Episode 9 — Will
『終焉の霧計画――第八研究所 承認』
その文字は点滅もせず、ただ静かにそこにあった。
まだ何かを待っているような反応だ。
待機の文字が承認へと変わった瞬間、全ての照明が落ち周囲の白い壁が一瞬で黒く染まる。
まるで何かを閉ざし、深い闇の中へ隠すように。
ノアは僅かに眉根を寄せて、今やこの部屋の唯一の光源であるディスプレイを見据えていた。
「軍が密かに開発していた兵器は危険すぎる。人だけじゃない。国も、土地も、全て焼き尽くし、後には何も残らないだろう。
あれが使われれば、未来永劫、草の一本も生えないような――死の世界だけが残る」
デスクの上でノアの指が苛立たしげに揺れ、そして力なく握られる。
「一方で、隣国の魔法大国も同じようなモンを隠し持っているという。ついぞ詳しい話は入ってこなかったが......そんなモンがぶつかった日にはどうなるか、分かるか?」
問いながら、ようやくエイトへと視線を向け直した。
やはり動揺の影も見えない金の瞳は静かに頷く。
その虹彩が、暗い部屋に浮かぶ青白いディスプレイへと一度向けられた。
「兵器、使うのか?」
「少なくともこの国は使うだろうな。それを阻止されないために俺を......ついでに囮にしたお前も一緒に消しておこうとした」
そして、兵器が起動され次第、隣国も同じ力で応じるだろう。
出来るならば否定したかった。
だが目の前の状況そのものが、否定するための要素を次々と奪っていく。
ノアの指先が、実体のないディスプレイの縁を一度撫でるように辿った。
「終焉の霧計画......これも大概似たようなモンだ。決して世界を救うなんて素晴らしい代物じゃない。
毒性の霧を生み出し、無に帰す。人も死に絶え、建物もほとんど朽ちるはずだ。少なくとも、先百年は何も生きられない世界になるだろう。だが――」
黒縁の眼鏡の奥で、諦念を宿した瞳が僅かに細められる。
「その更に先の世界に、何かしらの命はまた生まれる。......そうであって欲しいと......そう願ってこれは開発された」
ノアは一度静かに瞼を伏せ、少しの間の後で唇の隙間から短く息を吐いた。
そして嘲笑にも似た、ごく薄い笑みの形を作る。
「聞いて驚け。発案したのはあの隣国の魔法使い共らしい。この国と向こうの国に幾つものこうした隠れ部屋があって、過半数から承認が下りれば発動する。そういう仕組みだ。
――さっきの開戦が合図になるだろう。上手くいけばもう、すぐにでも始まる」
そこまで一人で語り、ノアは視線を足元へと向けた。
エイトの両手首から滑り落ちた手錠が黒い床の上に落ちている。
それはもう光を灯しておらず、一見すればただの金属製の手錠と変わりない。
ノアは視線を持ち上げ、もう縛るもののないエイトの手首へと焦点を定める。
その後に更に顎を上げて、エイトの金の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だが、有毒物質にも耐性を持つお前なら、霧の中を生き延びられるんじゃないか。エイト」
見上げた先で、エイトは僅かに目を丸くしていた。
ノアの言葉が予想外だったとでも言いたげに。
数秒の間の後、ほんの少し眉根を寄せてエイトは口を開いた。
「あんたの命令がまだ残っている。俺は――」
「なら、お前へ下した命令も現時点をもって全て破棄だ」
エイトの言葉を遮ってノアは声を重ねた。
続ける言葉を失ったエイトの表情が傷心に似た形に歪む。
けれど、それは創造主に絶対服従を刻まれた遺伝子による本能のような反応だ。
エイトは望んで生まれたわけでもなければ、ほんの一時さえ望んだように生きられたわけでもない。
ノアにこうして付き従っているのも、本人の意志ではない。
そのはずだ。
「もしお前がその中でも生きられたなら......霧の薄い方角へ向かいながら、同じような感応鋼製の建築物を探せ。霧の中でもあまり傷まずに残る可能性が高い。
まずはそこを拠点に――」
まだ続く言葉を待たず、エイトの伸ばした手がノアの襟元を掴み上げた。
一瞬息が詰まり、ノアの声が途切れる。
暗い部屋の中でも輝くような金色の瞳に、黒髪の影が映り込んでいるのが見えた。
「あんたを置いて逃げることはしない」
昨日聞いたばかりの言葉が再び鼓膜を揺らした。
椅子に下ろしている腰が浮く寸前まで服を持ち上げたエイトの手を咎めるようにノアが指を添える。
「話を聞け。俺は――いや、人間はもう死ぬ。お前がここに居たってどうにもならない」
だがエイトの手はノアの服を離れなかった。
もう一刻の後に生きているかも分からない人間を前にして、別れを惜しむでもなく。
それでいて背を向けることもしようとはしなかった。
「最後まで......」
ノアの服を掴み上げるエイトの手が緩む。
それと引き換えに、金の髪が視界を覆うように迫った。
「ここにいる」
一瞬遅れて気が付いた昨夜と同じ光景に、ノアは慌てて手を伸ばす。
危うく触れ合いそうだった唇が手のひら一枚を挟んで止まった。
「何?」
「何って――」
額を合わせ、鼻先が触れるような距離でエイトは尋ねた。
思わずノアの眉間に皺が寄る。
「なんで、......こんな触れ方をしようとする? そんな風には作ってないだろ」
ノアは言葉を選びながら問う。
エイトは僅かに視線を逸らし、まるで難問に行き当たったかのような表情で答えを探していた。
だが、どれだけ探しても見付かるはずがない。
そんな知識も、そのための言葉も、端から与えていない。
吸血鬼が人に触れる時は食事を求める時だ。そう造った。
だが事実、昨夜エイトはノアの血を啜りながらも食い殺しはしなかった。
結局答えは見付からなかったのか、エイトは静かにノアの元へと視線を戻す。
瞳の奥にほんの少し縋るような色を宿して。
「......ダメ?」
当然だ。
頷くべきだと理解しているのに、ノアの身体は動かなかった。
視界の端で宙に浮くディスプレイを捉える。
『承認』の文字は、まだ変わらずそこにあった。
触れないようにと壁にしていた手が重力のままに下がる。
僅かな沈黙を勝手に肯定と受け取ったのか、再び呼吸が触れる。
本来すべき制止も。一度は拒むために触れた指も。
ほんの少し気を抜けば、ディスプレイに目をやる度に恐怖に震え出してしまいそうだった肩も。
再び唇が触れた瞬間、全ての意志は強引に掻き消され、消えた。