第5話 決意
6月21日 16時20分 | 風見市栄通り
消滅の対象はモノや動物だけではない。
予定表に新たに刻まれた内容がそれを示している。
うすうす勘付いていたことではあるが、現実に人の名前が載っているのを見ると、それを見ているだけで空恐ろしい気分になる。
先ほどまで想像していただけのことが現実になろうとしている。
いつの間にか【予定表】という非現実の扉を開けてしまったが、それは通学前の朝のニュースと同じで、画面の向こうにある自分とは関係ない世界を眺めているようなものだと思っていた。
電源を切れば現実に戻れるように、この現実に一瞬混じった非現実も、そこから離れれば、やがて自分とは関係ない出来事になる。そうすれば、あとはこれまで通りの日常を続けられるはず。
そう思っていた。
【予定表】に刻まれた近藤ハナという人をハルは知らない。
でもハルは知ってしまった。
この人があと2時間ほどでこの世界から存在が消滅してしまうことを。
ナナの心配そうな声も耳に入らず、ハルの心はただひたすら自問自答を続けている。
――僕はどうすればいい?
――困っている人がいたら手を差し伸べる。言うのは簡単だが、それを実行に移せる人間がどれだけいるのか?
「......ル?」
――でも、人間が消えてしまうんだよ?
――世界では貧困に苦しんだり、紛争などで亡くなる人はこの瞬間にもいるはずだ。それにいちいち心を痛めていたのか?
「......ル? 聞いてる?」
――でも......僕は知ってしまったんだ。
――知っているからなんだ。ヒーローにでもなったつもりなのか?
ハルの自問自答に、もう一人の自分が冷ややかな声で問いかけてくる。
視線の先では午後特有の眠たげな陽光が住宅街の路地を照らし、建物の影がくっきりとアスファルトに落ちている。
どこかの家から漏れてくる生活音や遠くを走り去る車の走行音が、まるで厚い膜を通したように濁って聞こえる。
自分だけがこの穏やかな日常のレイヤーから剥がれ落ちてしまったような、何とも言えない奇妙な孤独感。
繰り返される自問自答。
それはいつまでも続くかと思われたが、突然の大声に強制的に中断される。
「ハル!!」
気付くと目の前にナナの顔がある。
このあたりはあまり人通りが多くないとはいえ、まばらだが通行人もいるし、道路にはときおり車が通り過ぎていく。そんな中で大きな声を張り上げれば否が応でも注目されてしまうが、そんな周囲の視線も気にせず、ナナは今までに見たことないほど悲痛な面持ちでハルの名を叫んでいた。
「......ナナ?」
「ハル、大丈夫?突然黙りこんだと思ったら急に真っ青な顔して考え込むんだもん」
「え、あぁ。ごめん。ちょっと考え事を......」
「なに?言って!言いなさい!」
ハルが取り繕った言い訳を言い終える前に、ナナは逃げ場を塞ぐように問い詰める。
彼女はときおり、こうした驚くほどの剣幕を見せることがある。
ナナは笑ったり、茶化したり、時にはすねたりすることもあるが、基本的には言葉のキャッチボールを心から楽しむような会話を好む少女だ。
しかし――。
ハルが本当に困っていて、それでも心配かけまいとごまかそうとする時に限って、彼女は何故かそれを正確に察知するのだ。
「いや、なんでもないって」
「ウソ! また私に心配かけないように何か隠そうとしているでしょ?」
ナナの心配してくれる気持ちは痛いほど嬉しい。
しかし、これは共有するには重すぎる。
【予定表】が見えてしまっている自分ならともかく、そうでないナナにまでこの呪いのような現実を背負わせるわけにはいかないのだ。
ハルは逃げるように歩き出した。
だが、その背中に震える声が鋭く叩きつけられる。
「その【予定表】で何か重大なものが消えるって出てたんでしょ?」
「えっ? なんでそれを......」
思わずふりむき口を開きかけたところでナナと目が合う。
慌てて言いかけた言葉を飲み込むが、それは既に遅かった。
ナナはにんまりと迫力のある笑顔を見せると、ハルに近づきその腕を取る。やや汗ばむ6月の陽気の中で、ハルは違う汗が流れるのを感じる。
「さあ、教えて! 何が載ってたの?」
「いや......言わない」
ハルは掴まれた腕を強引に振り払い、逃げるように歩き出した。
背後を振り返る勇気はなかった。
