれた無数の塔。
「あれが公安都市白書」
エバは静かに呟いた。
「これからお前が過ごす新しい街だ」
わたしの胸の中には、不安と期待が入り混じった不思議な感覚が渦巻いている。
そうしている間にも海上モノレールは静かに速度を落とし、終点 ――白書大図書館駅へと滑り込んでいった。
扉が開いた瞬間、潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。
駅を出ると、目の前には巨大な街並みが広がっていた。
ガラス張りの高層ビル。
空中を走る搬送レール。
絶え間なく動き続ける電光広告。
そして、その遥か奥。
白い霧を貫くようにして建てられた巨大な塔 ――白書大図書館。
まるで街そのものが、あの建物を中心に動いているみたいだった。
「アル、悪いが先に仕事先へ向かわなくちゃならなくてね」
エバが片手を上げながら歩き出す。
わたしは小走りでその後ろを追いかけた。
「 ......仕事」
そういえば、エバが何の仕事をしているのか、わたしはほとんど知らない。
雪原では“調査”と言っていた気もするけれど、それ以上は聞かなかった。
エバは少しだけ悩むように顎へ手を当てると、ふっと笑った。
「せっかくだ。
あんたも一緒に来るか」
「いいの?」
「別に、人に言えないような仕事をしてるわけじゃないし」
そう言うと、エバはわたしの返事を待たずに大通りの奥へ歩き始める。
わたしは慌ててその背中を追った。

「エバの仕事先って、図書館に近いんだね」
何気なく呟く。
するとエバは、少し間の抜けた顔でこちらを見てくる。
「ん?
言ってなかったっけ」
「私の仕事先、図書館の中だよ」
「 ...はぁ」
もはや呆れたため息しか出てこない。
エバは毎回、大事な説明が抜けている。
日本へ帰ることも。
仕事のことも。
飛行機のことだって、前日まで話していなかった。
「もっと早く言ってよ」
「悪い悪い」
口では謝っているが、まったく反省している様子はない。
そんな時だった。
「きゃあああっ!
私のバッグ!」
女性の甲高い悲鳴。
通りを挟んだ向かい側で、女性が地面へ倒れ込んでいた。
黒いフードを被った男が、そのバッグを抱え込むようにして路地へ駆け出していく。
周囲の人々がざわめき始める。
「アル、ちょっとここで待 ―」
エバが動き出そうとした、その瞬間だった。
通りのベンチにだらしなく座っていた男が、そっと足を伸ばした。
次の瞬間。
走ってきたフードの男が、その足に引っ掛かるようにして盛大に転倒する。
「あかんやん、お兄さん。
人のもん盗ったら」
陽気な訛りのある喋り方をした、細長い目をした青年がベンチから立ち上がる。
年齢は二十歳くらいだろうか。
黒いコートを羽織り、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。
「うるせぇ!」
フードの男は立ち上がると、青年の顔を殴りつけるように腕を振ると再び走り出した。
「あっ、ちょ、もー」
青年は頬を押さえながら、面倒臭そうにため息を吐く。
周囲が騒然とする中、彼だけが妙に気楽だった。
そして次の瞬間には、彼は走り出していた。
フードの男との距離は十数メートルはあったはずだ。

