第4章
クマさんの怒鳴り声が、執務室へ響き渡った。
机を叩いた衝撃で、置かれていたペン立てが揺れる。
わたしは思わず肩を跳ねさせた。
「いや、あの場面で安全って無理すぎるやろ!」
律も負けじと声を上げる。
「そういうことではない!」
「なぜばれずに逃げられんかった!」
「そのせいで、結局誰一人検挙できていない!」
「す、すまん ......」
律が珍しく小さくなる。
ソファへ座り込みながら、肩を落としていた。
あの後。
警察と連携して“ネーム”へ戻ったものの、そこには誰も残っていなかった。
薬物も。
男たちも。
証拠になりそうなものも。
最初から存在しなかったみたいに跡形もなく消えていた。
残っていたのは、焼け焦げた路地と、散乱した机だけ。
クマさんは深くため息を吐く。
その顔には、疲労が滲んでいた。
「 ...相手は想像以上に大規模だ」
「少なくとも、ただのチンピラ集団ではない」
わたしは静かに口を開く。
「クマさん。
一つ、勝負を仕掛けてみませんか」
クマさんの視線がこちらへ向く。
律も怪訝そうに眉をひそめた。
「勝負?」
「はい」
わたしは端末を机へ置く。
そこには、ランク紫を探していた男たちの会話記録が表示されていた。
『あれがねぇと ――』
途中で途切れた言葉。
だけど。
彼らが“ランク紫”を強く求めていることだけは確かだった。
「相手は、ランク紫を欲しています」
「なら、こちらから餌を見せればいいです」
部屋の空気が静まり返る。
クマさんは腕を組みながら目を閉じた。
「 ...なるほど」
律だけが嫌そうな顔をする。
「ただ、リスクが大きすぎる ...」
クマさんは深々と悩み始めている。
わたしは、そのまま作戦を説明した。
ランク紫を運び出し、その情報を意図的に裏社会へ流す。
そして。
それを狙って現れた連中を、一斉包囲する。
単純明快。
だけど、確実に相手は食いつく。
話を聞き終えたクマさんは、しばらく沈黙したあと静かに頷いた。
「 ...確かに勝算は一定数あるだろう」
「ただ、一旦上層部で会議させてくれ」
そう言うとクマさんは部屋の外へ出ていった。
三日後。
作戦は正式に認可され、 NOTE初の大規模作戦が始まった。
白書の警察官、NOTE、さらに図書館警備を専門とした戦闘部門まで投入されるらしい。
「ほんまにワイらが囮やるんか ...」
律がソファへ倒れ込む。
「当たり前でしょ」
「律以外が狙われたら、すぐに死ぬ可能性あるし」
「ワイも死ぬ可能性あるんやで!?」
律が叫ぶ。
「死なない」
わたしは即答した。
「信頼してる」
「っ ...!!」
律が胸を押さえて苦しみ始める。
「なんやその不意打ち ...」
今回の作戦は元々、囮役はわたしだった。
だけど、律が猛反対した。
『死ぬ気なんか!?』
『何回言わせんねん!』
『命を軽く考えるのやめろ!!』
執務室中へ響くくらい怒鳴られた。
あまりにうるさかったので、最終的にクマさんが律中心の作戦へ変更した。
その日の晩御飯は、大根の漬物だった。
律は怒りながらこちらを睨んでいた。
ただ、漬物は妙に歯ごたえが良くて美味しかった。
「全部隊、配置に着け」
無線から声が響く。
作戦開始。
わたしたちは現在、白書大図書館地下三百メートル地点へ来ていた。
人類が、生身で安全に到達できる限界深度。
地上とは空気が違う。
熱く、空気が重い。
まるで巨大な生き物の腹の中にいるみたいだった。
地下へ降りるエレベーターは、降下中ほとんど揺れなかった。
だけど。
降りるたび、耳鳴りみたいな感覚が強くなっていく。