自分の足音だけが、やけに大きく耳の奥で響いている。
じっとりと汗ばんだ手のひらをズボンのポケットに突っ込み、意味もなく拳を握りしめた。
「ねぇ、ハル?」
背後から届くナナの声は、決して大きくはない。
すぐ後ろで一定の距離を保ったまま、ナナが静かについてくる気配だけが、痛いほど伝わってきた。
ナナは無理に追い越そうとはせず、けれどハルの歩調が緩むのを見逃さないよう、すぐ斜め後ろから影を重ねるように歩き続ける。逃げ場を塞ぐような彼女の無言の圧力が、ハルの背中に重くのしかかっていた。
ハルは敢えて彼女と目を合わせず、前だけを見据えて歩みを続ける。
「この前約束してくれたよね?何か調べて分かったら教えてくれるって」
足を止めないままナナの言葉に耳を傾ける。
ナナはハルが聞いてくれていると確信しているのだろうか、そのまま喋り続ける。
「木だけじゃなくて他にも消えるものがあるんでしょ?それが何かは分からないけども、それに対して一人で責任を感じてるんでしょ?何とかしたいって考えてるんでしょ?」
ナナの言葉が痛いほど胸に刺さり、少しだけ歩く速度が緩む。
ハルの中で心の奥底で渦巻いていた不安や迷いがわずかに揺れ動く。
小さな一歩、静かな決意がまだ形にならないまま芽生え始めていた。
「それなら一緒に考えようよ。一人で悩んでちゃ......だめだよ」
ナナは言葉を優しく、でも力強く重ねる。
ハルはその声にこれまで感じたことのない穏やかさとわずかな緊張を同時に覚えるが、それでも無言のまま歩き続けた。
***
無言で歩き続けた2人は、気付けば風見中央公園に来ていた。
そのまま公園に入り、昨日も訪れた木の跡地へ向かう。
そこにたどり着くと、西日に照らされたハルたちの長い影が主を失った木の跡地へと伸びている。
周囲の木々が夏の始まりを告げるように青々と茂る中で、そこだけがぽっかりと地面を晒し、奪われた命の空白を際立たせていた。
2人は吸い寄せられるように跡地のすぐそばにあるベンチに向かい、無言のまま並んで腰を下ろす。
ハルは膝の上で固く組んだ自分の指先が、微かに震えていることに気づいた。
そこでようやく張り詰めていた糸を緩めるように、ハルは口を開く。
「消滅するのはモノだけじゃないんだ」
「もしかして......」
「そう、人間もその対象なんだ」
木の跡に視線をやりながら言葉を絞り出す。先ほどまでの重苦しい迷いが、ハルの胸で少しずつほどけ、静かな覚悟に変わろうとしていた。
「それで......さっき【予定表】を見た時に出てたんだ。もうすぐ近藤ハナって言うお婆さんが消滅するって」
「......!」
「僕は......それを知った。でもどうすれば、いや、どうしたらいいのか分からないんだ」
ハルは頭を抱えながら言葉を絞り出す。
その様子にナナはハルの苦悩を理解した。
ハルもナナも何の変哲もないただの高校生だ。
人の生き死にどころか、殴り合いの喧嘩ですら縁遠い平和な世の中で、自分だけがとある人間がいなくなることを知っている。
それがどれだけ心に負担を強いるのか、ナナは想像することすらできない。
通常であればそんなことはないと一笑に付することもできたであろう。
しかしハルはここにあった木が消滅するのを目の前で見たと言っていた。確かにその跡らしきものも残っている。
そしてそれを見ることが出来る【予定表】なるものの存在も話していた。
ナナは理解する。
だからこそ、ハルの本当の気持ちを確かめるように問いかけた。
「ハルは......助けたいんじゃない?」
「そう、かもしれない。でも......」
「そう思うなら、そうすべきだよ」
「でも......出来るか分からない......」
「ハルが何もしなければ、その人は消えちゃうんでしょ?」
「うん......」
――知ってしまった。ただそれだけなのに、自分と関係ない誰かを見捨てられない。
ハルの心に圧し掛かる思いは計り知れない。
その深い懊悩が、隣に座るナナにも痛みとなって伝わっていく 。
だからこそナナはしばらく考え――そして敢えて、ハルのことだけを考えるための言葉を選んだ。
「ハルがすごく悩んでいるのは分かる。そんなハルにこんなこと言うのはすごく申し訳ないけど......」
一呼吸置き、ナナは続ける。
