第36話 正しいと思うこと
10月26日 朝 | ハルの自室
朝、いつものように目を覚ましたが身体が重い。
起き上がろうとするのだが、意識だけが先に覚醒し、身体だけがまだ眠りの底に取り残されている。
ハルは決して朝に強い方ではないが、それでも目が覚めれば比較的すぐに行動できる。それが今日に限ってはまるで見えない意思が働いているかのように上手く起き上がれない。
それでも何とか起き上がったものの、頭がぼーっとしている。
熱でもあるのだろうか。
デスクの上に置いてあったはずのペットボトルを取ろうと、ベッドに腰を起こしたまま手だけをデスクへ伸ばす。しばらくそのまま手だけを動かし、やがて明らかにペットボトルの感触ではない平らで四角いモノを掴む。
これは何だろうと思いながら手元に引き寄せたスマホを見て......
――そうだ!
その瞬間、それまで霞がかかっていた頭の中が急に冴えわたり、先ほどまでの緩慢な動作が嘘のように、素早くスマホを操作する。
そして――。
「あれ......ない......」
昨日、あんなにやり取りをしていたユウとのメッセージ履歴はなぜか消滅していた。
ハルは昨日、ユウとのメッセージを終えたあと、スマホをデスクに置いて、そのままベッドに倒れこんだ。そしてそのまま寝てしまおうと思っていたのだが、疲れた身体とは裏腹に、ハルの脳は今しがた入手した、にわかには信じ難い経験に刺激されたせいで眠るのを拒否していた。
ユウのメッセージがいつまでも脳内に反芻され、それを消化しようとさらに脳を動かす。身体は疲れているのに、今が活動のピークだとばかりに思考だけが加速していく。
それはハルの身体が限界を迎え、強制的に意識が夢の世界へと旅立つまで行われた。
疲労がたまっていたうえにそんな眠り方をしたのだから、身体が動かないのも無理はなく、夢とも現実ともユウとのやり取りのせいで、起きていても現実感が全くなくなっていたのだ。
完全に覚醒したハルはメッセージの履歴を何度も確認するが、どうしてもユウとの履歴が見つからず、削除された形跡すらない。
――僕は確かにユウとやり取りをしたはずなのに......
SNSを見ると、ユウの書き込みを見つける。
それを見て、昨日の出来事が夢ではなかったことを確信する。
ハルは軽く伸びをしてベッドから起き上がると、スマホをデスクに置いたまま部屋から出て行った。
スマホにはユウの書き込みが表示されたままであった。
――願わくば、この世界がアップデートされる世界であることを望む。
***
10月26日 13時20分 | 風守神社
「ここら辺は風見市でもあまり来ないエリアだな。こんなとこにこんな大きな神社があったなんて知らなかったぜ」
「私たちが住んでいるのは風見市でも南の方だし、電車に乗っても東西に移動するだけだから無理もないわね」
「それにしてもすごい木だねー。なんだか同じ市内とは思えないよー」
4人は風見市の北側にある風守神社に来ていた。
風見市を通る電車は市の南側を東西に走っている。その影響もあり、再開発や商業施設の整備は南エリアを中心に進んできた。
一方、北エリアは昔ながらの景観を残しており、同じ市内でありながら別の街のような雰囲気を持っている。そのおかげで風見市を昔から知る人にとってはこれこそが風見市だという人も少なくない。
風守神社はその中でも最北ともいえるエリアにあり、同じ市内に住むハルたちであっても、この神社のことは今日まで存在すら知らなかった。
今日の消滅はここで発生するのだが、同じ市内であってもこのエリアは見知らぬ土地に等しいので、今回は念のためにチーム活動ではなく4人全員で訪れたのだ。
「すっごい木だね。もはや森だよ、これー」
ナナが言う通り、風守神社は森の中に建立された神社であった。
神社の入り口にある鳥居を抜けると、目の前には大きな本堂が鎮座しているのだが、本堂を包み込むように樹齢数百年はあるであろう大きな木々がそびえ立ち、まるでここが外界と隔離された神域のような雰囲気すら感じる。
ここにいるとなにかに守護されているような安心感があるが、それと同時に自分がとても小さな存在に思えて、少しだけ寂しいような物悲しいような気持ちにもなる。
「それにしてもこんなに大きいのに誰もいないんだな」
そう言いながらリクが境内に足を進める。
風見市の北エリアは落ち着いた雰囲気であるが、人が住んでいないわけではない。