それなのに。
わずか数秒のうちに、青年は男へ追いついていた。
何が起きたのか分からない。
気づけば、男は地面へ押さえつけられていた。
「はいはい、暴れんといてなー」
青年は笑いながら男の腕を拘束している。
その動きは軽い。
なのに、不思議なほど無駄がなかった。
わたしはただ唖然と立ち尽くしていた。
「アル、図書館へ行くよ」
エバがわたしの腕を軽く引く。
「え、あっちは ...」
「あいつなら問題ないでしょ」
エバは青年の方をちらりと見た。
だけどその表情は、“信頼”というより“気まずい”そんな顔だった。
わたしたちは白書大図書館の正門とは反対側へ回り込む。
そこには、人目につかない小さな扉が存在していた。
エバは迷いなくその扉を開ける。
中は驚くほど静かだった。
外の喧騒が嘘みたいに、本の匂いだけが漂っている。
細い通路をしばらく歩き続けた先。
突き当たりの部屋の前で、エバは勢いよくドアを開いた。
「クマ、今帰ったぞー」
「っげ!
姉御!」
部屋の中にいたのは、エバよりさらにふた回りは大きなスーツ姿の男だった。
熊みたいな巨体に鋭い目つき。
なのに、エバを見るなり露骨に顔を引きつらせている。
「げってなんだ、げって」
「いやだって、急に来るもんですから ...」
しかし、そのがたいとは裏腹にエバに対する態度は飼いならされた大型犬のようだった。
「っていうか、調査はどうしたんです」
「ちょうど先日、終わったとこだよ」
エバはどこか楽しそうに笑う。
それとは逆に、大男 ――クマは嫌な予感しかしないといった顔をしていた。
「 ...それで、帰ってきて真っ先にここへ来たってことは」
「アル、こっち来な」

エバが手招きする。
わたしはおそるおそる前へ出た。
「クマ。
こいつが今回の調査中に拾った子だ」
「誘拐してきたんですか!!」
「ちげぇよ!!」
エバは、どこからともなくハリセンを取り出すと、大男の頭へ勢いよく叩き込んだ。
パァンッ ――という乾いた音が部屋へ響く。
「痛ぇっ!
なにすんですか姉御!」
大男は頭を押さえながら涙目になっていく。
「アホなこと言うからだ」
エバは呆れたようにため息を吐いた。
「誘拐じゃない。
雪原で拾ったんだよ」
そう言いながら、エバはわたしの方へ視線を向ける。
その目は、わたしを安心させるようにどこまでも穏やかだった。
「私はまだ他にも仕事が残っててね」
「しばらくの間、この子をお前に預かってほしいんだよ」
「え ......」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。
エバについて来るために、日本へ来た。
なのに。
もう、離れるのだろうか。
せっかく見つけた居場所が、また遠くへ行ってしまう気がした。
わたしの表情に気づいたのか、エバはそっと肩へ手を置く。
「大丈夫」
低く、落ち着いた声だった。
「帰ってきたら、すぐ会いに来る」
その手は大きくて、温かい。
わたしは小さく俯きながら、黙って頷いた。
「いやぁ ......ただ俺も忙しいんですよねぇ」
大男は困ったように頭を掻きながら椅子へそっと腰掛ける。
巨大な身体が沈み込むたび、椅子がぎしりと音を立てた。
「なら律にでも任せればいい」
エバは軽い調子で言う。
「 ......いいんですか?」
大男は驚いたような表情をしている。
「あいつ、なんだかんだ面倒見は悪くないだろ」

「姉貴は、ひどいですねぇ」
エバはその言葉に軽く笑っていたがその顔は少し引きつっていた。
「ってことで、私はもう行く」
エバはそう言うと、わたしの頭を軽く撫でる。
その仕草は乱暴なのに、なぜだか安心する。
「ちゃんといい子にしてろよ、アル」
「 ......うん」
エバは満足そうに笑うと、そのまま部屋を出ていった。
重たい扉が閉まる音が、静かな部屋へゆっくり響いた。
わたしは、不安を誤魔化すように辺りを見渡した。
知らない場所。
知らない人。
そして、エバのいない空間。
さっきまで隣にいたはずなのに、その存在が消えただけでわたしは不安に駆られた。
部屋の中には、壁掛け時計の針が進む音だけが小さく響いている。
カチ。
その音がやけに大きく聞こえた。
まるで時間だけがゆっくり流れているみたいだった。
その時だった。
「アルちゃん、こっちにおいで」
大男が、優しい顔でこちらへ手招きをしていた。
わたしは少しだけ警戒しながら、そっと近づいていく。
するとクマさんは、机の引き出しから透明なホルダーを取り出す。
「はい、これ」
「今は仮だけど入館証ね。
無くさないように首から掛けときなさい」
そう言うとクマさんは、紙をホルダーへ丁寧に差し込み、わたしの首へそっと掛けてくれた。
透明なカードケースが胸元へ当たる。
そこには、『白書大図書館仮入館許可証』
と書かれていた。
「これで図書館の大体の場所には入れるから、律が来るまで本でも読んで待っててくれるかい?」
大男は柔らかく笑いながら首を傾げる。
それに、わたしは小さく頷いた。
「それと、まだ名前言ってなかったね」

