プロローグ 午前二時の障害対応
俺の名前は、本城小真。
ほんじょう・しょうしん、と読む。
親は「小さな真実を積み重ねる人になるように」と願ってつけたそうだ。立派な由来だと思う。
けれど、学生時代についたあだ名は「小心者」だった。名前が小真だから、小心者。ひどいときには「ほんと、小真ったやつだな」と笑われた。
......うまいこと言ったつもりか。
言い返せないのが、また悔しい。
昔から、頼まれごとを断れない性分だった。困っている人を見かければ手が出てしまうし、何か起きれば「自分が何とかしなければ」と先に体が動く。
その延長で、俺はIT企業の情報システム部門に入り、気づけば管理職になっていた。
仕事は嫌いじゃない。面倒な作業を自動化するスクリプトが初めて動いた夜は、帰りの電車でもにやけていた。あの高揚感は、今も忘れていない。
ただ、いつの頃からか、作る仕事より直す仕事のほうが増えていった。
そして今夜も、俺は壊れたものの前に座っている。
午前二時。会社のサーバールーム。
モニターの進捗バーは、まだ三割にも届いていなかった。
発端は、深夜に届いたアラートだった。数日前にリリースした業務アプリは、公開直後から不具合の報告が絶えなかった。その火消しの最中に、今度はサイバー攻撃を受けたのだ。
「......なんで、今日なんだよ」
声は、無人の部屋に吸い込まれて消えた。
呼び出しの電話を受けて、パジャマの上にコートを引っかけ、タクシーで駆けつけた。領収書は、ちゃんと財布に入れてある。精算できるだろうか、と一瞬考えて、首を振った。今はそれどころじゃない。
画面の端に、復旧までの残り時間が出ている。数時間。クラウド上のバックアップを丸ごと戻すには、それだけかかるらしい。
「だから、テープも残しておけって言ったのに......」
半年前の会議で、俺は確かにそう提案した。返ってきたのは、部長の薄い笑いだった。
『今どきテープ? クラウドで十分だろう』
クラウドが悪いわけじゃない。どちらにも長所はある。問題は、壊れたときの備えを誰も真面目に考えていなかったことだ。復旧手順書は白紙のまま。セキュリティ研修は、出席簿に判子を押すだけの行事。いざ障害が起きれば、誰かが何とかするだろうと全員が思っている。
その「誰か」は、いつも俺だった。
上司に電話をかけた。七回鳴らして、留守電に切り替わる。部下のチャットには、既読すらつかない。
まあ、こんな時間だ。仕方ない。
......仕方ない、か。
便利な言葉だ。口にした途端、どんな理不尽も胸の奥にしまい込める。
俺はノートパソコンを引き寄せた。エラー画面のスクリーンショットを貼り、ソースコードを渡し、原因の見当をAIにつけさせる。数年前なら一晩かかった切り分けが、数分で終わる。
それでも、修正案を読んで、これでいいと決めて、実行キーを押すのは俺の指だ。もし間違っていれば、頭を下げるのも俺だ。
画面の中では、サービスが一つずつ息を吹き返していく。
その横で、俺の頭は一行ずつ重くなっていった。
同じエラーログを三度読んで、三度とも内容が入ってこない。目だけが文字の上を滑っていく。
俺は、何がしたかったんだろう。
この仕事を選んだとき、頭にあったのは「もっと面白いものを作りたい」だった。自分の思いつきで誰かの手間が減ったり、世の中が少し便利になったり。そういうものを作る側に回りたかったはずだ。
それが今は、誰かが決めた仕組みの後始末ばかり。前任者が残した、コメントも設計書もないコードを読み解くことにも、もう慣れてしまった。
システムを守るのも大事な仕事だと、頭では分かっている。
分かっているのに。
「......俺、このままでいいのかな」
返事はない。空調の唸りだけが、低く続いていた。
故障しているのか、室温は妙に高い。シャツが背中に張りつき、袖口で額を拭うと、布がうっすら湿った。
時計は、午前二時十三分。
進捗バーは、ほとんど動いていなかった。
ぼんやりと眺めているうちに、時計は二時四十分を回っていた。
そのとき、ふいに、こんな考えが浮かんだ。
今から病院に行ったら、診断書くらい書いてもらえるんじゃないか。
自分でも驚くほど、静かな思いつきだった。深刻ぶる気配もなく、小石が靴に入り込むみたいに、すっと。
出社して、働いて、帰って、また出社する。何か起きれば駆けつけ、誰かが困っていれば手を貸す。自分が疲れていようと、待っている人がいる。
そうやって、ずっと走ってきた。
気づけば、足は止まっていた。止まったことにも、今まで気づかなかった。
「......もう、いいか」
よくはない。復旧は終わっていないし、明日は普通に出社日だ。
それでも、考える力は、もうどこにも残っていなかった。
背もたれに体を預けると、椅子がきしんで小さく鳴いた。
五分だけ。復旧が終わるまで、ほんの五分だけ目を閉じよう。
まぶたが、ゆっくりと降りてくる。
「......明日、病院に行こうかな」
そうつぶやいたのを最後に、俺の意識は、すとんと暗闇に落ちた。
――カチリ。
遠い昔に、どこかで聞いたことのあるような。安っぽくて、やけに懐かしい電子音が、暗闇の奥で鳴った。