森の中に建立されているとはいえ、その周囲は宅地開発により住宅が立ち並び、近所にはスーパーなどもある。
駅からバスと徒歩で4、50分かかるというアクセス面の悪さは確かに人の出入りを左右するところではあるだろうが、参拝客がいない理由はそれではない。
「こんなに大きな神社なのに社務所とかがないのね」
鳥居をくぐり、中ほどまで進んだミオは周囲を見渡す。
ミオの言葉どおり、この風守神社には鳥居と本堂しかなく、その本堂も扉が固く閉ざされている。社務所どころかトイレなどもなく、理由は定かではないが参拝客を受け入れることを想定されていないようである。
それでもこの荘厳な雰囲気には一見の価値があり、実は風見市の隠れた名所である。
3人とも境内をうろつきながら思い思いの感想を口にする彼らに対して、ハルは鳥居から動かずに昨晩のユウとのやり取りを思い出していた。
――どうしてメッセージが残ってないんだろう。
ユウとのやり取りは、消滅に対する概念を大きく揺さぶるものであり、その内容はハルの中に強く刻み込まれている。言葉自体は抽象的なことばかりであったが、一つ一つの情報に重みがあり、それを知ってしまった今、昨日とは違う焦燥感を感じてしまう。
いや、焦燥感ではない。
これはきっと――。
「ハル!またぼーっとして!今度は何考えてたの?」
気づけば、目の前にはあからさまに不機嫌な顔をしたナナがいた。
「もう、さっきから呼んでるのに、ずっと遠くを見てるんだもん。今度はどうしたの?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してただけだよ」
そういうハルをじっと見つめるナナ。
しばらくそのまま顔を見られ続け、そろそろ穴が開いてくるかなと思い始めた時に......。
「ん、まあいいかな」
きっと彼女独自の判定方法でもあるのだろう。
ハルの考え事が重大なことではないと判断したようだ。
「それで、今回の消滅はどうなってるの?」
「お、そうだな。ここに来たってことは、まあそういう意味なんだろうが、そろそろ共有できる情報を教えてくれよ」
「そうね。そろそろ考えもまとまった頃合いね」
いつの間にか戻ってきていたリクとミオもここに来た当初の目的を思い出す。
――考えてもキリがないな......。
ハルは思考を切り替えると、改めて今日の消滅について、その奇妙な点を思い出す。
=====
野々村シズカ 10代
10月20日14時42分
風見市風守神社内
その瞳には何も映っていない
=====
――その瞳には何も映っていない。
これは一体どういうことだろうか。
ミオの【予定表】にも似たようなことが載っているのだろう。その内容が共有できれば検証の余地があるのかもしれないが、消滅状態の内容は消滅時間が過ぎるまでは第三者には共有できないルールになっている。
「今回の状態は、ちょっと意味が分からないんだけど......」
ミオはそう言葉を濁しながら考えてみるが、突然答えが出るわけでもない。
「多分、リクかナナが楽しく話をすればいいんじゃないかしら」
確かに載っている内容をそのまま解釈すればその通りだろう。
「長いこと考えてたけど、そんなことでいいのかよ」
「多分それで大丈夫だと思うけど......今回は書いてあることをどう解釈すればいいか分からないのよ」
「僕もミオ先輩の意見に賛成。とりあえずそれで消滅からは救えるはずだよ」
「とりあえず?なんか2人とも珍しく自信なさそうだね」
ナナの指摘は的確である。
何も映っていない瞳――それはいつかのナナのように孤独を感じているということを表しているのかもしれない。
そうであれば、その心の隙間を埋めることができれば消滅は回避できる。
だが、なぜ野々村シズカが空虚な瞳を持つに至ったかは分からない。
それが分からないと、この方法が本当に正しいとは言い切れないのだが【予定表】から得られる情報がこれだけしかない以上、ハルたちが思いつけるのはこれくらいしかない。
「こんな時、カナメさんならどうするのかしら」
思わず口に出たミオの呟きにより、3人の脳裏にこの間のことがよぎる。
入念な準備と大胆な行動、そしてそれを支える組織的な協力体制。
彼らがその気になれば、対象の事前調査などを行うことも可能だろうし、あるいは今のハルたちのような場当たり的な方法ではなく、もっと多角的な視点で消滅への対応ができるかもしれない。
そんな彼らが昨日、ユウが言っていたことを知ったら消滅現象をどう考えるのだろうか?