「私は大熊衛。
クマって呼んでくれ」
大男 ――クマさんはそう言うと、大きな手をこちらへ差し出した。
「アルです。
よろしくお願いします」
反射的にそう名乗り、わたしも手を差し出す。
次の瞬間、わたしの手はクマさんの大きな掌にすっぽり覆われた。
エバよりも大きい。
なのに、不思議と握り方は優しかった。
ただ ――その手は驚くほど冷たかった。
まるで、雪のように。
――それから。
わたしはクマさんの部屋を出て、白書大図書館の中を自由に歩き回っていた。
図書館の中は、外から見た以上に広かった。
吹き抜けになった空間の中心を、無数のエレベーターと階段が上下している。
見上げても、天井は霞んで見えない。
まるで建物そのものが空へ伸び続けているみたいだった。
1階には絵本。
2階には児童書。
3階からは小説や文学作品。
さらに上へ行けば、歴史書、専門書、研究資料。
階層が上がるごとに、置かれている本の種類も、そこにいる人々の空気も少しずつ変わっていく。
わたしは階層を移動しながら、エバに読ませてもらった本の作者を探していた。
知らない本ばかりだった。
それに、本棚の匂い。
古い紙の感触。
静かな空気。
ページをめくる微かな音。
遠くで誰かが咳払いする声。
雪原の静けさとは違う。
なのに、不思議と心が落ち着く。
下の階層には、子供や家族連れも多かった。
小さな子供が絵本を抱えながら走り回り、その後ろを親が慌てて追いかけている。
その光景を見ていると、少しだけ胸が温かくなった。
だけど階層が上がるごとに、人影は少なくなっていく。
15階へ到着した頃には、周囲には数人しかいなかった。

この階層には哲学書が並んでいるらしい。
分厚い本が壁みたいに並んでいた。
右から順に、『告白』
『国家』
『存在と時間』
『純粋理性批判』
聞いたことのない哲学書が多く並んでいる。
わたしは書物の多さに驚きながらも、その光景を静かに眺めていた。
そんな時だった。
ふと、視界の端で何かが揺れた。
わたしは思わず立ち止まる。
棚の隙間から、小さな光が零れていた。
淡い粒子だった。
蛍みたいに、ゆっくり宙を漂っている。
白く、淡く。
だけど、確かにそこに存在していた。
わたしは息を呑む。
ここは図書館だ。
1階の子供向けエリアならともかく、こんな大人向けの上層階にこんなに尖った装飾があるとは思えない。
少し怖かった。
だけど、それ以上に気になった。
胸の奥がざわつく。
まるで、“それを知っている”みたいに。
わたしはゆっくり棚へ近づいていく。
すると、一段だけぼんやり光っていた。
まるで蛍光液でも零れたみたいに。
しかし、その棚には本が一冊も置かれていなかった。
「なにこれ ...」
小さく呟く。
わたしは周囲を見渡した。
他にも同じものがあるかもしれないと思った。
けれど、どこにもない。
この棚だけだった。
近づくほど、胸が妙にざわつく。