地下二百メートルを超えた辺りから、律もほとんど喋らなくなっていた。
やがて。
巨大な隔壁の前でエレベーターが停止する。
分厚い金属扉。
そこには無数のロック装置が取り付けられていた。
クマさんが端末を操作する。
ガコン。
重低音が響く。
ロックが一つずつ解除されていく。
そのたびに、空気が冷えていく気がした。
「ここに、ランク紫が保管されている」
扉がゆっくり開く。
次の瞬間、凍えるような冷気が吹き出した。
「っ ...!」
わたしは思わず息を呑む。
部屋の中央。
そこには五冊の本が並んでいた。
すべてガラスケースの中。
周囲には大量のケーブル。
計測機器。
謎の装置。
そこでは本が“監禁”されていた。
わたしは本から視線を外せなくなった。
鼓動が速くなる。
手汗が滲む。
足が震える。
だけど、怖いとは少し違った。
むしろ ――懐かしい。
そんな感覚だった。
「 ...なんやこれ」
律が半歩下がる。
いつもの軽口が消えていた。
「おびき出す前に、ワイら死ぬんちゃうか」
笑っている。
だけど顔は引きつっていた。
クマさんが小さく笑う。
「安心しろ」
「我々も死なれると困る」
そう言うと、クマさんは別のケースを取り出した。
透明な四角い箱。
「この特殊ケースで移送する」
「これに入れていれば本は絶対に開かない」
「どう見てもガラスやないか!」
律が即座にツッコむ。
「そんなもん、すぐ割れるやろ!」
「いや、これは防弾ガラス以上の新防御素材だ」
「ミサイルでも飛んでこない限り壊れない」
「それもうフラグやん ...」
律が顔をしかめる。
その後本は、機械アームによって慎重に移されていく。
人間が直接触れるのはさすがにリスクが高いらしい。
だけど。
これから、わたしたちはそれを至近距離で運ぶ。
そう考えた瞬間。
胸の奥がざわついた。
準備は完了した。
警察の配置、情報の流布、包囲網。
すべて整った。
そして。
NOTE初の本格作戦が、静かに始まった。
図書館を出ると、わたしたちは港のある湾岸エリアへ向かって歩き始めた。
空は高く晴れている。
潮風も穏やかだった。
だけど。
港へ続く道には、人影がほとんど存在しない。
静かすぎる。
普段の白書なら考えられないほどに。
今回の作戦では、一般人を巻き込まないことが最優先だった。
そのため警察側は、都市最大規模のイベント開催日へ作戦日程を合わせている。
街のほとんどの住民は、駅周辺の大型会場へ集まっていた。
結果。
湾岸エリアは、不自然なほど人が消えていた。
相手からすれば怪しく感じるかもしれない。
だけど。
被害を最小限へ抑えるには、しかたなかった。
律が周囲を警戒しながら歩いていく。
黒いマントが風で揺れる。
腰に下げた刀が、微かに金属音を鳴らした。
わたしはその後ろを静かについていく。
歩き始めてから一時間ほど。
ようやく港のコンテナ倉庫地帯が見えてきた。
巨大な鉄箱が、迷路みたいに積み上がっている。
海風が吹くたび、コンテナ同士が軋む音が響いた。
今のところ襲撃はない。
もし相手が出てこないなら、この作戦は失敗。
「そこで三十分待機」
「その後、港内を移動したのち撤収だ」
イヤホン越しに、クマさんの声が聞こえる。
「いっそ出てこんでもろて ...」
律がぼやいた、その瞬間だった。
パンッ ――!!
乾いた銃声が湾内へ響いた。
わたしは反射的に身を低くする。
ただ。
弾は飛んできていない。
「
部隊、状況確認へ向かえ」
クマさんの指示。
その直後。
パンッ ――!!
