第四話 山の湯けむり変人事件
春の息吹が山を吹き上げていく。
冬のあいだ山肌を下っていた風が、春になると向きを変え、そこを歩く人の身体まで軽くするように上昇していくのだ。
エンジュはご機嫌だった。
「のんびりのんのん、春のお山をお散歩だ〜」
上昇する風に深緑の髪をふわふわと持ち上げられながら、山道を歩いていく。
「散歩ではない」
エンジュの浮かれた歌を薙ぎ払うようにロタラの低い声が落ちた。
「調査だ。北の山林に棲む大型甲虫が、この辺りまで下りてきたと報告を受けたのだぞ」
エンジュとロタラの前を二人、後ろを三人の珊瑚宮第一守衛団員が固めている。エンジュのすぐそばには、翡翠宮の護衛神官も二人付き従っていた。
「春だから虫だって出てくるでしょ。僕ひとりでもよかったのに」
「君ひとりでは行かせられない。君は代わりの利かない人間だ」
「ロタラだって、周りを歩いてるあの子たちだって同じだよ」
エンジュは大柄の男たちを指さして言った。珊瑚宮の護衛たちは視線は動かさず、わずかに眉だけを上げた。翡翠宮の神官たちは互いに顔を見合わせる。
「それにさ、虫たちだって大勢で押しかけると怖がっちゃうから」
「凶暴な甲虫と報告を受けている。虫の心配をしている場合か」
「みんないい子たちなんだよ」
エンジュは口を尖らせて辺りを見渡した。その視線が木の幹に止まる。そこには大きな擦過痕がついていた。
「まだ新しい傷だ」
エンジュが木の幹についた痕を指でなぞった。
「近くにいるということか」
ロタラが背後から覗くと、エンジュは小さく頷いた。
その顔が、ふと止まった。
鼻をひくつかせ、今度は風上へ顔を向ける。
「あ、こっちだ」
「どうした」
ロタラも護衛たちも後を追う。
樹々の間を抜け開けた場所に出ると、湯気が立ち上がっていた。
「これは......!」
ロタラが目を見開いた。
「うん」
エンジュが神妙に頷く。
「温泉だ」
「翡翠の山にだけあるという、自然に湧く温かい泉だな」
ロタラが興味深そうに見つめた。
「懐かしい。子どもの頃にも見つけてみんなで一緒に入ったよね」
エンジュの顔が童心に返っていた。
神官たちは互いに目配せをする。その表情はあまり芳しくない。
「そうだな」
ロタラは長い足ですたすたと近寄り、湯気の立つ水面を覗き込んだ。
「あ!熱いかも――」
エンジュが声をかける間もなく、ロタラは躊躇もなく手を突っ込んでいた。
「適度に熱い」
「......入れそう?」
エンジュの眉が上がった。神官たちは頭を抱えた。
「入れそうだ」
ロタラが頷くと、エンジュは満面の笑みになった。
「なかなか出会えないからね。明日には消えているかもしれないし」
そう言いながら、もう布だらけの衣服を一枚ずつ脱いでいる。
(足湯の時もそうだった......)