身体の奥が熱を持つ。
なぜだろう。
怖いのに、目を離せない。
光へ指を伸ばそうとした、その時だった。
粒子がゆっくり崩れ始めた。
雪のように。
しかし今度は、地面の微細な光の粒子が浮かび上がる。
まるで道みたいに。
どこかへ誘導するように。
ただ、すぐに消えていく。
わたしは無意識にその光を追いかけた。
光は階段を下り、長い通路を抜け、気づけば図書館の外へまで続いていた。
白い粒子は風に流されながらも一定の方向へ漂い続けている。
どうしてだろう。
目を離してはいけない気がした。
わたしは人混みを避けるように、その光を追い続ける。
ビル群を抜け、海の香りが強くなっていく。
その時だった。
ドン ――。
何か硬いものへ頭をぶつけた。
「おっと、どこ向いて歩いてんねん」
聞き覚えのある声だった。
わたしが顔を上げると、そこには先ほどひったくり犯を捕まえていた青年が立っていた。
細長い目。
気の抜けた笑み。
黒いコート。
その周囲には、複数の警察官が慌ただしく動いている。
「って、なんで一般人がおるん?」
青年は驚いたように目を細め私を凝視すると、近くの警察官へ手を振った。
「この子、外まで頼みますわ」
警察官たちは慌てたようにわたしを連れ出そうとする。
「あ、待って ...」
わたしは思わず振り返った。
光が、まだ続いている。
その先。
白衣を着た男が、地面へ倒れ込んでいた。

まるで糸が切れた人形みたいに。
そしてその周りには池のように広がっていく赤く濁った血。
鉄の匂いが、風に混じって漂ってくる。
その瞬間。
雪原で倒れていた時の感覚が頭の奥をよぎった。
冷たい雪。
重くなる瞼。
消えていく意識。
もし、エバが見つけてくれなかったら。
わたしも、あんな風に。
「っ ...」
気づけば、身体が小さく震えていた。
呼吸がうまくできない。
胸の奥が苦しい。
青年はそんなわたしを見ると、小さくため息を吐いた。
「はぁ ...しゃーないなぁ」
そう呟きながら、わたしの首から下がった入館証を見る。
「あー、クマさんのところの子か」
青年は少しだけ困ったように笑った。
「ほな、このお嬢さんは俺が連れて行きますわ」
「ここはよろしく頼みます」
そう言うと、青年はそっとわたしの手を取った。
その手は、わたしと同じくらいの大きさだった。
ただ、とても温かかった。
そして図書館へ戻るころには、街はオレンジ色の夕焼けに染まっていた。
白書大図書館の壁面に夕日が反射し、巨大な建物全体が淡く燃えているように見える。
昼間は騒がしく感じた街も、人の数が少なくなったせいか、今はどこか落ち着いて見えた。
海から吹く風も少し冷たい。
青年に手を引かれながら歩いている間も、わたしは何度も後ろを振り返っていた。
さっき見た白衣の男。
地面へ広がる赤い血。
雪原で倒れていた時の感覚。
それらが頭の奥にこびりついて離れない。
「クマさーん」
気だるげな青年は、だるそうに片手で扉を開けると、もう片方の手でわたしの腕を引っ張った。

突然引かれ、わたしは小さくよろめく。
部屋の中にいたクマさんは、驚いたように目を見開いた。
「お前ら、もう会ってたのか」
「はぁ?」
青年は露骨に顔をしかめる。
「ちゃうねん」
「こいつが捜査中の事件現場に入り込んできよったから、引っ張ってきたんですよ」
青年は苛立ったように頭を掻きながら、わたしを指差した。
「クマさんの子供なら、ちゃんと見といてくださいよ」
「私の子供⁉」
クマさんは目を丸くしてこちらを見る。
「なわけあるか!」
慌てて否定するクマさんを見て、青年は「ほななんなんですか」
と呆れたように眉をひそめた。
するとクマさんは、小さくため息を吐く。
「 ...エバさんが調査中に拾ってきた子だよ」
「っ ...」
その瞬間だった。
青年の空気が変わった。
さっきまでの軽い雰囲気が、音もなく消えていく。
細長い目は、大きく開きながらこちらを見ている。
その視線だけで、背筋が冷える。
「お前」
次の瞬間。
わたしの身体は強く引き寄せられていた。
「うっ ...!」
青年の手が、わたしの首元を掴み上げる。
苦しい。
息ができない。
視界がぐらぐら揺れる。
必死に手を振りほどこうともがく。
だけど、その手はびくともしなかった。
まるで鉄みたいだった。
その時だった。
「何してるんだ!!」
低く響いた怒声。