今度は南側。
さっきとは別方向。
律の顔から笑みが消える。
「 ...嫌な感じやな」
クマさんは即座に北部隊へ待機命令を出した。
だけど。
返事がない。
南へ向かった部隊も同じ。
ノイズだけが流れている。
わたしの背筋が冷える。
「全部隊、即座に合流」
「応答不能部隊を確認後、作戦を中止する」
クマさんが即断する。
だけど。
遅かった。
南の銃声が聞こえた時点で。
もう。
わたしたちは囲まれていた。
「 ...うっそやん」
律が低く呟く。
コンテナの影。
倉庫の屋根。
通路。
いつの間にか、武装した男たちが現れていた。
三十人以上。
全員が異様だった。
目が虚ろい、筋肉が不自然に膨張している。
皮膚の下で何かが蠢いているみたいだった。
「この人たち ...」
「この前の奴らと同じかも」
律が小さく舌打ちする。
通常なら、律がある程度の時間で制圧できる人数。
だけど。
今目の前にいる連中は違う。
殺気が濃い。
「この状況、大丈夫なんよな?」
「まだね」
わたしは周囲を見渡す。
予定通り。
これはまだ作戦範囲内。
むしろ敵が出てきたことで、包囲は完成する。
「全部隊、戦闘開始」
次の瞬間。
四方から銃声が響いた。
港が一気に戦場へ変わる。
警察部隊と武装集団が撃ち合い始めた。
律も同時に地面を蹴る。
一瞬で加速していく。
刀が横へ走る。
男の身体が吹き飛ぶ。
さらに振り返りざま、別の男の腕を斬り落とした。
だけど。
止まらない。
腕を失っても、男は笑いながら突っ込んでくる。
「キモっ!!」
律が叫ぶ。
男のナイフが振り下ろされる。
「律、右!!」
わたしが叫ぶ。
律は反射的に身体を捻った。
直後。
コンテナ上から飛び降りてきた敵の刃が、律のいた場所を斬り裂いた。
鉄板が削れ、火花が散る。
「ナイスや!」
律はそう叫ぶと、地面を蹴って距離を詰めた。
刀が一閃する。
飛び降りてきた男の腹部へ刃が走り、男の身体がコンテナへ叩きつけられた。
だけど。
倒れない。
男は腹から血を流しながら、口元だけで笑っていた。
「ほんま、どうなっとんねんこいつら!」
律が舌打ちする。
その背後。
別の男が銃口を向ける。
「後ろ!」
「分かっとる!」
律は振り返らない。
そのまま身体を沈めると、銃弾が頭上を抜けていった。
直後、律は足元に落ちていた鉄片を蹴り上げる。
鉄片は銃を持つ男の手首へ直撃し、銃口が跳ね上がった。
パンッパンッ ――!!
暴発した銃弾が空へ消える。
律はその隙に間合いへ入った。
柄で男の顎を打ち抜き、そのまま腹へ蹴りを入れる。
男が折れ曲がる。
けれど、倒れる寸前に律の足首を掴んだ。
「うわ、気持ち悪っ!」
「左から来る!」
わたしの声に、律は捕まれた足を軸にして身体を回した。
迫っていた別の敵のナイフが、律のマントを裂く。
布が宙へ舞った。
律は回転の勢いのまま、足首を掴んでいた男を蹴り飛ばし、さらに左から来た男の膝へ刀を叩き込む。
骨が砕ける音がした。
なのに。
男は膝を折られたまま、地面を這ってでもこちらへ向かってくる。
わたしは息を呑む。
人間じゃない。
いや、人間だったものが、無理やり動かされているみたいだった。
「アルちゃん、ケース持って下がっとき!」
「無理」
「なんでや!」
「後ろから来てる」
「はぁ!?」
律が振り返る。
コンテナの隙間から、二人の男が飛び出してきた。
一人は銃。
一人は鉈。
わたしはランク紫のケースを抱えたまま後ずさる。
胸の奥がざわつく。
ケースの中の本が、微かに脈打っているような気がした。
「律、銃の方から!」
「あいよ!」
律が地面を蹴る。
銃を持った男が引き金を引くより早く、律は距離を潰した。
刀の峰で銃身を叩き上げる。
銃弾がコンテナの壁にあたり、甲高い音を立てる。
続けざま、律は銃を持つ腕を蹴り上げる。
その横から鉈が迫る。
「下がって!」
律はわたしの声に逆らわず、一歩だけ下がった。
鉈が空を切る。
その一瞬の隙。
律の刀が、相手の胴へ深く入った。
男は吹き飛び、積まれた木箱へ突っ込む。
「アルちゃん、今の、よう分かったな」
「そんなことは今はいいから」
「はいはい、厳しい相棒やなぁ!」
律は笑いながら、再び敵の群れへ突っ込んでいく。
