第1話 はじめての消滅
6月16日 朝
何だか怖い夢を見ていた。
全てが音もなく消えていく――建物も、人も、空の色さえも。
残されたのは自分だけ。
ただ一人、色の抜けた世界に取り残される――そんな夢。
冷たい沈黙だけが支配するその世界では叫ぼうとしても声にならず、ただ視界から輪郭が削り取られていく恐怖だけがあった。
目が覚めたとき、胸の奥にうっすらとした不安が残っていた。
夢の余韻はまだ体の奥底に張り付いている。
吸い込んだ朝の空気が夢の名残で少しだけ重く感じられた。
目覚まし時計が起床の時間を告げる少し前に意識が浮上したが、手足が重く、思うように動かない。
息を吸うたびに夢の残像が皮膚の裏に絡みつくような、微かな違和感があった。
やがてアラームの甲高い音が鳴り響く。
耳に刺さる電子音が、夢の世界を押し流すように、現実を取り戻させた。
人間は眠っているあいだにいくつもの夢を見るという。
けれど、朝の光に触れた瞬間、それらは砂のようにこぼれ落ちていく。
たぶん、この怖い夢もそのうち忘れてしまうのだろう。
軽く伸びをして真壁ハルはベッドから体を起こした。
窓の外では淡い朝日が街を染めている。
カーテンの隙間から差し込む光は机の上に落ち、散らかった教科書やノートの山を柔らかく照らした。
机の端には読みかけの参考書と昨日飲みかけたペットボトル。
どれも昨日と同じ場所にあるという連続性だけが正体不明の不安をかろうじて抑え込んでいた。
あたりまえの風景。
その安定感にようやく心が落ち着く。
変わらない日常が今は心の支えにすら感じられた。
***
「おはよう」
「おはよう。もうご飯できてるから顔を洗ってらっしゃい」
両親に促され顔を洗い食卓につく。
朝の時間はさほどゆったりしているわけではないが、家族が揃うこのひとときはかけがえのない団らんの時間だ。
ハルはこの時間が嫌いではない。
けれど、高校二年生という多感な時期であるが故、それを表情や言葉に出すほど素直にはなれない。
「いただきます」
朝食を抜くクラスメートが多い中で、ハルは朝はしっかり食べないと落ち着かない。
今日も母親が作ってくれた朝ごはんを前にして、心の中で『大体いつもメニューが同じなんだよな』と思うが、どこかでそれを望んで安心している。
もし毎日違うメニューが並ぶような食卓ならそれも悪くはないかもしれない。
だが、自分はきっと望まないだろう。
パンにつけるジャムやみそ汁の具材、そんなささやかな変化で十分なのだ。
今朝見た変な夢の影響であろうか、いつも通りであることのありがたさを再認識しながら箸を進める。
朝食を終えるとゆっくりする暇もなくもう出かける時間だ。
制服に袖を通し鞄を肩にかける。
鏡に映る自分の顔は、まだ少し眠たげだ。
「行ってきます」
すでに両親は仕事に出かけ、誰もいない家の中で小さくつぶやいた。
ハルは静かに玄関のドアを開け、外の世界へ足を踏み出した。
今日もいつも通りの一日が始まる――はずだった。
***
ハルの通学路は住宅街から大通りを抜ける定番のルート。
歩道の端には季節ごとに植え替えられる花壇があり、今日は紫陽花が淡い紫の花を咲かせている。
これといって耳を引く大きな物音があるわけではないが、道を行き交う車やバイクのエンジン音、人々の足音などが混ざり合い、朝独特の喧騒へと変化する。
こうした朝という時間のざわつきがどこかせかせかとした気分を煽る。
スマホで時間を確認するがまだ余裕がある。
それでも周囲の流れが早く感じ、ハルもそれにつられて自然と歩幅が大きくなる。
「みんな、そんなに急ぐ理由があるのかな」
自問しながらも自分も同じように急いでいる。
おかしいと思いながらハルは足を止めずに歩みを進める。
街全体が朝という名のベルトコンベアーに乗せられているようだ。
足音も会話も、香るパンの匂いも、すべてが混ざり合い、目まぐるしく流れていく。
個人の意志とは関係なく世界は一定の速度で今日という場所へ強制的に運ばれた。
学校が近づくにつれ同じ制服を着た生徒の数が増えてくる。
友人と話しながら笑う者、大きなあくびを隠そうともしない者、スマホを見ながら器用に歩く者。
それぞれが自分だけの世界を抱えながら同じリズムの群れに溶け込んでいる。
――社会って、こういう縮図なんだろうな。
他人を眺めながらそんな妙に大人びた感想が浮かぶ。
けれど、ハル自身もその群れの一部に過ぎない。
誰かに見られたら、きっと同じように群れの一人として映るのだろう。
その考えに少し照れくささを覚えながら、通いなれた風見高等学校の門をくぐった。
***
ハルは劣等生ではない。
だが、優等生というほどでもない。
ただ、気になったことは放っておけない性分で、授業中でも興味を引かれた単語があればすぐに調べたくなる。
今日もそんな衝動に駆られていた。
休み時間、机に突っ伏してスマホを手に取る。
検索窓に打ち込んだのは――「消滅」
なぜこの言葉が気になったのか自分でも分からない。
もしかすると今朝見た夢のせいかもしれない。
何かが完全に消えてしまう感覚、それが頭の片隅に残っている。
――【消滅】
消えてなくなること。それまで存在していたものがなくなってしまうこと。
そのシンプルな定義に目を留め、ハルは無意識に指先を止める。
「消」と「滅」
似た意味の言葉が重ねられて1つの概念になっている。
なぜ二重にする必要があったのだろう。
「消える」だけでは足りなかったのか。
