第五話 お山の中腹で、共存をさけぶ
「じゃあ、行こっか」
湯けむり漂う岩場で、エンジュがのほほんと微笑んだ。
身支度を整えると、若葉色の大判の布を肩から斜めに掛け、大きな身体へ慣れた手つきで巻き付けた。
「任務の途中だったな」
甲冑を留め、長槍を担いだロタラが頷く。
あんな茶番のあとでも、集中力を切らすことのない珊瑚宮の護衛たち。
完全にしらけて、残りの勤務時間を全うするだけの翡翠宮の神官たち。
温度感の違う一行が、山の中の探索を再開した。
皆に守られながら歩くエンジュの足が止まった。
「待って」
皆が一斉に止まる。やる気をなくしていた神官二人も表情を引き締めた。
「どうした?」
「静かに」
エンジュが耳を澄ます。
言われて初めて、ロタラも気づいた。
風が枝葉を揺らす音だけ。
鳥の声も、小動物が藪を走る気配もない。
ギィ......ギィ......。
ロタラの耳に、木の幹を軋ませるような硬い音が届いた。
「この音は......」
ロタラが周囲を警戒しながら息を漏らした。
「たぶん、お探しのあの子だね。......威嚇してる」
「こちらにか」
「うん。怖がってるんだ」
エンジュは真っ直ぐに、木々の奥の一方向へ身体を向けた。
「若君」
背後の神官が、背負っていた棒を外した。
「ありがと」
エンジュは振り返りもせずに受け取った。受け取った棒は構えず、右手で提げたままだ。
「この方角か」
ロタラが言う。それはエンジュへの質問ではなく、部下たちへの指示だった。
「珊瑚は左右に散開、翡翠は後方だ。エンジュは私の後ろにいろ」
「了解」
目の前に立つロタラに、エンジュは黙って従った。
ぶぅんという低い羽音が空気を揺らした。
「ロタラ。僕、ちゃんとこの子を観察したい」
羽音が近づいてくる中、エンジュが言った。
ロタラは何も言わず、振り向きもしない。
濃い色の木の幹に、木漏れ日と葉影が揺れている。
木の葉から落ちる影なのか、そこに“いる”のか山道からでは判別がつかなかった。
だが、確実に音が近づいてくる。
「伏せろ」
ロタラが指示するのと同時だった。
木々の間から黒い影が飛び出した。大柄な男性の胴ほどもある甲虫だった。
頭部から伸びる一本の太い角。羽を広げれば、小柄な人間ならすっぽり覆われてしまいそうだった。
「鎧角虫です!」
護衛の一人が腰の火器へ手を伸ばした。
「待て。火器は使うな」
ロタラが制した。ロタラの頭上を甲虫が通り抜けた。
「刺激してしまう。囲むな。北側を開けろ。逃げ道を残して追い立てる」
珊瑚宮の護衛たちは警杖と盾を手に散開し、北側を開けて壁を作った。
翡翠宮の神官たちも棒で地面を叩き、甲虫を北へ誘導する。
しかし甲虫は北へ向かうことなく、低い位置を不規則に飛び回っていた。
時折、木の幹に外殻をぶつけている。
甲虫が突然向きを変えた。
北ではない。棒で音を鳴らす神官たちへ一直線に飛ぶ。すぐさま神官たちは臨戦体制をとる。
「私が行く!」
ロタラが踏み込んだ。
長槍を横に寝かせ、迫る角へ柄を当てる。
ガンッ。
金属が軋む。
ロタラは踏みとどまらなかった。甲虫の勢いに合わせて半歩退き、腰を回す。
長槍に沿って、甲虫の巨体が横へ流れた。
甲虫は向きを変えて飛ぼうとしたが、そのまま木の幹に衝突した。
「まただ。ぶつかった。それに飛ぶ位置が低い」
そう呟くエンジュの表情を、ロタラは横目で確認した。
甲虫は規則性なく飛び回り続ける。
エンジュはロタラの背後で、飛び回る甲虫をじっと追っていた。
羽音、触角の動き、威嚇音の周期、その全てを拾い上げようとするように、翡翠の瞳が甲虫から離れない。
木の幹にぶつかり、跳ね返るようにして、甲虫が再びロタラの目前に飛んできた。
その頃合いを待っていたようにエンジュが声を上げた。
「ロタラ、ちょっと交代」
「わかったのか」
ロタラは答えを待たずに横へ退いた。エンジュも返事をせずに、その場所へ滑り込む。
「春に羽化したばかりの子だ。角に傷がほとんどない」
エンジュは棒を垂直に立てながら言った。
甲虫が頭上を通り過ぎる瞬間に突き上げる。
棒の先が胸部の硬い外殻に当たり、乾いた音を立てて弾かれた。
「効いてないぞ」
「いいんだ。確かめてる」
エンジュは甲虫を目で追いながら答えた。
「何をだ」
「この子の殻。ちゃんと固い。羽化したばかりで飛べないってわけじゃないね」
「では?」
「怖がりすぎている」
エンジュは棒を持ち直した。
「一回、飛ぶのをやめてもらうよ」
ロタラは、エンジュの構えと、甲虫の動きを目で追った。
「どこを狙う」
「胸の下。殻の継ぎ目」
「わかった」
ロタラはまたエンジュの前に出た。
「全員、壁になって私に向けて甲虫を誘導しろ」
「了解」
旋回してきた甲虫を、護衛たちが警杖と盾を振って一点に追いやる。
ロタラは槍を横向きに構え、槍の柄を真下から甲虫の角へ当てて押し上げた。
硬い音が響く。
