第四話:白折峠一家失踪事件
事件に名前が付くのは、たいてい後からだ。
警察が付ける場合もあれば、新聞社が便宜上そう呼ぶこともある。もっと後になって、テレビ番組やネット上で分かりやすい名前を与えられることもある。
だが、千景が翌朝から調べ始めた一九九六年の失踪事件には、正式な呼称らしいものがなかった。
地方紙の記事には、《白折峠で一家四人不明》とある。
別の新聞では、《山間部で乗用車発見 三人依然不明》
テレビ欄の過去資料には、《一家失踪 保護少女が語らない「三日間」》
それぞれ表現が違う。
だから千景は自分の取材ノートの一番上に、白折峠一家失踪事件と書いた。
赤鉛筆で二重線を引く。
「勝手に事件名って作るんだ」
向かいから笠縫颯真が言った。
「名前ないと不便でしょ」
「後で定着して、“白折峠一家失踪事件の起源を調べました”とか言われたら、お前が起源になるけどな」
千景の手が止まった。
「嫌なこと言うね」
「まぁ起源なんてそんなもんだよ」
「じゃあ仮称って書いとく」
タイトルの横に小さく、《仮称》と加えた。
祝迫が古い新聞のコピーの山から顔を上げた。
「それで安心できるの、書き物屋だけだぞ」
「えー、圭吾は何屋なの」
「んー?なんだろうな、何屋と言われたら困るな?」
「古紙回収屋さんぽい」
「回収はしたことないぞ!!」
颯真がパソコンから目も上げずに言った。
「あーもう!うるせぇな!外でやってくれ」
祝迫が鼻で笑った。
「測量屋のくせに室内の縄張り意識強いな」
「何言ってんだ回収屋が!ここ俺の部屋じゃないけどな!」
昨日までなら、そこで千景が笑って終わる。
だが今日は、三人とも机の中央に置かれた一枚のコピーへ何度も視線を戻していた。
一九九六年十一月十二日。
北陸地方の地方紙。社会面。
《白折峠で一家四人不明》
記事そのものは、驚くほど普通だった。
十一月十日午後、県内在住の会社員男性が妻と二人の子どもを乗せて自宅を出た。夜になっても戻らず、親族が警察へ届け出た。
翌十一日、白折峠から林道へ約三・二キロ入った場所で、男性所有の乗用車を発見。
車内に争った形跡はなし。
財布、現金、上着、子どもの荷物。
いずれも残されていた。
一家四人の姿はなかった。
そして十二日の朝。
当時九歳だった長女だけが、車両発見地点から直線距離にして二十キロ以上離れた町道脇で保護された。
裸足ではない。
怪我らしい怪我もない。
脱水症状も軽度。
ただし本人は、発見までの三日間についてほとんど話さなかった。父親、母親、六歳の弟はその後も発見されていない。
「未解決だ......」
千景が言った。
「少なくとも公的にはな」
祝迫が答える。
「捜索は翌年春まで継続。山狩りも何度かやってる。近隣のダム、河川、廃屋も捜索済み。親族関係、金銭問題、男女関係も調べられてるけど、有力な手掛かりなし」
「夜逃げは?」
「財布置いて子ども一人捨ててか?」
「だから可能性の話」
「ゼロではない」
颯真が横から言った。
祝迫が見る。
「測量屋は夜逃げ派か?」
「派閥作るなよ。可能性を消してないだけだ」
千景は一枚目の記事を脇へずらした。
「長女が見つかった位置がおかしいね」
颯真が頷く。
そこだけは、三人とも同じ意見だった。
机の横には、颯真が大型プリンターから出した地形図が貼ってある。
白折峠。
車両発見地点。
少女保護地点。
赤いピン。青い線。
そして複数のルート。
「直線なら二十三・四キロ」
颯真はボールペンの先で地図を叩いた。
「ただし、直線では行けない。山がある。谷がある。道路を使うなら最短で四十一キロちょっと」
「九歳の子が三日なら歩けなくはない?」
千景が聞く。
「距離だけならな」
「でも?」
「十一月。夜間気温は一桁。標高差もある。それに記事には“靴底に著しい摩耗や泥汚れなし”とある」
祝迫がコピーを一枚抜いた。
「こっちは週刊誌」
見出し《消えた家族 戻った少女は何を見たのか》
いかにも当時の週刊誌らしい扇情的な文章だった。
千景は眉をしかめながら読む。
保護された少女について、
《衣服には落ち葉が付着していたが、長距離を山中移動した形跡は乏しい》とある。
「この“形跡は乏しい”って誰の証言?」
「記者の書き方だから信用しすぎるな」
祝迫が答えた。
「でも警察発表と矛盾はしてない」
颯真が別の資料を指す。
「問題はここ」
道路台帳。
平成八年度。
白折峠周辺の林道図。
千景は顔を近づけた。
一本の細い線
車が見つかった地点より先も道は続いている。