次の瞬間、大きな手が青年の腕を強引に振り払った。
クマさんだ。
わたしと話していた時とはまるで違う。
部屋の空気が凍り付くような、冷たい怒りだった。
「例え何があろうと、か弱い女の子を傷つけるためにお前を鍛えた覚えはない」
クマさんは、わたしを庇うように前へ出る。
そして。
次の瞬間には、青年の身体が宙へ浮いていた。
まただ。
何が起きたのかわからない。
視線で追う暇さえない。
気づけば青年は、部屋の壁へ叩きつけられていた。
ドゴン ――という鈍い音が響く。
コンクリートの壁が大きくへこみ、細かな破片が床へ散らばった。
それでも青年は悲鳴ひとつ上げない。
「一回、頭冷やしてこい」
クマさんは低い声で言い放つ。
その後ようやく、こちらへ振り返った。
「大丈夫かい」
わたしは咳き込みながら、小さく頷く。
喉が焼けるように痛かった。
クマさんは心配そうに、わたしの首元を見つめる。
そこには赤く指の跡が残っていた。
「 ...律がすまなかった」
クマさんは申し訳なさそうに頭を下げる。
だけどその後ろで、青年 ――律はゆっくり立ち上がっていた。
壁へぶつかったはずなのに、平然としている。
口元の血を拭うと、律はわたしを一瞥した。
その目には、明確な嫌悪があった。
そして何も言わないまま、部屋を出ていく。
「い、いえ ......」
わたしの声は震えていた。
怖かった。
だけど、それ以上にわからなかった。
どうして彼が、あそこまでわたしを嫌うのだろうか。
クマさんは深くため息を吐くと、引き出しから氷の入った袋を取り出した。

「少し冷やしなさい」
そう言って、そっと首元へ当ててくれた。
「 ...少し時間はかかるけど、やはり律以外の人間を君につけよう」
クマさんは椅子へ腰掛けながら、疲れたように目を閉じる。
そして眉間をつまむように手を当てる。
「今週は自由に図書館を探索しててもいい」
「ただ、律にはできるだけ近づかないようにしなさい」
クマさんは静かな声で続けた。
「私がいない時にあいつへ会ったら、何されるかわからない」
わたしは小さく頷くことしかできなかった。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっている。
白書の街には、無数のネオンが灯り始めていた。
「今日はもう遅い」
「図書館の隣にある寮へ泊まりなさい」
クマさんは引き出しから携帯端末を取り出すと、どこかへ連絡を入れる。
数分後、受付嬢らしき女性が部屋へやってきた。
「こちらへどうぞ」
わたしは立ち上がる。
首元はまだ痛む。
部屋を出る前ににもう一度だけ、律が叩きつけられた壁を見る。
そこには、大きなへこみが残っていた。
どうしてだろう。
怖いはずなのに。
もう二度と会いたくないと思ってもいいはずなのに。
わたしは、律のあの目が忘れられなかった。
怒り。
嫌悪。
彼は、わたしの何を見たのだろう。
答えは出ないまま、わたしは受付嬢に連れられて部屋を出る。
夜の図書館は、昼間よりもずっと静かだった。
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第2章
白書の魔女作者:管理者(1)
目次
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