消滅が災害の一種であることや消滅に対する正しい対処。
それらを考慮した消滅への判断――。
判断?
そこまで考えてハルは気づく。
カナメたちは、すべての消滅を回避しようとしているわけではなかった。
時には消滅すると分かっていながら、あえてそれを成立させようとする行動も取っていた。
なぜ彼らが回避ではなく、成立という選択をすることがあるのか。ハルにはその理由がどうしても分からなかった。
しかしユウの言葉を聞いた今、ハルは別の見方もできるのではないかと思い始めた。
カナメたちは、消滅をただ防ぐものとしてではなく、状況によって受け入れるべきものとして判断しているのではないのだろうか。
ろうそくの火は風が吹けば消える。
しかし風は時として火を強めることもある。
これを消滅にあてはめたらどうだろう?
消滅とは何かが消える現象だ。
それをユウは存在のバランスをとるための自然現象だと言っていた。
自然現象だからこそ、正しく対処しないとその被害は拡大するのだ、と。
それでは消滅現象に対する正しい対処とはなんなのだろう。
もし正しい対処が取れなかったとき、どのような被害が生じるのだろう。
またユウはこうも言っていた。
消滅に対処すること自体は間違っていない。
だから消滅現象に抗うこと自体は間違っていないはずだ。
しかしどう抗えばいいのか、時にはそれを受け入れるべきなのか。
消滅現象とユウの言葉。
もう少しでその歯車がかみ合いそうだが――。
その時、突然ナナの両手がハルの頬を左右からむにっと挟み込んだ。
「ハル、聞いてる?」
「あの、ナナさん?ちょっと痛いんだけど......」
「話も聞かずにまた自分の世界に入っていたからでしょ」
頬に伝わる圧力は今度こそ拒否を許さない。
ハルの反論は頬を押し付ける手を強めるナナに否定される。
気づけばリクたちも黙ってこちらを見ている。
またやってしまったようだった。
考えを切り替えようと努めたつもりだったが、ユウの言葉がどうしても消化しきれず、どうしても思考がそっちの方に引っ張られてしまう。
「で、何考えてたの?そろそろ白状しなさい」
言葉こそ柔らかいが、頬に伝わる圧力は今度こそ拒否を許さない。
「そうだぜ、今日は朝からなんだか上の空っつーか、空返事ばかりだったしな」
「ハルのことだから、また何か一人でしょい込んでるんじゃない?」
リクたちも口をそろえる。
ユウの言葉があまりにも突拍子もなく、そのスケールは自分たちが手を出せるものではない。そう思ってしまい、みんなに話すことに躊躇していた。
しかしここまで消滅という非現実に向き合ってきた。突拍子もない話など今さらなのかもしれない。
「実はね......」
ナナに挟まれた頬からその手をそっと外し、ハルは言うべきことを整理しようとしたその時――。
「なんだか楽しそうだな」
突然かけられた声に4人はいっせいに振り返る。
そこにはニヤニヤとした表情を浮かべたトシオ、そして律義に礼をしているカナメがいた。
***
時は少し遡る......