神官たちは互いの思考を読み合っていた。諦めたように、上司の脱いだ服を受け取る。
その横で、ロタラも長槍を岩に立てかけていた。
――神官たちは不思議そうに一瞥する。
ロタラが音を立てながら銀色の甲冑を外した。
――神官たちは二度見した。
珊瑚宮の護衛のひとりは、当たり前のように外された甲冑を受け取っている。
ロタラはそのまま上着にも手をかけた。
「......まさか」
神官たちは声を漏らした。
そこには一糸纏わぬ、珊瑚宮第二王女の立派な仁王立ちが聳え立っていた。
「ええ!」
神官たちは助けを求めるように珊瑚宮の護衛たちに顔を向けた。
しかし彼らは、“任務を全うする守衛団の顔”を崩してはいなかった。
「周辺警戒」
「了解」
そう言って、ささっと散開する。
「ええ......」
神官たちは身を寄せ合って天を見上げた。
若君の気まぐれを嘆いたのか。
どこに潜むかわからない甲虫を警戒したのか。
それとも、王女の全裸を視界に入れまいとしたのか。
本人たちにも、もうよくわからなかった。
「ふあ〜。あったか〜い」
「む。毒物が入っていないか確認を怠ってしまった」
骨まで溶けるエンジュの隣で、腰を下ろしたロタラが今更のように呟いた。
「大丈夫だよ。この辺りは火山岩が多くて、地下にはまだ熱が残ってるんだ。染み込んだ雨や雪解け水がそこで温められて、岩の割れ目を通って上がってくる。匂いも色も、この山でいつも湧くものと同じだよ」
エンジュは湯を手ですくって、匂いを確かめた。ロタラもエンジュの手のひらに鼻を近づけて確認した。
「では安全なのだな」
「ここまで人の足跡もないし、周りの植物も枯れてない。虫もいる。少なくとも変なガスが溜まってる様子はないよ」
「君が言うと、そうなのだなと思えてくる」
「本当は天体の動きを見るより山の生態系を観察する方が好きだからねえ」
「君らしいな」
ロタラはおかしそうに笑った。座ると胸ほどまで浸かる温泉に、ふたりは岩を枕にして寝そべるように浸かっていた。ロタラの長い足が湯に浮かんでゆらゆら揺れた。
ロタラは岩に乗せた頭を動かし、天を見上げたり俯いたりしている神官たちに鋭い視線を向けた。
「君たち、ずいぶん挙動不審だな。何か異常を察知したのか」
問いかけられた神官たちはびくりと肩をすくめ、天を仰いだまま大きな声で答えた。
「いえ!異常はありません!......たぶん」
「気になるな。報告すべきことは報告しろ」
「ロタラー」
完全にふやけてしまったエンジュが、ゆるく制止した。
「気にしないで。ロタラが野外で裸だから目のやり場に困ってるだけだよ」
「なんと」
ロタラは目を丸くして起き上がった。
「ひい」
起き上がったロタラから、さらに視線を逸らして背を向ける神官たち。
「隠すから恥ずかしいのだ!」
ロタラは岩に登って再び仁王立ちをした。
「そうだねぇ。僕も恥じらう女性を見るとそそられちゃうもん」
エンジュがふやけたまま、にやけた。
「な?理論はあってる」
ロタラは得意げに笑い、岩の上で拳を掲げた。
「たとえ服を剥がれて民衆の前に吊るされても、私の尊厳を打ち砕くことはできない」
「うんうん。わかったから、今はそんなあけすけにしなくていいよ」
エンジュは湯から片手を出して、ひらひらと振った。ロタラもすっきりした顔で湯の中に戻った。
神官たちがふたりを窺っていると、近くに控えていた珊瑚宮の護衛のひとりが呆然とした様子で口を開いた。
「若宮司殿は女性に興味がおありだったのか......?」
信じられない事実を耳にした顔だった。
「ありますよ!めちゃくちゃあります!」
神官たちは、困惑を共有できる同志をようやく見つけたように、喜んだ。
しかし、筋骨隆々の護衛は険しい顔で温泉に浸かるふたりを見つめていた。
「ではなぜ、我らの団長の完璧な肉体を前に、若宮司殿はあのように平然としておられるのだ」
「えっ」
神官は護衛を見た。拳を握りしめてぶるぶる震えている。
「いやそれは......は!それは、先ほどそちらの姫君がおっしゃった理論なのでは?」
神官は流れるような口調で言い切った。だけど妙に納得のいかない表情をしている。護衛は神官の顔を確認もせずに、温泉を楽しむ男女を見つめた。
「隠すから恥ずかしい......隠さないから恥ずかしくない......」
護衛は突然合点がいったように目を見開いた。
「そうか!そういうことだったのだな!さすが我らが団長!深い思想だ!」
神官ふたりは顔を見合わせた。まるでこの世界には理解者はお互いにしかいないのだという絶望を共有しているようだった。
「ロタラ、また筋肉ついたねぇ」
「だろう!見てくれ、この肩甲骨周り!」
「本当だ〜」
「やめろ!くすぐったいぞ!」
真昼間から王女と一緒に温泉に浸かって無邪気に戯れ合う上司の声を聞きながら、神官たちは努めて心を無にする修行を始めた。