わたしはその背中を追いながら、周囲を見る。
コンテナの上。
倉庫の裏。
木箱の奥。
この前よりより鮮明に光が見えている。
光は、攻撃が来る場所へ集まる。
それによって襲ってくる男たちの動きがとるようにわかる。
けれど。
それを律へ言うつもりはなかった。
今は、説明している時間がない。
「律、上に二人!」
「前に三人!」
「了解!」
わたしの声が飛ぶたび、律が動く。
刀が走る。
敵の銃撃をかわし、ナイフを弾き、足を払う。
律は強い。
普通なら、わたしの指示なんてなくても戦える。
だけど、今の敵は普通じゃない。
視界の外。
死角。
コンテナの上。
味方の銃声に紛れた一撃。
そういう奇襲だけを、わたしは叫んだ。
「律、後ろのコンテナ!」
「ん?」
律が横へ跳ぶ。
次の瞬間、コンテナの上から重たい鉄鎖が落ちてきた。
もし当たっていたら、身体ごと潰されていた。
「うっわ、殺意高すぎやろ!」
律は叫びながら、落ちてきた鎖を片手で掴む。
そのまま振り回し、周囲の敵をまとめて薙ぎ払った。
男たちが次々と地面へ転がる。
でも。
すぐに起き上がる。
倒しても倒しても、終わらない。
その時、男の一人が結晶をさらに噛み砕いた。
すると男の首筋が膨れ上がり、目の血管が赤く浮かび上がった。
「 ...さらに強くなるの?」
「勘弁してくれや!」
男が地面を蹴った。
速い。
さっきまでとは比べものにならない。
「律、受けないで!」
わたしが叫ぶ。
律は咄嗟に刀を引いた。
男の拳が空を裂き、コンテナの壁へ突き刺さる。
鉄板がへこんでいく。
律の顔が引きつる。
「受けてたら腕持ってかれてたわ ...!」
律は男の腕が壁から抜ける前に、膝裏を狙う。
刃が走る。
男が崩れた。
だが、倒れる直前に口から黒い液体を吐き出した。
「避けて!」
律が飛び退く。
黄色い液体が地面へ落ちた瞬間、アスファルトがじゅう、と音を立てて溶け始めた。
「毒までありかい!」
律は怒鳴る。
その隙に、別の敵がわたしへ銃を向けていた。
気づいた時には、銃口がこちらを見ている。
身体が固まる。
足が動かない。
けれど。
恐怖より先に、光が見えた。
銃口の先。
わたしの胸元へ伸びる、細い白い線。
「 ...っ」
撃たれる。
そう思った瞬間。
律がわたしと男の間へ滑り込んだ。
銃声。
律の刀が弾丸を弾いた。
金属音が耳を打つ。
「アル!
ぼーっとすんな!」
「ごめんなさい!」
律はわたしを庇いながら、銃を持つ男へナイフを投げた。
ナイフは男の肩へ突き刺さり、銃が地面へ落ちる。
「律、左!」
「まだ来るんかい!」
律はそのまま地面を転がり、左からの斬撃を避けた。
起き上がる勢いで刀を振る。
一人。
二人。
三人。
敵が倒れていく。
だけど律の息も荒い。
肩で呼吸している。
刀を握る手から血が滴っていた。
「律、平気?」
「平気に見えるか?」
「見えない」
「なら聞くなや!」
律が笑う。
その笑い声は荒い。
でも、まだ折れていない。
わたしはケースを抱え直した。
その時。
敵の動きが一瞬止まった。
まるで誰かの命令を聞いたみたいに。
次の瞬間。
全員が一斉にこちらを見た。
わたしではない。
ケースだ。
「 ...律」
「分かっとる」
律がわたしの前へ立つ。
男たちが一斉に動き出した。
銃。
ナイフ。
鉄パイプ。
鉈。
全方向から迫ってくる。
「右上!」
「前!」
「左の銃!」
「足元!」
わたしは叫び続けた。
律はその声だけを頼りに動く。
避ける。
斬る。
弾く。
蹴る。
ケースへ伸びてきた腕を斬り落とし、銃弾を刀で逸らし、鉈を持った男の顎を蹴り上げる。
血が飛ぶ。
潮風に混ざって、鉄の匂いが濃くなる。
わたしの足は震えていた。
でも。
目は逸らさなかった。
逸らしたら、律が死ぬ。
それだけは分かっていた。
「律、後ろの二人、同時!」
「はいよ!」
律が身体を沈める。
背後から飛びかかった二人が空中で衝突した。
その瞬間、律は刀を横へ薙ぐ。
二人の身体がまとめてコンテナへ叩きつけられた。
残り数人。
警察側の銃声も減っている。
味方が押しているのか、倒れているのか分からない。
律は血に濡れた刀を握り直した。
「ラスト、決めるで」
その声と同時に、律が消えた。
いや。