「昨日見た地図と違う?」
「昨日は現在の地図」
颯真が答える。
「一九九六年当時はこの先まで林道があった。今は土砂崩れで一部廃道。ただし――」
指を滑らせる。
「分岐はない」
「一本道?」
「少なくとも行政資料上は」
祝迫が言った。
「“行政資料上は”って付けるところが測量屋だな」
「古地図と航空写真も見る。現場も行けば分かる」
「頼もしいな」
「褒めてないだろ」
三人の前に、祝迫がもう一枚の紙を置いた。
「で、本題だ」
古いコピーだった。
新聞よりも粗い。
どうやら当時の捜査資料そのものではなく、後年誰かが資料を閲覧し、手書きで内容を転記したものらしい。
右上に《遺留品一覧/非公式写し》とある。
千景は読む。
財布、腕時計、子ども用リュック、水筒、地図、手帳、そして───。
《父親所持品・黒革手帳》の項目。
その下に六行。
14:21 右
14:38 左
14:52 右
15:07 第三
15:19 第三
15:26 第三
千景は声を出さなかった。
声を出す必要がなかった。昨日、まだこの手帳を見ていない段階で、自分の頭に浮かんだ数字。
「千景?」
颯真が言った。
「何?」
「顔が変」
「失礼ね!元からよ」
祝迫もこちらを見ている。
「知ってたのか?」
千景は赤鉛筆を置いた。
「......昨日、圭吾が送ってきた“15:07 第三”見た時」
二人は黙っている。
「1519と1526って数字が浮かんだ」
颯真の顔からわずかに表情が消えた。
祝迫は逆に興味を示す。
「どこで見た?」
「だから分からない」
「昔の記事とか?」
「覚えてない」
「検索履歴は?」
颯真も聞く。
「いや、調べてない」
「端末出して」
「え?取り調べ?」
「確認だ」
千景はスマートフォンを渡した。
颯真がブラウザ履歴を見る。
八咫烏シンドローム。
2007年掲示板。
2005年ログ。
白折峠の検索はない。
仕事用ノートパソコンも確認。
「予測変換は?」
「しつこいなぁ」
「十五時十九分、十五時二十六分を入力してみて」
千景は入力する。
候補には出ない。
「偶然......か」
颯真が言った。
祝迫が少し笑った。
「それは便利な言葉だな」
「じゃあ何て言えばいい?」
「まだ分からない、でいい」
「“まだ分からない”を怪異扱いするのが一番嫌いなんだよ」
「誰も怪異なんて言ってないだろ」
「顔が言ってる」
「俺の顔を勝手に読解するな」
「二人とも!不毛な事しないで」
千景が遮った。
祝迫は手帳の写しに視線を戻した。
「問題は時間より、“第三”だ」
それは千景にも分かっていた。
最初の三つは方向。
最後の三つは意味が違う。
「第三って、三番目ってこと?」
「何の?」
「道とかか?」
「分岐が三つあるなら」
「ないな」
即答だった。
祝迫が笑う。
「珍しく強いな」
「道路台帳ではない。国土地理院の旧版地形図でもない。一九九五年の航空写真にもない。少なくとも十五時七分以降に走っていたと推定される区間は――」
颯真が地図上に線を引いた。
「ここだ」
山間の細い一本道。
左手は斜面。右手は谷。
そして約二キロ先で行き止まり。
「右も左もないってこと?」
千景が聞く。
「......道としてはな」
「じゃあ最初の“右、左、右”は?」
「ここまでなら説明できる」
颯真は地図の手前を指した。
最初の交差点、分岐、そしてもう一つの分岐。
「十四時二十一分、右。十四時三十八分、左。十四時五十二分、右。この順番なら、車は白折峠から林道へ入る」
「そして十五時七分」
「その先に分岐はない」
千景は赤鉛筆を持ち直した。
《15:07 第三》丸で囲む。
「“三番目の道”じゃないのかも」
颯真が見る。
「どういう意味だ?」
「第三がねって」
「それが何だって?」
「だからそれを調べる」
「先へ進まねぇな」
祝迫が横から言った。
「測量屋も“地図にない”ってばかりじゃないか」
「地図にないものは地図にない」
「現地にないとは言ってない」
颯真が祝迫を見る。
千景も見た。
祝迫は何でもないように古い資料をめくっている。
「それ、どういう意味......?」
「昔の山道なんて、地図に載ってない枝道はいくらでもある。炭焼き道、林業道、獣道、廃道。住民しか使わない道もある」
颯真が少し考える。
「ああ、確かにそれはそう」
「お、測量屋が折れた」
「事実だから」
「でも」
千景は手帳を見る。
「仮に三本目の細い道があったとして、なんで“第三”って書くんだろ」
誰も答えなかった。