「で、今日は回避だっけ、成立だっけ?」
「成立だ、自分の任務くらい覚えておけ」
そう言いながら風守神社に向けてのんびりと足を進めるトシオとカナメ。
2人の足取りは何気なく見ていればただの散歩にしか見えない。
しかしトシオは常に周囲への警戒を怠らない。
それは長年の主観によるものであり、もし仮にこの瞬間に誰かに襲撃されたとしても、それを確認する前に回避や攻撃などを行うだろう。
一方、カナメにはそのような芸当はできないが、肩に掛けるバッグには有事の際の迎撃対策が施されており、トシオが第一波を防いでさえくれれば、単独でもそれなりの対処が可能だ。
消滅現象に対する対処という業務には、特に敵などがいるわけではないのだが、それでも有事に備えるのは組織としての最低限のことであり、それはいくら上層部に疎まれている第五班であってもそれなりの装備は貸与されていた。
「でもカナメちゃんよー、前にボスは風見市の案件は静観するって言ってたのに、自分の言葉を覆すだなんて珍しいこともあると思わねえか?」
「それには同意するが、そうしなくてはならないという重要性があるんだろう」
「ただ風見市だろー?まさかあいつらと鉢合わせなんかしたりしねえよな」
「それは多分大丈夫だろ。彼らの行動範囲は風見市でも南側エリアに集中している。この北エリアには来たことがないようだったからな」
のんびり会話をしながら歩いているのだが、その速度は通常の散歩と呼ぶにはいささか語弊がある。先ほどまでは目の前にいたのに、わずかに目を離すとその姿を見失ってしまう。それなのにその足取りはそれをまったく感じさせない。
カナメはそんなトシオについていくのに、当初はずいぶん苦労したが、第五班として一緒に活動しているうちに、いつしか慣れてしまい、今では同じように歩くことができていた。
あと2、3ブロックほどで目的地である風守神社だ。
カナメは今日の任務の最終確認をする。
「それよりも今日の対象は問題ありだからな。油断しているとお前でも......」
「だーれに言ってんだ、あ?」
カナメの言葉は威圧を放つトシオに遮られる。
その圧で一気に全身の毛穴が逆立ち、身体が震えそうになるのだが、それを必死に抑えて言葉を続ける。
「最後まで聞け。今回は消滅成立が任務だが、絶対条件ではない。もし消滅が回避されてしまった場合、しかるべき機関に収容する手はずになっている。だからもし不意の事態が発生した場合には、無理に消滅成立させなくてもいいんだ」
「あー、そうだったな。すまんすまん」
そういってトシオが圧を抑えると、カナメは全身の力が一気に抜けていくのを感じる。
だいぶ慣れてきたとはいえ、何かあると人を威圧してくるトシオに一言物申してやろうと口を開きかけた時、トシオがカナメに目配せをする。
「不意の事態ってやつ、発生したな」
目の前にある風守神社。
その境内に見たことがある高校生たちがいた。
***
「トシオさん!」
「カナメさんも」
「お久しぶりですね」
何でもないように姿を現したトシオとカナメに対して、突然の再開に喜ぶリクとミオ。しかしナナとハルは違った。
世界から切り離されたようなこの地で発生する消滅に対処するためにやってきたのに、そこに消滅と関係が深いと思われる者がやってきたのだ。これが偶然と呼んで片づけられるのであれば、偶然という概念は更新されなければならないだろう。
「えっと2人がここに来ているってことは、偶然じゃないですよね?」
「ミオ先輩もリクも2人から離れて!トシオさんたちは――」
「なんだよ、そんなに警戒するなって」
ミオたちに警戒を呼び掛けようと、トシオたちから一瞬だけ視線を外した。
それは僅か一秒にも満たない間だった。
しかしその瞬間、トシオはハルのすぐ目の前にいた。
トシオは鳥居をくぐった場所にいて、境内にいるハルとは少なくとも10メートル以上は離れていたはずだ。
誰も動いた瞬間を見ていない。
ほんの一瞬、視線を外しただけだった。
それなのに今、トシオは僅か数十センチの距離に立っている。
警告をされたはずのミオやリク、横にいるナナも呆気にとられている。
トシオは肩をポンと叩くと、そのままカナメの元にのんびりと戻っていく。
なんでもない仕草なのに、それだけでその場の空気が張り詰めていく。
「トシオ、ふざけすぎだ。彼らが怯えてるじゃないか」
「おお、悪い悪い。でもまあ、こっちの方が素なんだ。勘弁してくれ」
改めて2人が並び立つと、トシオとカナメは素の口調に戻る。
「トシオさん、でいいんだよな?」
「おお、リク。元気そうで何よりだな。この前はだましてて悪かったけど、別に名前まで偽っちゃいねーぜ。偽名とか考えるのは面倒だからな」
「ってことは、カナメさんもカナメさん?」
「ああ、そうだ。丁寧なしゃべり方は疲れるから、こっちの方が気楽だ」