そう見えるほど速かった。
敵の間を縫うように走り、刃が連続で閃く。
一人の足を斬り。
二人目の腕を落とし。
三人目の銃を弾き飛ばす。
最後の男が、結晶を噛み砕こうと口元へ手を伸ばした。
「律、口!」
「おう!」
律の刀の峰が、男の顎を打ち抜いた。
結晶が宙に舞う。
律はそれを蹴り飛ばし、男の腹へ柄を叩き込んだ。
男は白目をむき、その場へ崩れ落ちる。
静寂。
ようやく、わたしたちの周囲にいた敵は動かなくなった。
律は刀を下ろし、荒く息を吐く。
「 ...っはぁ」
「しんど」
わたしも膝から崩れそうになる。
だけど、まだ終わりじゃない。
「北へ行こう」
「応援に行かないと」
律は一瞬だけこちらを見る。
それから、短く頷いた。
「行くで」
敵を何とか片付け終わったわたしたちは、すぐに北へ向かった。
しかしそこには、倒れた警察官たちがいた。
身体が異常なほど萎びている。
水分を全部抜かれたように。
「 ...っ」
警官たちの顔を見ると喉に穴をあけられている。
そして、彼らの顔がモザイクがかかったように見えなくなっていく。
嫌な予感がした。
「プランBだ!!」
クマさんの怒号が響いた。
「全員、即時撤退しろ!!」
プランB。
それが指すのは、最悪の状況。
つまり。
わたし達が考慮しうる想定外が起きた。
「なんでやねん!!」
律が叫ぶ。
「急いでここ離れるよ!!」
「一旦クマさんのとこ行かんと!」
「駄目」
わたしはすぐに、律のマントを掴んだ。
「なんでや!」
「クマさんは、ワイの師匠やで!?」
「それにこの都市でクマさんに勝てる人なんておらん!」
「負けるわけ ――」
「もし勝てるなら、プランBは出ない」
律が黙る。
その顔が歪んでいく。
「 ...見捨てろって言うんか」
「違う」
「クマさんが生きてるなら、自力で逃げられるはず」
「でも、わたしたちが戻ったら足手まといになる」
「それでも ...それでもワイは!」
律の声が震えていた。
怒りではない。
焦り。
迷い。
そして、どうしようもない恐怖。
クマさんが負けるはずがない。
きっと律は、そう信じたいのだ。
だけど、無線から響いた“プランB”という言葉が、その信頼を残酷に否定していた。
わたしは、律のマントを掴む手に力を込める。
「 ...わかった」
「なら、わたしも行く」
「いや、お前は ――」
「あんたがいないと、わたし死んじゃうでしょ?」
律の言葉が止まった。
普段なら、何かしら軽口を返してくるはずなのに。
今の律は何も言わなかった。
ただ目を閉じて、深く息を吐く。
「 ...ありがと」
そう呟いた声は、いつもの律より少しだけ幼く聞こえた。
次の瞬間。
律はわたしを抱え上げ、クマさんのいる東側へ向かって走り出した。
風が顔に叩きつけられる。
コンテナの影が後ろへ流れていく。
港に響いていた銃声は、もう遠くなっていた。
代わりに聞こえてくるのは、律の荒い呼吸と、わたしの心臓の音だけだった。
「 ......っ!」
腹部から血が止まらない。
焼けるような痛みが、呼吸のたびに身体の奥を抉っていく。
大熊衛は、片膝をつきながら、それでも目の前の少女から視線を外さなかった。
見た目だけなら、どこにでもいる少女だった。
年齢は、十五にも満たないだろう。
黒いドレス。
細い手足。
陶器のように白い肌。
整った顔立ちは、むしろ人形のように愛らしい。
だが、その目だけが違った。
冷たい。
感情がない。
怒りも、悲しみも、喜びもない。
ただ目の前にあるものを処理する機械のように、大熊を見下ろしていた。
「まさか、こんなところで魔女とお会いすることができるとは光栄だよ」
大熊は、口元に血を滲ませながら笑う。
強がりだった。
すでに周囲の警官たちは倒れている。
いや、倒れているという表現では足りない。
干からびていた。
身体中の水分を抜き取られたみたいに、皮膚は萎み、制服だけが不自然に膨らんでいる。
喉には小さな穴が空いていた。
銃痕ではない。
「あいつら、ちゃんと逃げ切れたか ...」
脳裏に浮かぶのは、細目のうるさい弟子。
そして、いつも不安そうにしている白い少女。
プランBを発令してから、すでに三十分近くが経過している。
律の速度なら、もう湾岸エリアは抜けているはずだ。