「右、左と同じ系列の言葉じゃない。そこが気になる」
千景が自問自答するように呟いた。
祝迫が頷く。
「今回は俺も気になる」
颯真だけが黙っている。
やがて、「それもそうだが、もう一つある」と言った。
「何?」
「時間間隔だ」
地図に直接書き始める。
十四時二十一分。
十七分後、十四時三十八分。
十四分後、十四時五十二分。
十五分後、十五時七分。
十二分後、十五時十九分。
七分後、十五時二十六分。
「短くなってる?」
「ほぼな。多少のズレはある。でも“第三”に入ってから間隔が縮まる」
祝迫が覗き込む。
「速度が上がったってことか?」
「逆かもしれない」
「どういうこと」
「何を記録してるか分からない以上、距離とも限らない」
祝迫がにやりとした。
「測量屋が地図見ても“分からない”か」
「うるさい」
千景はノートに書く。
《第三以降、間隔縮小》
その横へ、《何に近づいている?》と書いた。
「怖くするのほんっと好きだなぁ!」
颯真が髪の毛をくしゃくしゃにしながら言う。
昼過ぎ。
三人は資料を分担した。
颯真は道路台帳、旧版地形図、航空写真。
祝迫は地方紙、週刊誌、当時の町広報、図書館の郷土資料。
千景は家族そのものを追った。
父親は当時三十八歳。
地元の機械部品会社に勤務。
母親、三十五歳。
パート勤務。
長女九歳。
長男六歳。
家族関係に目立った問題なし。
借金なし。
父親に前科なし。
宗教団体との関係も確認されていない。
失踪の一週間前まで、家族はごく普通に生活していた。
学校の連絡帳。
スーパーのレシート。
会社の勤怠。
近所の証言。
奇妙な兆候はほとんどない。
ただ、一件。
失踪の三日前。
父親の同僚の証言。
《最近、あの人は通勤時間が妙に短くなったと言っていた》
千景の指が止まる。
「これ!!」
二人を呼ぶ。
祝迫が横から読む。
颯真も立ったまま画面を見る。
記事は当時の夕刊。
同僚の証言。
《「新しい抜け道を見つけたらしくてね。昔からこの町に住んでる私も知らない道だと言うんです。どこか聞いても、“説明しづらい”って笑っていました」》
その翌日。別の同僚。
《「帰りに送ってもらったことがあります。でも、いつもの道でしたよ。ただ本人は“今日はこっちじゃない”と言って、途中で何度か曲がろうとした。結局、私が乗っていたからやめたみたいです」》
千景は赤鉛筆を取った。
《今日はこっちじゃない》
「主観的な証言だな、本人がいなきゃどうとでも言える」
颯真が呟く。
「人間は主観で語るものよ」
「記録する側がその主観だけ見てどうする」
「じゃあ全部記録する」
「それはそれで非効率」
祝迫が横から言った。
「お前ら相性悪いのによく十年も絡んでられるな。まぁ俺はちょっと調べ物してくるわ」
*
午後三時。
祝迫が図書館から戻ってきた。
紙の束を机へ置く。
顔がいつもより少し硬い。
「見つけた」
「何を?」
「長女の証言だ」
千景が姿勢を変えた。
「警察記録?」
「違う。事件から七年後。二〇〇三年の地方誌」
雑誌名は聞いたことがなかった。
数年で休刊したローカル情報誌。
巻末近くに、《あの未解決事件を追う》という小さな連載がある。
白折峠の件を扱った回。
「本人が喋ってる?」
「直接取材じゃない。親族経由で聞いた話らしい。だから証拠としては弱い」
颯真が言う。
「読むか」
祝迫は一部分を指した。
千景が声に出した。
《当時、少女は家族がどこへ行ったのかという問いに対し、一貫して「分からない」と答えていた。一方、保護直後、警察官に「車から降ろされた」と話していたとの証言がある。》
続き。
《父親は少女一人だけを道路脇に降ろし、「ここで待ちなさい」と伝えたという。》
千景がページをめくる。
さらに、《少女が「どうして私だけ」と尋ねたところ、父親は――》
そこから先が黒く塗られていた。
「何これ」
千景が言った。
コピーの汚れではない。
原本側で黒く塗り潰されている。
颯真が雑誌を手に取る。
「印刷後にか?」
「原本に油性ペン。図書館所蔵分だけかと思ったけど、別の古書店に問い合わせた。そっちも同じ箇所が黒いらしい」
「記事として最初から伏字?」
「違う。文字の上から塗ってる。発行後」
千景はページを光に透かした。
「一体誰が?」
「分からん」
「図書館の利用者か?」
「複数冊で同じ場所なら可能性が低い」
「じゃあ編集部?」
「休刊。もう会社もない」
千景は黒塗りを指でなぞった。
その下に何文字あるのかさえ分からない。