特に2人から強く影響を受けていたリクとミオは、現状をどう受け止めていいのか分からないのか、トシオたちととりとめもない雑談を始める。
しばらくそれを見ていたハルだったが、時間を確認すると彼らの話に割って入る。
「トシオさん、カナメさん。あなたたちも消滅に対処しに来たんですよね?」
「ん?ああ、そうだ。それが俺たちの任務だからな」
「トシオ!」
「別にいーだろ。俺たちがそういうことしてるってのくらいはさすがにわかってんだろ?」
トシオの発言をいさめるカナメだが、その発言のなにが良くなかったのかハルには分からない。ただその発言には驚きを隠せない。
「カナメさんたちって関与者じゃないんですよね。それじゃどうやって消滅に対処するの?」
ナナも同様のことを思ったのだろう。ハルの疑問をそっくりそのまま代弁してくれた。
「詳しくは言えねーけど、ま、上からの指令ってとこかな」
カナメは自分たちのことをあっさりと話してしまわれたことにため息をつきながらトシオをにらむと、トシオは「おー、こわっ!」などと言いながら肩をすくめる。
「あんまり色々と聞いてくれるなよ。この馬鹿はあまり考えなしに色々喋ってしまうが、私たちにも立場ってものがあって言えないことも多々あるんだ」
「そうなの?」
「ああ。でも一応君たちには感謝しているんだ。先日の消滅の一件。あれはどうしても防ぎたかった案件だったが、事情があって情報を入手できなかったからな。君たちと接触できなかったら回避できなかった」
「なんだよ、素直にありがとって言えよ、カナメちゃん。俺は素直に感謝してるぜ。でないと路頭に迷うところだったからな」
この2人は以前に会った時や先ほどの行動から、ただ消滅にかかわっているだけの人間でないということくらいハルたちにも十分理解できていた。それでもこうして軽口を交わす姿を見ているとどうしても警戒心が薄れてしまう。
国や組織が絡んで秘密裏に行動しているというだけで、あまりいい印象を持てないでいたが、もしかしたらその認識は改める必要があるのかもしれない。
ふと、木々が大きく揺れ、風にあおられた数枚の葉がひらひらとハルたちの周囲に舞い降りる。
それをきっかけにここに来た目的を思い出したミオがカナメに尋ねる。
「それで、今日はカナメさんたちも消滅の回避に来たんですよね?」
期待を込めた言葉を投げかけるが、返されたボールは想像したものとは真逆のものだった。
「いや、我々は消滅を見届けに来た」
「消滅を......」
「見届けに......?」
カナメの言葉、その意味を飲み込むのに数秒を要してしまう。
「ま、上からの命令ってやつでな」
どこまでも軽い口調のトシオだが、その言葉が嘘でないことを示すように、視線だけが圧を放つようにきつくハルたちを見据えている。
「あなたたちはきっと消滅を回避しに来たんだろうが、ここは引いてもらえると助かるがどうかな?」
カナメの言葉にすかさず反応したのはナナだった。
「なんで?どうして誰かが消えるのを黙って見てなきゃいけないの?消えるって分かってて、それを救う手段があるんなら救うべきなんじゃないの?」
そう言いながらカナメたちに相対するナナの身体は明らかにすくんでいるが、それでも自らがこれまで消滅を通して経験したことが否定されるのは納得がいかないと精一杯虚勢を張っている。
ナナのふり絞るような声に我を取り戻したハルたちはナナの横に並び立つ。
「カナメさんのことはこの前の手際の良さから尊敬はしているけども、消滅を成立させるなんて聞いたら黙っているわけにはいかないですよ」
「ああ、トシオさんだって同じ立場なら「はい分かりました」なんて素直には聞かないだろ。俺たちだって同じだよ」
そう言って自分たちに立ち向かう高校生たちに、トシオとカナメは一瞬だけ笑顔を浮かべる。
「リクと......日下部だったっけ?お前らの言いたいことは十分分かるよ。ただな、俺たちも仕事なんでな......」
そこまで言って一度言葉を区切り、下を向く。
それから改めて顔をこちらに向けた時、ミオとリクは思わず膝から崩れ落ちそうになる。
「ガキどもは引っ込んでろ」
その瞬間、木々で羽を休めていたであろう鳥たちが一斉に飛び立つ。その影響でそれまで神域のようであったこの場所が、突如現実世界に放り込まれる。
トシオの言葉に怒気はなく、口調だけ聞いていると先ほどと全く変わりがないようである。しかしその言葉を向けられたミオとリクは、まるで極寒の世界に放り込まれたように固まり、何も発せなくなっていた。
いつもと同じように圧を発するトシオをカナメがたしなめる。
「おい、高校生相手にやりすぎだ」
「おっと、悪い悪い」
そう言った瞬間、空気が清浄さを取り戻し、再び神域のような雰囲気に包まれる。
と同時に、リクたちも何かの呪縛から解放されて膝から崩れ落ちる。そのまま地に手をつき、少しでも酸素を身体に取り込もうと浅い呼吸を繰り返す。