甲虫が腹を見せて飛び上がる直前、エンジュが棒の先端を突き出した。殻と殻の継ぎ目を狙い、そのまま押し当てた。
甲虫の翅がびくりと震えた。
よろめきながら地面に降りてきて、殻の中に翅をしまった。
その六本の脚でしっかりと地面を掴み、身体を伏せている。
全員が武器を構えたまま、地面の甲虫を見つめた。
「何をした?」
「胸の感覚器を刺激しただけ。強く押されると、しばらく動きを止めるんだよ」
「麻痺か」
「んー。ちょっと違うけど......」
エンジュが甲虫を観察しながら首を傾げた。
護衛たちが身じろぎをすると、エンジュは静かに手を上げて制した。
すると甲虫の触角がゆっくりと動きを取り戻した。
脚も一本ずつ地面を探るように動かす。
「よし。歩けそうだ」
「歩かせる気か」
「まだちゃんと飛べなさそうだし、連れてくならその方がいいでしょ」
「連れて行く?」
「あっちの谷。谷の向こうからこの子たちが棲む木が増える。そこまで行けば自力で帰れるよ」
エンジュは北の方角を指差した。樹々に囲まれてここからでは谷は見えない。
「遠いな」
「お散歩の続きだねえ」
エンジュはにっこり笑うと、全員がゆっくりと息を吐いた。
⭐︎
「若君」
「なあに?」
鎧角虫とのお散歩を楽しむエンジュに、若い神官が尋ねた。
「もし、人を襲う虫だったとしても、同じように山へ帰すんですか?」
二人の神官は鎧角虫の両脇を離れて歩き、棒で地面を叩いて音を鳴らし、進行方向を誘導していた。
お散歩前にエンジュが、「大きな音は出さないでね。さっきみたいに怖がらせない程度に」と説明したことを忠実に守っている。
「ううん。この子は草食だから。人を襲いに来たわけじゃないからね」
「では、そういう種だったら?」
エンジュは顔を上げたまま目を細めた。
「そのときはやるしかないね」
翡翠の瞳には一切の曇りはなく、その瞳を見た若い神官は声にならない返事をした。
エンジュの後方で、今度はロタラが快活な声で尋ねた。
「こいつが草食なら、君は喰われないのか?」
エンジュは面食らった顔で振り返った。
「何それ。そんな楽しそうな声で聞くこと?」
「?」
ロタラは心底不思議そうに首を傾げた。その屈託ない顔を眺めて、エンジュはため息をついた。
「僕は草じゃないよ」
「光合成をしているのにな」
ロタラの気の抜けた声を聞きながらエンジュは鎧角虫を眺めた。
「共存って工夫が必要だからねえ」
鎧角虫は触角をぴょこぴょこ動かして答えた。
やがて山道は谷へ下りていった。
谷底には川が流れ、その向こうには針葉樹林が広がっている。
川辺まで来たとき、鎧角虫がぴたりと止まった。
向こう岸の森から吹いてきた風に揺れるように、触角が動いた。
「あ。わかったかな」
一同が注目するなか、鎧角虫はその翅を開いた。
のそのそと浮かび上がり、六本の脚を全開に広げて空に舞い上がった。
「やっぱりちょっと飛ぶの下手じゃないか?」
ロタラが空を見上げていった。
「あの子たちはあの飛び方が可愛いんだよ」
エンジュは口元をだらしなく緩ませながら答えた。
大きく六本の脚を広げたまま、鎧角虫は川面を越えていった。
先ほどまでとは違い、もう木々にぶつかることもない。
対岸の針葉樹林へ向かって、ゆっくりと高度を上げていく。
「北へ帰っていきますね」
珊瑚宮の護衛の一人が確認するように言った。
「では、我々も帰ろう」
ロタラが槍を担ぎ直した。
「一日がかりだったねー」
「君が温泉に入ったからだろう」
「ロタラも入ったじゃん」
あははと笑うエンジュの顔を、ロタラがまじまじと見つめた。
「え?なに?」
その真剣な顔に、エンジュから笑みが消える。
「......おい」
ロタラが目を見開いた。
「緑の小さき虫が、君の髪を喰んでいるぞ」
「え!?」
エンジュは髪に手を当てた。
「さっきから髪がちくちくすると思ったら!」
「やはりエンジュは草だったか」
「え?どこ?いないんだけど!」
「後頭部へ回ったぞ。む?......消えた」
「ええ?ねえ、ちょっと君たちが見てよ」
エンジュは頭を撫でながら神官たちを振り返った。
若い神官は神妙な顔で尋ねた。
「若君。......もしや今が、やるときですか」
神官は両手で握りしめた棒を頭上で構えた。
「待って!何する気?とりあえず普通に取って!」
「......つまり、今はそのときではないと?」
「見えない!どこ!早く!そっちの若くない方の君、とって!」
エンジュは若くない方の神官に助けを求めた。
「最近、老眼でして。はて」
若くない方の神官が首を傾げると、若い方の神官が目を丸くした。
「若君ほどのお人なら、心の目とかで見れないんですか?」
「そんなものないよ!僕は見えるものを見ていっぱい考えているだけ!」
「若宮司殿も普通の人間だったのか......」
珊瑚宮の護衛たちが感嘆の声を漏らす。
「鍛錬が足りんぞ、エンジュ」
ロタラが喝を入れた。
「何を鍛えたら自分の頭の上が見えるようになるんだよぉ!?」
山にエンジュの悲鳴がこだました。