「でも......」
千景は言った。
「この言葉、たぶん長くない」
祝迫が見る。
「何で分かる?」
「文の長さ」
《父親は――》
そこから黒塗り。
十文字前後。
千景は考えた。
そしてなぜか口が先に動いた。
「......お前はまだ違う」
部屋が静かになった。
颯真と祝迫が同時に千景を見る。
「何だと?」
千景が自分で驚く。
祝迫の顔からいつもの緩さが消えていた。
「今、何て言った?」
「いや......」
「もう一回」
「“お前はまだ違う”」
颯真が雑誌を見る。
「読めた?」
「いや、読めない」
「なら何で」
「分からない」
千景自身にも分からなかった。
ただ、その黒塗りを見ていると、そこにそう書いてある。そう思った。
思い出した、ではない。予想した、でもない。
知っている。それが一番近かった。
颯真は何も言わず、スマートフォンを取り出した。
「何してる、測量屋」
「そのフレーズ検索してる」
《"お前はまだ違う"》
一般的な文章がいくつか出る。
だが、当然事件との関連はない。
「あるわけねーか」
千景は笑おうとした。
「じゃあ勘だったりしてーって......え?何よ?怖い顔して」
誰も笑わなかった。
祝迫がゆっくり雑誌を閉じた。
「本人に会おう」
「長女に?」
「今は三十九か四十くらい」
「所在分かる?」
「実名は当時出てない。でも親族側から辿れる」
颯真が即座に言う。
「無理に探すなよな」
「分かってる」
「事件被害者だぞ」
祝迫は颯真を見る。
「俺が何年こういう仕事してると思ってる、測量屋」
「年数と配慮は比例しない」
「お前よりは人間に詳しい」
千景が二人の間に手を入れた。
「連絡は私がする」
それが一番自然だった。
取材依頼をするのは千景の仕事。
断られれば終わり。
無理には追わない。
だが――。会えるなら聞きたい。
十五時七分の「第三」とは何だったのか。
父親はなぜ、一人だけ娘を降ろしたのか。
そして黒く塗られた部分に、本当に、「お前はまだ違う」と書かれていたのか。
その日の夕方。
祝迫が帰った後も、千景と颯真は地図を眺めていた。
「一個聞いていい?」
千景が言う。
「内容による」
「もし、地図にない道が現地にあったら?」
颯真は即答した。
「測る、まずは数字を出さないとな」
千景が笑う。
「さすがは測量屋」
「圭吾の真似するなって」
「結構気に入ってるでしょ?」
「嫌いだ」
「でも反応するじゃん」
颯真は地図を畳みながら言った。
「地図にない道なんて普通にある。別に怪異なんかじゃない」
「じゃあ安心した」
「何がだ」
「第三があっても」
颯真の手が止まった。
千景は冗談半分だった。
しかし颯真は、数秒考えた。
「第三が道ならな」
「どういう意味?」
「右、左、右は方向だ」
「うん」
「でも第三は方向じゃない」
千景は黙った。
それは昼間、自分も感じたことだった。
颯真が地図を指す。
「俺たちは勝手に“第三の道”だと思ってる。でも手帳には“道”なんて書いてない」
「第三の何か......ね」
千景が言った。
「そうだ」
「怖いこと言うね」
颯真は帰り支度をした。
玄関へ向かう。千景も後ろを歩く。
廊下へ出ると、エレベーターは四階に止まっていた。
颯真が下ボタンを押す。
千景は階段へ目を向ける。
いつもの癖。最短より自分で選んだ道。
今日は――。
「エレベーターでいい」
颯真が彼女を見る。
「珍しいな」
「たまには、ね」
一階のボタンを押した。
扉が閉まる。
二階で一度、停止した。
扉は開かない。
千景が表示を見る。
「なに?故障?」
「待て」
颯真が操作盤を見る。
数秒後。
再び動き一階で扉が開いた。
「ほらね」
千景が外へ出る。
「階段の方がよかったでしょ」
「どっちでも辿り着ければそれでいい」
千景は笑った。
だがビルを出る直前、颯真だけが一度振り返った。
エレベーターの表示。
一階のその横。
古い液晶の一部が壊れている。
本来なら階数が一桁だけ表示される場所。
そこに一瞬だけ、[3]が二つ並んでいるように見えた。
颯真は目を細めた。表示はすぐに[1]へ戻った。
彼は何も言わなかった。
翌々日。
千景のもとへ、短いメールが届いた。
差出人は白折峠一家失踪事件の生存者。
件名なし。
本文は三行だけだった。
《取材について、承知しました。
一時間だけならお話しします。
ただし、父の手帳を持ってこないでください。》
千景は最後の一文を凝視めた。
取材依頼のメールに父親の手帳については一言も書いていなかった。