Episode 10 — Goodnight
「......エイト......」
呼吸の合間に名を呼ぶ。
相変わらず制止の言葉は口に出来ないものの、名を呼ぶだけの自由はあるようだった。
研究者とは厄介な生き物のようで、この期に及んでもなお頭のどこかで新たな情報を探し続けている。
思考さえままならない状況下で、何が出来るのか。
どこまで自分の身体は意志に追従してくるのか。
名を呼べば、ノアを椅子に押し付けて首筋に牙を突き立てようとしてくるこの兵器が、次の言葉を待って動きを止めることは分かった。
「......っ」
だが、冷たい指が悪戯に首筋を這うなり、熱い息が絡んだ声が漏れる。
それを振り払うための腕は動かない。
『抵抗をさせるな』
どこまでも、かつて自分が設計した通りの現象だった。
「クソ......」
悪態は許されるようだ。
名を呼び続けてエイトを待機させているおかげで、少しばかり意志が身体に戻ってくる。
視線を上げれば、まるで姿勢だけは忠犬のようにノアの指示を待ち続けているエイトがいた。
その張本人から指示を出す術を奪っている自覚は無さそうな表情だった。
「......お前、生きてる人間はもう襲うなよ」
やっとの思いで言葉にしたのはそれだった。
理由はもう分からない。
エイトがもしこの先、霧の中で一人生きていくとして、そこに人間はいない。
少なくとも国二つを丸々呑み込むであろう、死の霧の届く範囲には。
言葉を受け取った当の本人もまた首を傾げる。
「なんで?」
真っ当な問いだった。
人間を食うように造った。だというのに、それを禁じるような命令を出している。
ノアは自分の言葉の答えを探るように、僅かに視線を泳がせた。
嘘は吐かない性分だ。そもそも得意ではない。
「......創造主の味を忘れるのは勿体ないだろ」
今から兵器に倫理観などというものを教え込む時間はない。
そんな言い訳の上で出てきたのは、妙な理屈だった。
正気の時では間違っても口に出来なかっただろう。
だが、エイトが納得するには十分な理由だったようだ。
「うん」
短い返事が戻り、そしてまた冷たい吐息が首筋に触れる。
視線を落とした先でネクタイは解け役割を失っていた。
シャツのボタンも何かの拍子に千切れて無くなっている。
大きく開かれた襟から覗いた肩に、鋭い牙が触れた。
ノアは視線だけをデスクへと向ける。
ずっと点灯状態だった『承認』の文字が一度点滅し、『発動』へと切り替わった。
乾いた唇から無意識に浅い笑いが零れ落ちる。
かろうじて動く片手で耳に掛かったままの眼鏡を外し、静かにデスクの上へと置いた。
直後、二本の鋭い牙が肩口へと突き刺さる。
今度は名を呼ばず、制止もしなかった。痛みの代わりに痺れるような熱が走る。
「っ......ん、」
喉の奥で詰めた息が籠った音に変わった。膝が震えて僅かに背がしなる。
半ば無意識にエイトの服へと指が伸び、縋るようにそれを掴む。
耳元で液体を啜る音が聞こえた。
また朦朧としていく意識の中で、ノアは未練がましくもう一度青白い光を放つディスプレイへ目を向けた。
自分は本来卑怯で、かつ臆病な性根だ。
終焉が目前に迫るこの時、一人きりの部屋の隅で膝を抱えて震えあがっているのではと予想し、自嘲したことがある。
兵器として作った妙な個体の腕の中で見苦しく身悶えているなど、想像できるはずもなかった。
恐怖はない。
後悔も、もう霞んで消えた。
酩酊に近い、根拠のない多幸感だけがあった。
過去の自分がそうあるようにと造った。
それを掲げて、この兵器は人道的なのだと日々主張したものだ。
「......大した人道だ......」
零した皮肉が声になったかは分からない。
だが、その声に反応したエイトはまた顔を上げた。
唇から零れ落ちた赤い液体を顎にまで伝わせながら、呼吸さえも触れる位置からノアを見下ろしている。
怪物と定義して名付けた、その姿に相応しいと、霞んだ思考のどこかで思った。
「エイト」
今度発した声は確かな輪郭を持っていた。
目の前の金の瞳は静かな瞬きで応える。
「......お前の、おかげで」
最期は孤独ではない。
そんな一言は深く酔ったような意識の中でも、紡ぐことは出来なかった。
代わりに腕を伸ばし、エイトの服を引いて距離を埋めさせる。
唇が重なり、舌先が触れ合った瞬間、残った思考さえも掻き消えていくのが分かった。
最後に持ち上げた指先を柔らかな金の髪へと差し込み、一度毛先まで撫でた。
もう言葉一つ紡げないまま、自分のものではないような吐息の音を聞く。
「ノア」
唇が僅かに離れ、暗くなっていく視界の向こうで自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「おやすみ」
どういう理由でそんな言葉を選んだのか、考えることはもう出来ない。
もう呼吸を数えるような間に終焉が訪れようというのに、場違いなほど穏やかな表情が見えた気がした。
頬に触れた手のひらの温度にほんの少し擦り寄って、ノアは静かに瞼を落とす。
まだ兵器が目覚めなかった頃、それの前を離れる際に、気紛れにそんな言葉を掛けた。
微睡みの中で浅い夢を見るように、ほんの一瞬、そんな記憶が過る。
だがそれもすぐに形を無くし、暗闇の中へ溶けて消えた。
部屋を閉ざした扉の向こうでは、終焉を告げる霧が音もなく街を包み込んでいた。
その白い世界で何が起こったのか、誰かが綴った記録が後の世に残ることはなかった。