第3話 見えないよ
6月18日 朝 | ハルの自宅・リビング
朝、ハルはいつものように朝食を取りながら何気なくテレビに目を向ける。
映るのは毎朝BGM代わりにつけている情報番組。元気なキャスターたちが各地の情報を伝えているのを見て、ハルはつい「この人たちは毎日何時に起きているんだろう」などと、どうでもいいことを考えてしまう。
朝の柔らかな光がリビングに差し込みテーブルの上に並ぶパンとコーヒーの匂いが混ざり合い、平穏でありながらどこか慌ただしい日常を感じさせる。
占いのコーナーではハルと両親は結果に一喜一憂し少しだけ笑顔になる。
和やかな朝の団らんも終わり、両親は仕事に出かける準備を始める。朝食後の片付けはハルの役目だ。
空いた食器に手を伸ばすと、テレビはいつの間にか社会情報のコーナーに切り替わり、遠藤アナウンサーの淡々とした声が明るい話題に終始していた番組の雰囲気を一変させる。瞳の奥にわずかに滲む緊張と焦燥が画面越しに伝わってくるようだった。
「先日、公園の遊具が持ち去られる事件が発生しました。警察では被害現場の近くにある防犯カメラ映像などから解析を進めていますが、犯行を特定する映像はなく、捜査は難航している模様です」
遠藤アナウンサーの言葉でハルは食器を運ぶ手を止める。
脳裏には一昨日のあの空白がよぎる。
盗まれたというより、最初からそこになかったような、あの不気味な光景。
「......まさかな」
独り言をつぶやきテレビを注視しようとしたが、画面は無情にも切り替わり、最新の流行スイーツを紹介し始めた。
ハルはそのまま数秒立ち尽くしていたが、ふと我に返って時計を見る。
もう家を出る時間だ。
気のせいだと言い聞かせるようにハルは慌てて食器を流しに置き、準備を始める。
***
同日 | 通学路
通学路を歩き始めると、程なくハルと同じ高校の制服を着た少女が小走りで駆け寄ってきた。
片瀬ナナ。
保育園からの幼なじみで、茶目っ気のある笑顔と安心感を与える行動力を兼ね備えた少女だ。小柄な体に軽やかな足取り、朝の光に肩のあたりでまとめた茶色がかった髪が揺れる。淡く光る景色の中、ナナはハルの視界に温かい風のように滑り込む。
「おはよう、ハル!」
「おはよう、ナナ。今日は遅いんだね」
「うん、今日から試験前だから朝活もないんだ」
「そう言えばそうだったね。忘れてた」
ナナは美術部に所属している。
文化系の部活は朝練がないと思われがちだが、彼女の部は週に1、2回、朝のほうが芸術意識が高まるという顧問の先生の方針で朝活がある。
その代わり放課後は自由参加。
部活動に力を入れる学校ではないが、こうした例外が人気を呼んでいた。
もっとも、ハルは部活動をしておらず帰宅部なのでどうでもいい話だ。
「なんかいつも冴えない顔なのに、今日は一段と冴えない感じだね。何かあったの?」
「冴えないってなんだよ」
二人は保育園からの付き合いで、端から見れば甘酸っぱい関係に見えるかもしれないが、本人たちは互いを友人として接していた。だから軽口も自然に交わせる。
もっともハル自身は内心淡い感情を抱いているのだが、それは今の関係を壊すほど強くはない。
「いや、ちょっと一昨日から妙なことがあって......」
「妙なこと? どんな?」
「それが......上手く言えないんだけど......」
「それじゃ聞けないよ」
ハルは隣を歩くナナの横顔を伺いながら言葉を探した。
誰かに話して『そんなわけない』と笑い飛ばしてほしい気もするし、本当だったらどうしようという怖さもある。
「ねえ、ナナ。ちょっと変なこと聞いてもいい?」
「変なこと? なにそれ、改まって」
「いや、もし......目の前で何かが消えるのを見たって言ったら、ナナなら......どう思う?」