「滅ぶ」だけでは届かなかったのか。
2つを並べたその先に何か完全な終わりのようなものを感じる。
言葉を作った誰かが跡形もなく消えてなくなるという概念を確立する必要があると考えたからかもしれない。
そこまで考えたところで授業開始のチャイムが鳴り、思考は途切れる。
慌ててスマホをしまい教科書を取り出す。
現実がまた思考の海を押し流していく。
***
放課後、校舎を出ると夕方の風が心地よい。
「じゃあなー!」
手を振る友人たちの声に短く返事をして、ハルは友人たちとは逆方向へ歩き出す。
向かうのはバイト先のカフェ。
週3回、1日4時間ほどのシフト。
高校に入ってから始めたその仕事はもうすぐ一年になる。
小遣いをもらうのがなんとなく気恥ずかしくなり、自分の力で少しでも稼いでみたくなった。最初はそんな軽い気持ちだったが、働いてみるとお金の重みを実感する。
一杯のコーヒーを淹れるだけでも時間と手間がかかる。
数百円のために無数の小さな動作を積み重ねる。
それを知ってからは、財布からお金を出す手が少し止まるようになった。
「働くって、こういうことか」
両親に話すと母は笑って「ちょっと大人になったじゃない」と言っていた。
照れくさくて何も返せなかったが、その言葉は胸に残った。
初めての給料でプレゼントを買おうと思っていたが、それはまだ実行できずにいる。
感謝の気持ちはある。
けれど簡単に形にするのがためらわれるのもお金の価値を知ったからなのだろう。
***
カフェは、学校と自宅のちょうど中間にある。
通学路をそのまま使うこともできるが、ハルは少し遠回りをする。
途中にある大きな公園、風見中央公園を抜ける近道だ。
近道というより気分転換の道と言った方が正しいかもしれない。
公園の入り口に差しかかると木々の間を抜ける風が顔に触れる。
遊歩道の両脇には低い木柵が並び、紫陽花やツツジが色鮮やかに咲いている。
端の方には滑り台やブランコのある遊具スペース。
小さな子どもを連れた家族が笑い声をあげていた。
広場では小学生くらいの子どもたちがサッカーボールを蹴り合っている。
ジョギングをする人、ベンチで読書をする人、それぞれの時間が穏やかに流れている。
生まれた時からこの風見市に住むハルは子供の頃からよくこの風見中央公園にも遊びに来ていた。
時代の移り変わりに伴い若干の変化などはあるものの、どこにどんなものがあるのか、ほとんど把握している。
だからこそ、迷うことなく遊歩道を歩いていくことができる。
公園の出口に差し掛かる手前にあるベンチ。
そこでバイト前の一休みをするのがハルの日課だ。
このベンチに座り、目の前にある名も知らない木を眺めながらぼーっと過ごす時間は、ハルの密かな楽しみだった。
この公園自体は子供の頃からの遊び場だったのでどこに何があるのかは大体分かっていた。だが、こんな風に名も知らない木に注目をしたのはバイトを始めてここを憩いの場にするようになってからだ。
春には白っぽい花が咲き、夏には葉が生い茂る。
秋には枯葉となって散り、冬には枝が雪で白く色づくこともある。
街の中でも四季を感じられるこの木をハルはとても気に入っていた。
今日もベンチに腰を下ろし枝越しの空をぼーっと眺めていた。
近くの地面で何かを一生懸命ついばんでいた鳥たちが何かの拍子で一斉に飛び立つ。そのうちの一羽が枝に止まり、ちょこちょこと左右に移動しながら無邪気にさえずっている。
――あぁ、平和だなぁ。
そう思っていた時――何の前触れもなく木が消えた。
「......えっ......?」
ハルの思考が止まる。
目の前から木が消えた。
その事実だけは認識できるのに何が起きたのかが理解できない。
枝に止まっていた鳥は突然枝がなくなったことで落下していくが、空中でもがき、なんとか羽ばたいて身体を空中にとどめる。その後、僅かな間、何が起きたかを探るようにその場を旋回していたが、やがて他の仲間を追いかけて飛び去った。
飛び去っていく鳥を視線だけで追いかけ、やがてそれが見えなくなると、何かに怯えるように恐る恐るベンチから立ち上がる。
ハルは辺りを見回すが人影はない。
この光景を目撃したのは自分だけだろう。
木があった場所へ向かおうとして足を踏み出そうとするが......。
――もしかしたら目の前の地面も突然消えてしまうのではないか?
そんなあり得ないことを想像し思わず足を引っ込める。そしてゆっくりと地面に足を延ばし、一歩一歩感触を確かめながら木があった場所まで辿り着く。
幹があった場所に手を伸ばす。
その手に硬い感触が返ってくることを期待するのだが、やはり木はなく、手は空中をひらひらと漂うだけであった。
地面には幹の跡だけがぽっかりと空いている。
穴の広さはおおよそ幹の太さと同じなのだろうが、ただの土の凹みとは明らかに異なっていた。
周囲の芝生や土はさっきまでと変わらずそこにあるのに、木が立っていた場所だけが、精密な機械でくり抜かれたように完璧な円を描いて消失している。
剥き出しになった地中の土は空気に触れたばかりだというのに、生命の気配が一切感じられないほど静まり返っていた。
時間が止まったような感覚にハルは息を呑む。
体の震えと胸に渦巻く得体の知れない感覚。
これが、夢で見た全てが消えてなくなるという感覚に近いのかもしれない、とふと思う。
バイトの時間が迫っていることも今は意識に上らなかった。
ハルはただ、消えた木と飛び立った鳥の軌跡を追い、現実と非日常の境目に立ち尽くしていた。