リクたちが膝をつく一方で、横に立つハルとナナには何も変化はない。
それがかえって恐ろしく、さきほど気丈にカナメに反論したナナも、それ以上口を開くことが出来なかった。
「っつーことで、お前らもヒトが消えるところは見たくねーだろ。今回は諦めて帰んな」
トシオはせめてもの詫びのつもりだろうか、いまだ立ち上がれないリクに手を貸して立ち上がらせると、その肩を神社の出口の方に軽く押しやる。
ミオもナナの手を借りて立ち上がると、カナメを暫く見つめていたが、そのまま踵を返してリクのあとを追おうとする。
ところが――
「なんで」
突然上がる言葉の主にその場にいる全員の注目が集まる。
「なんで消滅を成立させるんですか?消滅状態の●●●っていうのと何か関係があるんですか?」
声の主はハルだった。
ハルはみんなに認識されないことを承知したうえで、敢えて消滅状態のことを語る。
それが二つの意味で疑問だったからだ。
一つは今回の消滅対象である野々村シズカの状態。
もう一つはカナメたちが回避でなく成立を目標としていること。
消滅の成立、それはすなわち消滅を認めるということ。
つまり消滅の意思を尊重するということだ。
ユウは言っていた。
――正しい対処をしなくては規模が拡大する。
正しい対処。
ハルはこれがずっと引っ掛かっていたのだが、カナメたちが現れ、消滅成立を目的とすると聞いて、もしかしたら消滅には回避させるべきではないものがあるのではないか、と思ったのだ。
しかしその基準が分からない。
だからカナメたちにその疑問をぶつけたのだ。
「真壁、だっけか?お前さんはなかなか物事を俯瞰してみてるようだな。でも......」
「やめろ」
ハルの前に立ち、再び圧を放とうとしたトシオであったが、カナメは2人の間に身体を滑り込ませ、文字通り身体を張ってトシオの行動を止める。
そのままハルを背中で守りながら、カナメとトシオは暫くにらみ合いを続ける。延々と続くと思われたにらみ合いで先に折れたのはトシオである。
終わってみればわずか数秒のことだった。
「真壁君。トシオ相手に折れないとはなかなかの胆力だな」
恐らく誉め言葉なのだろうが、ハルはどう返事をしてよいのか分からない。
「褒美に差し支えない程度で、今回の件について教えてやろう。君たちもこっちに来るといい」
カナメはそう言うと、少し離れた場所で様子を見ていたミオたちに声をかけた。
「おいおい、本当にいいのか? あとでちゃんとボスに報告しておけよ」
トシオがからかうように言うと、カナメは一瞬言葉を詰まらせる。
「......分かった」
そう答えたものの、ミオたち3人はすぐには動けなかった。
つい先ほどまで、ハルがトシオに圧倒されている姿を見ていたからだ。
しかし、最初に動いたのはナナだった。
「ハル!」
名前を呼ぶと同時に駆け寄り、そのままハルの元へ飛び込む。
「大丈夫?何かされてない?」
目に涙を浮かべながら心配するナナに、トシオが呆れた声を上げる。
「おいおい、なんもしてねーだろーが」
「いや、トシオさんのあれは普通に怖いって」
ようやく動き出したリクが苦笑しながら言う。
「ほんとですよ......ちょっと勘弁してほしいです」
ミオも疲れたように続ける。
そんな3人の様子を見て、カナメは目を丸くした。
「君たちは......さっきまであんな目に遭っていたのに、こいつを怖がらないのか?」
すると、すでにトシオと普通に話し始めていたリクが振り返る。
「いや、まあ......さっきのはマジでビビりましたけど。でも、それ以上何かされたわけじゃないですよね?」
「......」
「それなら別に問題ないっすよ」
そう言って笑うリクを見て、カナメは何か言おうとした。
しかし、結局その言葉を飲み込み、小さく息を吐く。
「カナメさん......私が言うのもなんですけど、リクってああいうやつなんで......」
ミオの言葉に、カナメは複雑そうな表情を浮かべた。
「まったく君たちは......いや、これが若さというものなのかもしれないな」
そう呟くと、まだナナに心配され続けているハルへ視線を向ける。
「時間がない。先ほど言った通り本題に入るぞ」
そう前置きをすると、カナメは境内の奥に視線をやる。
「まず......今日ここで消える予定の野々村シズカだが、彼女は精神が崩壊している」
「えっ?」
突然出た消滅状態の答えともいえる内容。
確かに本題ではあるが、驚いたのはその内容だ。
「それは......どうやって?」
「それは秘密だが、君たちに伝えたいのはそれではない」
カナメたちがこの場に現れる前、ミオが思い出したようにカナメのことを呟いていた。その時に、カナメたちであれば消滅対象のことなど調べるのはたやすいのではないかと想像していたが、まさか本当に調べ上げているとは......