努めて平然を装って聞いたつもりだったが、ハルの声は少しだけ上ずっていた。
「消える? ゲームの話?」
「違うよ、実際の話」
「実際に? 目の前で?」
「そう、目の前で」
「あるよ、そういうの」
「えっ!?」
まさかナナも見たことがあるのかと驚くハル。
「小さい頃、食べようと思っていたお菓子をハルに目の前で取られて消えちゃったことがあるよね」
悪戯っぽく笑うナナの返答に思わずムッとなる。
「そういうことじゃないよ!」
そう言い、歩く速度を速めてナナを置いていく。
「ごめんごめん、今のは冗談だよ」
言葉だけで謝りながらナナは追いかけてくる。ハルもすぐ歩く速度を戻し、追いつかせる。
「僕が言っているのは、つい最近起きた現実のことなんだよ」
隣に来たナナと肩を並べ、一昨日の出来事を説明する。
「それ本当? ちょっと信じられないけど......」
「僕だってそうだよ。でも確かに消えたんだ。跡だって残ってる」
いつになく真剣なハルに茶化すのをやめるナナ。
しかし内容は現実離れしており、完全には信じきれない様子だった。
通学路沿いのあの公園は通り過ぎていた。仮にそこが目の前でも、消えた木の跡は反対側にあり、通学中である今、無理に確認にいこうとすれば遅刻が確定してしまう。
「それなら放課後に見に行こうよ」
「うん......そうだね。本当ならちょっと見てみたい」
学校に到着すると、別クラスの二人は放課後、校門前で待ち合わせることを決め、それぞれの教室に入っていった。
***
昼休み。
ハルは弁当を共にする友人に断りを入れ、校庭のベンチに一人腰を下ろす。
人影は少なく、遠くの雑踏が大きく聞こえる。
ハルは急いで弁当を食べ終えるとスマホを取り出す。
昨日現れた【予定表】を確認するためだ。
【予定表】を開き昨日見た記述を探すが、最下段までスクロールしても見つからない。
「確かにあったはずなのに......」
記憶と現実のずれが不安を呼び起こす。
何度見返しても昨日の記述は消えたかのように存在していなかった。
――疲れてるのかな?
立て続けにおかしなことが起こっているので自分の記憶に自信が持てない。
【予定表】から昨日の記述を探すのをあきらめると、今度は昨日調べていたワードである『消滅』からチャイムに遮られて確認できなかったSNSの投稿を確認する。
それはユウと名乗る人物からの投稿で、その内容はとても奇妙なものだった。
――それはただの消滅
――消滅はどこでもいつでも存在する
――消えるけど消えない、それが消滅
確かに消滅のことが書いてある。
書いてあるのだが......抽象的すぎて手がかりらしい手がかりにはならない。
それなのに何故だろう、妙に心に引っかかる。
何が自分の琴線に触れているのか理解できないまま、さらに検索を続けるが、結局これ以上の手がかりは得られず、昼休みの終わりを告げるチャイムによって今日の調査は終了となってしまった。
***
放課後。
ハルは校門前でナナを待っていた。
一年で最も昼が長い6月。
放課後になってもまだ空は明るく、太陽の恩恵はしばらく続きそうだった。校舎からは下校を促す鐘が鳴り響き、生徒たちが帰路につく中、ハルはナナを見つけて小さく手を振る。
「待たせた?」
「ううん、ちょうど今来たところ」
軽く手を振り合い、2人は校門を抜けて歩き出した。
住宅街を抜けるいつもの通学路だが、ハルにとっては昨日までとは違う、どこか頼りない景色に見えていた。隣を歩くナナは試験前で朝活がないことを喜ぶように、はしゃいだ様子で部活の話をしている。その明るい声がハルの内側にある言いようのない不安を少しずつ削っていく。
「......ナナ、これから行くところなんだけど」
「うん、一昨日木が『消えた』っていう場所でしょ?ちゃんと覚悟してるよ、ハルの怪談話に付き合う準備!」
