第六話 若君は美形王子に懐いている
その日、新人神官はぶるぶる震えていた。
“この神殿で二番目に偉い人だから機嫌を損ねないようにね!”と先輩に説明された若宮司が、ため息を吐きながら明らかにイライラしていたからである。
それなのに先輩は、涼しい顔をして若宮司の仕事の進捗を見張っている。
「若君、次はこちらです」
先輩神官が手元の記録端末の上で手のひらを滑らせると、若宮司も自分の記録端末に目を落とした。
「はいはい。春のお祭りの進行ね......はあ、お散歩行きたいなぁ」
神聖なる若宮司エンジュは、不機嫌そうに端末に表示される記録に目を通す。
「はい。これも決裁したよー」
「では次は――」
「まだあるの?」
エンジュは音を立てて立ち上がった。その姿は巨木のように威圧的で、新人神官は一歩退いた。
「あります。昨日、若君が仕事をほったらかして遊びに行ってしまったので二日分の業務が溜まっております」
先輩神官はエンジュの顔を見ずに答えた。
「遊びじゃないよ。里の人たちが“山菜が採れたから食べにおいで”って誘ってくれたから......」
「それを遊びと言います」
容赦ない先輩神官の言葉に、エンジュがわざとらしくため息を吐いた。
「はあ〜あ。君にはわからないんだよ、僕の苦労なんて」
そのとき、開け放たれた扉の向こうから低く落ち着いた声が聞こえた。
「上司が部下に苦労を語るのは感心しないな」
その声に、エンジュの表情が一瞬で快晴になった。
あまりの変わり身に、思わず新人神官は扉へ視線を向けた。
光に透ける白金の髪。端正な顔立ち。そこには、ほどよい長身の青年が立っていた。白い長衣には、金の装飾が鮮やかに映えている。
「ハルジオン〜」
エンジュは飛び跳ねるように席を立ち、青年の元へ駆け寄った。
「遊びに来てくれたの?」
さっきまでは巨体を誇示していたのに、急に身体を屈めて上目遣いで甘えた声を出している。新人神官は得体の知れない嫌悪感を抱きながらエンジュを見つめた。
ハルジオンと呼ばれる青年も眉間に皺を寄せた。
「仕事だ。今夏の気象予測が出たので、災害対策について君の見解を聞きに来た」
ハルジオンも記録端末を脇に抱えていた。
「え〜。僕に会いに来てくれたんだと思ったのに」
深緑の髪がしおれるのを見て、ハルジオンは肩をすくめた。
「ほら、これ」
エンジュの胸元に細長い包みを差し出す。
「お菓子!?」
エンジュは顔を輝かせて包みを受け取った。
「琥珀宮で評判の茶菓子だ」
「お茶淹れるね〜」
うきうきしながら、エンジュは神官たちを振り返った。
「ハルジオン王子殿下との会議だから! 君たちは当分休憩してていいよ〜」
エンジュがハルジオンの背中を押して部屋を出ていくと、新人神官はほっと息を吐いた。
しかし隣に立ちつくす先輩の姿に、また背筋を凍らせる。
「当分だと? ......また逃げたな」
手にした記録端末を軋ませながら、先輩神官は震えていた。
⭐︎
新芽色のお茶と、艶のある練り餡の菓子が卓に並べられた。
「かわいい〜。果実みたいな見た目の餡子のお菓子だね」
「それで今夏の予測だが」
ハルジオンは記録端末を卓に置いて手をかざした。
「もう仕事の話ぃ?」
エンジュは口を尖らせながらも、画面を覗いた。
「雨量は平年よりやや多いとされている。春も降水量は多かったしな。局地的な大雨を警戒すべきとの見立てだ」
「うーん」
エンジュは首を捻った。
「天文台の予測はかなり正確だからね。僕の見解なんて必要ないかもしれないけど......」
「いや、ぜひ聞かせてほしい」
「僕なら山火事の方を警戒するかな」
ハルジオンが眉を寄せた。
「山火事? 降水量は平年を上回る予測だぞ」
「雨の量じゃなくて、間隔。春から雨がまとまって降ってるでしょ。降る日はすごく降るけど、その間が長い。今年は気温が上がるのも早いし、山の土も下草も乾くのが早いよ」
ハルジオンは記録端末に指を滑らせた。
「なるほど。東部の乾燥は例年より強くなる見込みだ。山岳地帯を警戒地域に――」
「僕なら、西を見るよ」
「西? あそこは一年を通して降水量が多い。乾燥地帯は東部だろう」
「今年、西の山、すごく緑なんだよねえ。春に雨が多かったから、下草が育ちすぎてるんだ」
ハルジオンは一瞬黙った。
「......それが夏に乾けば、全部燃料になるのか」
「そういうこと」
「山間部の火気規制を早めるか」
「うん。あと貯水池は空にしすぎない方がいいかも」
「局地的な大雨に備えるなら、貯水量は減らしておきたいところだが......兼ね合いが難しいな」
ハルジオンは椅子の背にもたれて腕組みをした。顔をしかめるハルジオンを、エンジュが上目遣いに覗き込んだ。
「外れたらごめんねぇ」