「彼女は精神疾患を元にいくつかの犯罪を犯してはいるが、すべて無罪放免になっている。本来であれば然るべき施設に入るべきだが、両親がそれなりの資産家でな。それを拒否しているというわけだ。犯してきた犯罪のいくつかは両親の影がちらついているとの調査結果もある」
ハルたちは言葉が出なかった。
カナメたちの調査どおりであるとすれば、今日消える予定の野々村シズカは、平たく言ってしまえば犯罪者だ。しかも何度もそれを繰り返しているという。
【予定表】が何を基準にして消滅するものを選んでいるのかはわからない。
ハルたちは存在を理不尽に消滅させる消滅という現象は否定されるべきだと思っている。たとえ消滅を司る存在がいたとしても、その存在が【予定表】を託して消滅を防ぐチャンスをくれている以上、その考えに間違いはないと確信していた。
しかしその対象が犯罪者だったとしたら――。
もちろん犯罪者は許すべきではない。
しかし犯罪者だからと言って消滅してよいかと問われると、それに素直に頷くことはできない。もしそれを認めてしまったら消滅自体を認めてしまうこととなるからだ。
「でも、だからって消滅していいってことには......」
「ならどうする?」
ハルの言葉は言い終わる前に、それまで黙っていたトシオからの質問に塗りつぶされる。
「どうするって......」
「いいか、日本の法律ってのはそれなりに機能しているが、抜け穴もそれなりにあってな。いるだけで国益を損なうってやつもそれなりにいるんだよ」
「国益?」
「ま、平たく言うと金がかかるってことだ」
「お金......お金のために消滅を認めるってことですか?」
「分かりやすく言っちまえばな」
「お前は説明を省略しすぎだ」
カナメが呆れたようにトシオを見る。
「こいつの言っていること自体は間違っていない。ただ、そこに至るまでの事情を飛ばしすぎている」
ハルたちは黙ったままカナメを見る。
消滅させるべき存在がある。
その事実を、頭では理解していた。
しかし、それを判断する基準を自分たちは持っていない。
トシオの言葉はあまりにも簡単だったが、その裏側には自分たちが知らない多くの事情があるように思えた。
カナメが腕にはめた時計に目をやる。
そろそろ消滅予定時刻が近いのかもしれない。
「彼女自身が何を考えているのかは分からない。ただ、何度も逮捕されている以上、同じことを繰り返す可能性は高い」
カナメは一度言葉を止める。
「もちろん、彼女には彼女なりの事情がある。逮捕のたびに無罪になっていることを考えれば、精神疾患も嘘ではないのだろう」
「だったら......」
「だが、それは犯罪を許す理由にはならない」
ハルが口を開くより先に、カナメが続ける。
「だから消滅させるんですか?」
「......最後まで聞け」
先ほどと同じ問いを投げかけたハルを、今度はカナメが制した。
「もし彼女の消滅が成立しなかった場合、その先に何が起きると思う?」
「それは......」
「また犯罪を繰り返すってこと?」
ナナが代わりに答える。
「その可能性はある」
カナメは否定しなかった。
「確かに片瀬さんの言う通り、彼女は犯罪を繰り返すだろうが、影響はそれだけではない。彼女の逮捕に割かれる警察のリソース。裁判に割かれる検事や裁判日程のリソース。それらは有限であり、彼女のように反省や更生の見込みがないものに割くほど日本の警察や司法に余裕はないんだ」
「でも、それってそっちの都合ですよね?お金がかかるから、人手が足りないからって、それを理由に消滅を認めるなら、いざというときに国民を守らない、守れないって言ってるのと同じじゃないですか?」
ミオが鋭い視線を向ける。
「それを言われると耳が痛いな」
カナメは苦笑する。
「だが、もし彼女をこのまま放置して防げる犯罪を防げないようであれば、それこそ守るべきものを守らなかったことになる」