ランク紫も、地下ケースへ戻せているかもしれない。
そうであってくれ。
大熊は、そう願った。
「何を独り言を言っている」
少女が口を開く。
声は凛としていた。
だが、そこに温度はない。
「ランク紫はどこにある」
「 ...ふ」
大熊は、思わず笑った。
腹の傷が痛む。
それでも笑った。
「もう、ここにはねぇよ」
少女の瞳がわずかに細くなる。
「なら、貴様も用済みだ」
少女が右手を上げた。
その瞬間、空気が変わる。
周囲に散っていた紙片が、ゆっくりと宙へ浮かび上がる。
少女の唇が動いた。
演唱。
彼女の口から発せられるのは、確かに日本語のはずだった。
音としては理解できる。
単語も聞き取れる。
なのに、意味が頭に入ってこない。
まるで、言葉そのものがこちらの理解を拒んでいるみたいだった。
少女の掌へ光が集まっていく。
淡い白。
その光の周囲を、文字が取り囲んでいく。
文字列は規則正しく並び、輪を作り、やがて一つの文のように形を成していった。
大熊は歯を食いしばる。
まずい。
あれを受ければ、終わる。
分かっているのに、身体が動かない。
血を流しすぎた。
視界が揺れる。
「姉貴 ...」
大熊は、小さく呟いた。
「こんなのが来るなら、先に言ってくださいよ」
その時だった。
「クマさん!!」
聞き慣れた訛り声が、港に響いた。
大熊の心臓が、嫌な音を立てた。
なぜ。
なぜ戻ってきた。
「どうして戻ってきた!」
傷だらけの喉を開き、全力で叫ぶ。
腹から血が溢れる。
それでも叫ばずにはいられなかった。
「お前たちの勝てる相手じゃない!」
逃げてほしい。
今ならまだ間に合う。
時間なら、自分が作る。
それが師匠として、大人として、できる最後の役目だと思った。
「逃げてくれ ...」
祈るように言った。
けれど。
「そんなアホなことするかいな!」
律の声が、その祈りを真正面から叩き落とした。
クマさんの視界に、律とアルの姿が映る。
律はアルを抱えたまま、こちらへ向かって走ってくる。
その顔には、恐怖があった。
焦りもあった。
それでも、逃げるつもりだけはなかった。
「ワイらが来たからには、もう大丈夫やで!」
馬鹿弟子は、にこやかに笑っていた。
大熊は、泣きたくなるほど腹が立った。
クマさんと合流したとき、辺りは地獄になっていた。
警察官たちは地面に倒れている。
誰も動かない。
全員、身体が萎びていた。
そして、その中心にクマさんがいた。
片膝をつき、腹部を押さえている。
指の隙間から血が零れていた。
あのクマさんが。
律を一瞬で壁に叩きつけた、あの人が。
今にも倒れそうになっている。
それだけで、目の前の少女がどれほど異常なのか分かった。
「あんたが、クマさんをやったんか」
律が低く問う。
視線の先には、黒いドレスの少女。
まだ十五にも満たないように見える。
けれど、その場にいる誰よりも人間らしくなかった。
少女はゆっくりこちらを向く。
「うるさい」
たった一言。
その瞬間だった。
わたしの目の前を、白い閃光が横切った。
速すぎた。
何が起きたのか分からなかった。
ただ、閃光が消えた直後。
律の身体が傾いた。
「 ...は?」
律が、自分の腹を見る。
右の腹部が、抉れていた。
綺麗になくなっている。
そこにあるはずの肉も、服も、血さえも、一瞬だけ消えたみたいに見えた。
遅れて、血が溢れ出す。
「りつぅぅぅぅぅぅ!!」
クマさんの叫びが響いた。
律の膝が折れる。
わたしは息が止まった。
頭が理解を拒んでいる。
律が倒れる。
律が負ける。
そんなこと、あるはずがない。
さっきまで、あんなに強かったのに。
何十人もの敵を斬り伏せていたのに。
今は、たった一撃で膝をついている。
この瞬間。
わたしたちの負けは、決まってしまった。
「律 ...?」
声が震える。
足が動かない。
少女は、わたしたちへ興味を失ったように、静かに歩き出す。
その視線は、わたしではなく。
律でもなく。
律の腕に抱えられていた特殊ケースへ向いていた。
「ランク紫」
少女が呟く。
「返してもらう」
わたしは、ようやく理解した。
この子は、最初から人を殺しに来たわけじゃない。
クマさんを倒すことも。
警察官を干からびさせることも。