冗談めかして笑うナナにハルは曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
緩やかな坂を下り、見慣れた公園の入り口が見えてくる。
公園の中に入ると、そこは雑多な喧騒に包まれ、目の前で消えた現象を共有する緊張感を少し和らげる。家族連れや下校中の小学生たちが通り過ぎる中、二人は公園の隅にあるあの場所へと足を向けた。
***
一昨日に消えた木の跡地は空白だった。
土が少し盛られ、這い出した虫を狙ってか、数羽の小鳥がせわしなく地面をついばんでいる。ハルはその様子をじっと見つめ、大きく深呼吸してから言葉を紡ぐ。
「ここ、昨日......木があったんだ」
ナナは黙って頷き、しゃがみ込むようにして跡地を見つめる。
沈黙の中、傾き始めた日の光を背に初夏の風が2人の間を通り抜け、足元の砂をかすかに舞い上げる。
「......確かに、ここに何かあった跡があるね」
「そう、ここにあった木は僕にとって思い入れのある木だったんだ......」
ハルは息を吐き、周囲を踏まないよう歩きながら当時の様子を伝える。
「......ということなんだ。説明してる今でも信じられないけどね」
ハルはナナの横に並ぶ。
普通ではありえない現象だが彼女なら信じてくれるだろう。
ナナは跡地を見つめたまま黙り込む。
ハルにはその沈黙が言葉の真偽を量っているように思えた。
ふと、スマホに現れた【予定表】を思い出す。
「そう言えば、昨日も木が消えた後、スマホに見たことがないアプリが出てきたんだよ」
ハルはスマホを取り出し画面をナナに向けた。
「ほら、ここ。【予定表】ってあるでしょ?これを見てみると何か予定みたいなのがたくさん載ってるんだよ」
そう説明しながら表示された【予定表】の画面を操作するのだが、ナナは不思議そうに首を傾げ、画面を覗き込むだけだった。
「【予定表】......?」
「そう。ほら、ここにもいっぱい載ってるでしょ?」
そう言いながら【予定表】を素早くスクロールさせていくのだが......
「ハル、ごめん。私にはスマホの待ち受け画像しか見えないよ」
「えっ......」
ナナのその言葉で、すぐ隣にいるはずの彼女がふいに遠い世界の住人のように感じられた。
目の前の画面には確かに黒い文字がびっしりと並び、スクロールする指に合わせて滑らかに動いている。それなのにナナの瞳にはスマホの待ち受け画像しか見えないと言う。
「本当に見えないの......?」
「うん......」
――僕には見えているのに、ナナには見えない。
同じ地面に立ち、同じスマホを覗き込んでいるのに、見ているものだけが残酷にズレている。その事実がハルの熱を静かに奪っていく。
ハルは小さく息を吐いてスマホをポケットにしまった。
嘘をついているわけじゃないのに、一番身近なナナにさえ本当のことが伝わらない。ほんの少しだけ自分だけが世界から取り残されたような、しんとした寂しさが胸に広がる。
「でもね」
ナナは心配そうに見つめ、言葉を紡ぐ。
「ハルの言ってることを疑ってるわけじゃないよ。私には信じることしかできないけど、できることがあるなら言ってみてね」
「ナナ......」
2人は跡地を見渡す。
木のない空間を風が抜け葉の揺れる音だけが響く。
「分かった。もう少しちゃんと調べてみるよ。分かったらその時また聞いてね」
「もちろん! その時はコンビニのアイスで手を打ってあげるからね」
「なんだよそれ」
ナナは笑いながら数歩先へ駆け出した。
消えた木と見えない【予定表】。
ハルの疑問は何一つ解決していない。
むしろ、知れば知るほど分からないことばかり増えていく。
それでも――前を走るナナの背中を追いかけている間だけは、胸に居座る重苦しさを少しだけ忘れられるような気がした。