「構わない。外れるなら、それはそれでいい。予測と対策とはそういうものだ」
そう言って、ハルジオンはお茶に口をつけた。エンジュも餡子菓子を一口食べて頬を緩ませる。
「でもこれ天文台や救難隊の仕事でしょ。ハルジオンが休日使ってまで調べなくてもいいじゃない」
「好きでやっていることだ。苦ではない」
「仕事が好きなの?」
エンジュは目を丸くした。
「好きな者たちのために俺にできることがある。幸いにもその機会を与えられているんだ。やらない理由はないだろう」
「......ハルジオン」
「何だ」
「かっこいい......」
「そんな目で見るな」
居心地悪そうな顔でハルジオンがお茶を飲み干し、話題を変えた。
「相変わらずロタラを近接護衛に指名しているようだな」
こめかみを指で押さえている。
「ハルジオン、頭痛いの?」
「......先日も琥珀宮で、周囲の目もはばからず君たちが身体を寄せ合う姿が目撃されているぞ」
「何それ?」
「互いの頬に手を添え、顔を覗き合っていたと報告を受けている」
「ああ、それぇ?」
エンジュは腕組みをして考え込んだ。
「目に入った埃を取ってもらってたときかな?ロタラも目が充血していたから覗き返したかも。寝不足かなって」
「......今夜は共に寝ようと誘っていたとも聞いているが」
「狭いからってやめたよ」
エンジュは首を傾げた。
「ロタラと出掛けると、宿の手配がよく間違ってるんだよねぇ。寝台がひとつしかないの。ロタラ、そういうとき徹夜で警護するんだもん」
「なぜそこで共に寝るという結論になる」
「僕が床で寝るって言っても嫌がるし」
「そういう問題ではない。国民の目の届くところで誤解を招く発言は控えろ」
「誤解?」
「いや......誤解ではないのか」
「なになに? どういうこと?」
「......おそらく、翡翠宮か珊瑚宮の上層部は......その、君たちのあいだに間違いでも起こそうと思っているんじゃないのか」
「あー、そういうこと。でもさ、ロタラってそういうのじゃないじゃん」
「それは知っている。問題は君たちがどう思っているかではなく、どう見えるかだ」
「それに、ロタラだって僕とどうこうなりたいと思ってないと思うよ」
「......ああ、それは違いない」
ハルジオンは頭を抱えて俯いた。
「でしょ?」
「ロタラはわかりやすいからな......」
「ロタラ、恋すると人格変わっちゃうからね」
「そうだな......」
「あれ、ハルジオン、やっぱり頭痛いの?」
「お前たちのせいだぞ」
「僕も!? 僕はハルジオンを困らせてるつもりはないんだけど」
ハルジオンは片手を上げて、エンジュがそれ以上言うのを制した。
「彼女は珊瑚宮当主の直系だ。君も翡翠宮の王子で、そのうえ若宮司だ。立場を考えれば、周囲が縁談を勧めるのも仕方ないだろう」
「わかってる。だけど僕には......」
「すまない。君の気持ちを知っていながら無神経だった」
「ハルジオンのせいじゃないよ!」
エンジュは椅子にもたれて目を伏せた。
「いろいろ見えているつもりだったけど、自分の気持ちだけは......難しいね」
「......」
エンジュはしばらく目を伏せていたが、ふと顔を上げた。
「でも、ハルジオンはすごいよねぇ」
「なぜ急に俺の話になる」
「かっこよくて、気遣いができて、賢くて、たくさんの人を動かせて、かっこよくて、努力家で、王位継承者で、国のことを真剣に考えていて、困っている人を放って置けなくて、かっこよくて、誰よりも優しい」
「......かっこよくてを三回言ったぞ。いや、俺の話じゃなくてだな」
「ハルジオンはかっこいいもぉん」
「やめろ! しがみつくな!」
「むかーしむかーし、ハルジオンという男の子がいました」
「何の話だ!」
⭐︎
七歳の頃の僕は、ハルジオンのことを別にかっこいいとは思っていなかった。
「待て、本当に始めるのか......?」
顔もきれいで、頭も良かった。
大人の話もよく聞いていたし、僕の知らないこともたくさん知っていた。
だけど、要領は良くなかった。少なくとも僕にはそう見えた。
誰かが困っていると、僕ならすぐにどうすればいいか考えた。
『エンジュ、これ壊れちゃった』
――見せて。これなら直せるよ。
『エンジュ! 転んじゃったよぉ』
――大丈夫。一緒に救護室行こ。
ロタラならもっと単純だった。
『わからないなら私についてこい!』
それで大抵なんとかなった。
でも、ハルジオンは違った。
『ハルジオン。どうしよう』
困っている子にそう聞かれると、あの子はいつも少し考えてから言った。
『それは確かに困ったな』
そして、一緒に困っていた。
あの頃の僕には、それがよくわからなかった。