律を壊すことも。
全部、ただの通り道だった。
目的は一つ。
ランク紫。
それだけだった。
少女の手が、ケースへ伸びる。
その瞬間。
わたしの中で、何かが軋んだ。
嫌だ。
取られたら終わる。
それは、理屈ではなかった。
本能だった。
わたしは震える足で、一歩前へ出る。
「 ...やめて」
少女の目が、初めてわたしを見た。
その瞬間。
全身が凍りついた。
あの雪原よりも冷たい視線。
なのに。
なぜか懐かしい。
「お前」
少女が、わずかに首を傾げる。
「なぜ、名前がある?」
意味が分からなかった。
でも、その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が激しく脈打った。
名前。
言葉。
魔女。
ランク紫。
ばらばらだったものが、頭の奥で嫌な音を立てて繋がっていく。
少女は、再び手を上げた。
光が集まる。
文字が浮かぶ。
さっきクマさんを殺しかけたものと同じ。
それが今度は、わたしへ向けられていた。
「アル、逃げろ ...!」
律が血を吐きながら叫ぶ。
逃げなきゃいけない。
分かっている。
だけど、身体が動かなかった。
黒いドレスの少女の掌で、言葉が形を作っていく。
白い光。
その周囲を囲む文字列。
だけど。
わたしは、後ろへ下がれなかった。
守りたかった。
新しくできた相棒を。
家族を。
仲間を。
この街で出会った人たちを。
何者でもなかったわたしへ、少しずつ色をくれた人たちを。
だから。
彼らが守ってきたケースを、あの少女へ渡したくなかった。
その瞬間だった。
「アル、もしなんかあったら心の中でこう叫びな!」
エバの声が、頭の奥で蘇る。
雪原を去る前。
あの時、笑いながら言っていた言葉。
意味は分からない。
でも、今はこれしかない。
わたしは、震える唇をゆっくり開く。
『 ――綴れ』
その瞬間。
空気が止まった。
世界から音が消える。
風も。
銃声も。
悲鳴も。
全て。
まるで、世界そのものが耳を澄ませたみたいだった。
『我、白書の名において ――』
身体の奥が熱い。
心臓が脈打つたびに、何かが全身を駆け巡っていく。
血液じゃない。
もっと別の何か。
言葉にならない“なにか”が、身体の内側を満たしていく。
『新たな頁を開く』
バキン ――。
乾いた音が響いた。
次の瞬間。
ランク紫を閉じ込めていたケースへ、無数の亀裂が走る。
「なっ ――」
クマさんが目を見開く。
律も、血を流しながらこちらを見ていた。
そして。
ケースは内側から弾け飛んだ。
ガラス片が宙へ舞う。
その中心で、一冊の本がゆっくり浮かび上がっていた。
黒い表紙。
古びた装丁。
なのに、不気味なほど美しい。
本はまるで生き物みたいに、わたしの掌へ吸い寄せられていく。
触れた瞬間。
「 ――っ!!」
頭の中へ、大量の言葉が流れ込んできた。
知らない言語。
知らない景色。
知らない誰かの記憶。
頭が割れそうだった。
本のページが、凄まじい勢いでめくられていく。
バラバラバラバラッ ――!!
風もないのにページだけが暴れ狂う。
まるで、本そのものが何かを探しているみたいだった。
やがて。
一ページで止まる。
真っ白な頁。
何も書かれていない。
その瞬間。
周囲の光が、一斉に本へ集まり始めた。
少女が生み出していた光とは比べものにならない。
港全体の空気が震える。
コンテナが軋む。
地面が揺れる。
「なんや ...これ ...」
律の声が震えていた。
真っ白だった頁へ、ゆっくり文字が浮かび上がっていく。
白い文字。
だけど、それはインクじゃない。
文字そのものが光っていた。
浮かび上がった文字列が、光の周囲を囲むように回転していく。
そして。
わたしの頭に、不思議と言葉が浮かんでくる。
「種は主となり ――」
気がつけば、演唱している。
何かはわからない。
「敵を殲滅せし」
その瞬間だった。
世界が、白く染まった。
轟音。
光。
衝撃。
港の空気そのものが爆発したみたいだった。
コンテナが吹き飛ぶ。
地面が砕ける。
視界が真っ白になる。
「アル!!」
誰かの叫び声が聞こえた。
だけど。
もう何も分からなかった。
ただ。
光の中で、無数の文字だけが踊っていた。