「臭いものには蓋ってことっすか?」
リクが口を挟む。
「いや」
カナメは少し考える。
「疑わしきを罰する、ではないな。それではただの排除になる。これは......そうだな」
少し間を置く。
「清濁併せ呑む、という方が近いかもしれないな」
そう言って少し微笑んだカナメの表情は少し寂しげであった。
「君たちのようにすべてを救うことができれば、それが一番いいに決まっている。だが現実には、すべてを救うために何かを失うこともある」
その言葉に4人は黙り込む。
説明の意味は理解できた。
しかしそれを理解することと、受け入れることは別だった。
なにも言葉を返せなくなったハルたちにトシオが「それとな」と口を開く。
「さっきからカナメちゃんが言ってるように、今回の対象は精神崩壊者だ。精神疾患じゃねえ、崩壊なんだよ。この意味わかるか?ヤツの世界ではここはどこかのバトルフィールドか何かだ。自分が認めたもの以外はモブか敵なんだよ。そんな中で消滅回避させようと接触なんかしてみろ。たちまち敵認定で何されるかわかんねーぞ」
「そんなことって......」
「あり得ないって思うか?まあ普通はそうだろうが、世の中は平和な世界だけじゃねえ。物騒なところはいくらでもある。ヤツはたまたま自らの世界でそれをつくっちまったってだけだ」
なぜだろうか、トシオのいう言葉にはそれを知るものの重みがあった。
口調は軽く、まるで昨日見たテレビの話題のように遠い世界の話をするトシオが一瞬違う世界の人間に見えた。
「そういうぶっ壊れちまったやつってのは常識じゃ考えられない力があるからな。知ってっか?人間ってのは普段は身体を壊さないように無意識で力をセーブしてるんだよ。でもあいつらはその制限がぶっ壊れてる。多少身体が壊れようがお構いなしだからな。そーゆーあぶねえやつの前にお前らみたいなのを出すわけにはいかねーんだよ」
「トシオさん、まさか俺たちのことを心配して......」
「馬鹿か、俺たちに余計な仕事を増やすなっつーことだ」
言葉では否定しているし、確かにそのとおりではあるのだろうが、それでも少なからず自分たちの身を案じてくれているのであろう。リクがトシオに改めて尊敬のまなざしを送る。
「そろそろ時間だ」
カナメの言葉で時間を確認する。
その言葉にハルも時間を確認する。
14時32分。
消滅予定時間が14時42分。
ここに野々村シズカが現れる時間を考えると、もうさほど猶予はないだろう。
「......分かりました。今回は僕たちが引きます」
「理解してもらえて助かる」
そう言ってこの場を立ち去ろうとするハルたちにカナメが声をかける。
「最後に二つ言っておいてやろう」
カナメの方を振り返る。
「一つ目は、彼女の消滅成立は必ずしも成功しなくていいんだ。万が一消滅が回避された場合には、彼女を然るべき場所に保護する予定になっているからな」
「それって......」
「あまり深く考えるな」
カナメはハルたちに安心を与えるために、敢えて自分たちの行動を伝えているのだろう。しかしそれはあまり伝えていいことではないはず。その証拠に、横に立つトシオが「知らねーぞ」とニヤニヤしながらからかっているからだ。
「そして二つ目。私たちがなぜ消滅を回避することもあれば成立させることもあるのか。その意味をよく考えてみろ」
それだけ言うとハルたちに背中を向け、どこかに連絡をし始めた。
横にいるトシオはまるで虫を追い払うように「はやくいけ」と手を振っている。
ハルたちはいまだこっちを向いているトシオに軽く礼をすると、そのまま背を向け、風守神社をあとにする。
無言で歩く4人の顔には迷いや苦悩が浮かび、重苦しい沈黙だけが流れていた。
途中、薄笑いを浮かべながらふらふらと歩く一人の女性とすれ違ったが、誰もその女性について触れようとはしなかった。