第一話 異世界初出勤、最初の仕事は村人のバグ修正
「おい、起きろ!」
肩を揺さぶられている。
「......あと五分」
「五分で世界が滅ぶぞ!」
「じゃあ、もう少しだけ寝かせてください......」
「お前、勇者だろうが!」
勇者。
聞き慣れない単語に、小真はまぶたを持ち上げた。
目の前に、しわだらけの顔があった。白いひげの老人が、木の棒を握りしめてこちらを見下ろしている。
背中が、やけに硬い。手のひらには、湿った土の感触があった。鼻の奥に、草と土のにおいが流れ込んでくる。
サーバールームの、あの乾いた空気のにおいはどこにもない。
上体を起こして周りを見渡す。木造の家が数軒、同じ高さ、同じ形で並んでいる。道は踏み固めた土。遠くには山の稜線が見え、空は絵の具で塗ったように青かった。
病院の天井でもない。
「......どこだ、ここ」
「何を寝ぼけておる! 魔王が復活したんじゃ!」
「魔王?」
「そうじゃ! 勇者よ、世界を救ってくれ!」
老人の指が、肩に食い込む。
「いや、待ってください。俺、勇者じゃないです」
「名前は?」
「本城小真です」
老人は、小真の顔をじっと見た。
瞳が、一瞬だけ焦点を失って、すぐに元へ戻る。
「ほう。小心者か」
「違います。ほんじょう、しょうしんです」
「小心者が勇者とは、愉快じゃのう!」
老人は腹を抱えて笑い出した。
帰りたい。
小真は、心の底からそう思った。
* * *
とりあえず、持ち物を確かめた。
腰に、何かがぶら下がっている。手に取ると、節くれだった一本の木の棒だった。
「これ、武器ですか?」
「勇者の初期装備じゃ!」
「剣は」
「ない」
「防具」
「ない」
「仲間」
「おらん」
「......それで魔王を倒せと」
「うむ!」
小真は空を見上げた。雲がゆっくり流れていく。
きっと、疲れすぎて見ている夢だ。そう片づけるのが、いちばん楽だった。
老人は気にする様子もなく、村の掲示板を杖で指した。
「まずは村人の頼みを聞くのじゃ。勇者なら、困っている者を助けねばならん!」
掲示板には、紙が一枚だけ貼られていた。
『村長の家まで案内してほしい』
依頼人の欄には、目の前の老人の名前があった。
「......村長の家って、どこですか」
「知らん」
「え?」
「だから、案内してほしいんじゃ」
「あなたが?」
「うむ!」
小真は、掲示板と老人を交互に見た。
頼みごとを書いた人間が、案内する側ではなく、案内される側で。しかも場所を知らない。
断る理由は、いくらでもあった。夢なのだから。
それでも、困り顔の老人を前にして、小真の口は勝手に動いていた。
「......とりあえず、探しましょうか」
「おお! さすが勇者!」
老人に背中を叩かれ、小真はむせた。
「では、わしについてこい!」
老人は村の北へ、元気よく歩き出した。
三歩目で、ぴたりと止まった。
「......あれ?」
「どうしました」
「道がない」
老人の足先の向こうは、一面の草むらだった。
「さっきまで、あったんじゃが」
小真は草をかき分けた。
奥のほうに、うっすらと踏み跡のようなものが見える。だが、それも十歩ほど先で、ぷつりと途切れていた。切り取られたように、その先は何もない。
途中まで描いて、鉛筆を置いたままの地図みたいだった。
昔、似たものを見た気がする。
「......作りかけの、ゲームのマップ」
口にした途端、視界の端に白い文字が浮かんだ。
【イベントエラー】
【村長の家への移動イベントが設定されていません】
小真は、動けなくなった。
「......は?」
目をこすっても、文字は消えない。
「どうした、勇者」
「今、何か見えませんでした? イベントエラーとか」
「いべんと?」
老人は、きょとんと首をかしげた。この人には、見えていない。
そのとき、文字がもう一行、増えた。
【編集モードを起動しますか?】
【はい / いいえ】
編集モード。
ゲームを作る人間だけが触れる画面だ。どうして、それが自分の目の前にある。
夢だから。
それとも――。
喉が鳴った。指は、迷わず【はい】を押していた。
景色が、音もなく暗転する。
次の瞬間、目の前にマップの設計図と、イベントの一覧が広がった。
その隅に、小さな文字が一行だけあった。
【最終更新:25年前】
「......二十五年前?」
理由は分からないのに、胸の奥がざわついた。
だが、考えている暇はなかった。
イベント一覧を上から順に追う。村長の家への移動イベントは、確かに空欄だった。これでは、老人が辿り着けるはずがない。
小真は空欄にイベントを書き込み、テストプレイを走らせた。
景色が戻る。
草むらだった場所に、土の道が一本、まっすぐ伸びていた。
「おお! 道ができたぞ!」
「......直った」
声が、勝手にこぼれた。
原因を見つけて、直して、動作を確かめる。会社で毎日やっていることと、何も変わらない。
ただ、今度は直した先に、一つの世界があった。
「お前は天才じゃ、勇者よ!」
老人が、小真の手を両手で包み込んだ。
「いや、これくらいなら......」
そのとき、視界の隅に、また文字が浮かんだ。
【イベント修復完了】
【警告:不明なアクセスを検知しました】
「......え?」
文字は、すぐに消えた。
慌てて編集画面を開き直す。修正は、正常に保存されていた。
ただ、操作ログの一番下に、見覚えのない一行が残っている。
ユーザーIDは、小真のものではない。しかも、時刻は小真の操作より、ほんの数秒早かった。
誰かが、この世界に触れた記録だった。
「誰かが......触った?」
「どうしたんじゃ、勇者」
小真は、画面をそっと閉じた。
「......いえ。何でもありません」
まだ、夢だと思いたかった。
けれど、もし夢でないのなら。
この世界には、誰かが作った、人の目には見えない仕組みがある。そして、その仕組みの中に、自分以外の何者かがいる。
小真は、老人の背後にまっすぐ続く道を見つめた。
「......明日、病院に行こうかな」
つぶやいた声に、老人の元気な叫びが重なった。
「よし! 次は魔王退治じゃ!」
「いや、まず村長の家でしょう!」
こうして、本城小真の異世界初出勤は始まった。