「どうせ消えちゃうなら、放っておけばいいんじゃない?」
「な......」
思わずナナの方を振り返る。
「だってそうでしょ?消えることはハルしか知らない。放っておいて消えちゃうのはハルのせいじゃない。消えて元々なら、ハルには何の関係もないと思うよ」
「ナナ......本気で言ってるのか?」
ナナの発言にハルの心はどくんと跳ねる。それでもナナは言葉を止めない。
「もちろん本気だよ。だってハルが消えるわけじゃないし」
「そんな......!」
ナナらしからぬ無慈悲な発言。
そんな言葉を紡ぎ出す幼馴染に責めるような視線を向けようとしてその表情を見た瞬間、言葉は喉の奥に引っかかる。
ナナは言葉の冷たさとは裏腹に、身体が小さく震え、表情は少し苦しそうなのに、それでも弱々しく笑っている。精一杯強がっているように見えるその表情に、ハルは胸を打たれる。
「でもさ......」
ナナはハルと目線を合わせず、さっきまでのハルと同様、木の跡地に視線をやりながら言葉を続ける。
「ハルはさ、きっと助けたいんだよね?」
「......」
「それならさ、やってみるべきだよ。ハルが何かしたらそのお婆ちゃんは消えないかもしれないんでしょ?で、ハルは助けたいって思ってるんだよね?ならやってみればいいんじゃん」
ナナの視線は変わらず、表情も声もそのままであった。
「どうせ消えちゃうんだったら、失敗しても同じでしょ?【予定表】って他の人には見えないし、消えちゃうってことも誰にも分からないんでしょ?それなら別に失敗してもいいじゃん。誰もハルのことを責めないし、責める理由もないよ。それでもし上手く助けられたら......その方がいいでしょ?」
「......!」
ナナの言葉にハルははっとする。
自分に助けられるだろうか?
もし失敗してしまったらどうするのか?
ハルはそればかりを考えていた。
けれどナナの言う通りだ。
何もしなければ、予定の時間にそのお婆ちゃんは消えてしまう。
その現象自体はハルのせいではないし、誰にもどうすることもできない不可抗力みたいなものだ。
救えなくて元々。
だが、もしハルが何かをすることで救える可能性があるのなら、やってみない理由なんてどこにもない。
ハルは深く考えすぎていたのだ。
人の命が懸かっていると自覚した瞬間、使命感は責任という重い鎖になり、ハルの心をがんじがらめに縛りつけていた。
でも、そうじゃない。
知ってしまったから放っておけない。
それは決して高尚な正義感などではないけれど、知っているのに何もしないよりはずっと良いはずだ。
「ナナ......」
「なに?」
改めてナナを見ると、ナナはまだ怯えた表情を崩していなかった。
ハルの悩みを知った上で敢えて味方でいることを選んだナナ。
その答えは、ハルに他人を見捨ててでも自分だけを守れということだった。
ハルがそれを望まないこともナナは理解している。それでもあのような発言をしたのは、ハルを苦しみから解き放つため。
だからナナは敢えて消えてしまう他人などどうでもよい、でも自分が納得するように行動すればいいと言ってくれたのだ。
そこまで言われないと自分の心に向き合えなかった愚かさに情けなさすら感じる。
ナナは最初から手を差し伸べ、悩みを共有しようとしていたのに、その手を取らなかったのは、他ならぬハル自身だった。
ハルは自分の愚かさをかみしめ、ナナに向き直り声をかける。
「ナナ......ありがとう」
「えっ?」
突然の礼に、ナナは一瞬強がる表情を崩した。
「確かに放っておけば消えてしまうのなら、何かをしてもしなくても同じかもしれない。それなら僕はやってみるよ。もしそれで結果が変わらなくても仕方ない。だけど、もし僕が行動することで何かが変わるなら、その方がいいからね」
ハルの言葉に、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、今まで必死に維持していたナナの強がりの仮面が、一気に崩れ落ちていく。
ハルの視界を覆っていた霧を晴らしてくれたのは、他でもないナナだ。
ハルは一度言葉を区切り、改めてナナに向き直る。
「だから、そのことに気付かせてくれて、ありがとう」
「......うん!」
ナナは力強く頷く。
先ほどまで怯えていた表情は、まるで嘘のように晴れ渡っていた。