Episode 3 — Unease
エイトは両手首を手錠で固定されたまま軽々と車から脱出し、更にノアを引っ張り出した。
ノアはすぐに運転席を調べようとしたが落下の衝撃のせいで車体の前側はほとんど潰れてしまっており、歪んだ扉も開きはしなかった。
もし開いたところで中の人物と感動の再会とはいかなかっただろう。
結局、見ない方がましだという結論に辿り着いた。
「......最悪だ」
ノアは片手で額を押さえ、一人呟いた。
目的地である軍本部まで向かうはずだった車両はもう動かない。
傍には死刑囚が一人。
それが暴れた時に制圧出来るはずだった軍人達はもういない。
ノアは軍に所属してはいるが正式には軍人ではない。
魔導科学局と呼ばれる、この国を支える技術の中枢。その局長――代理だ。
局長の座に就いていた人物は先日亡くなり、遺言で指名されたのがノアだった。
当然、次期局長の座を狙っていた者達からの反発は大きく、ノアもその地位を望んではいない。
だが既に公にされてしまった遺言を無視することも出来ない。
現状、正式な決定までは代理という立場を渋々受け入れている。
その矢先のことだった。
「俺の暗殺目的じゃねえだろうな......」
冗談交じりに口にして背筋が冷えた。
そもそも脱走した死刑囚を追うのに、名指しでの命令が下った時点で不自然だった。
軽く頭を振って余計な思考を追い出す。
知らぬ間に動揺していた意識を深呼吸で落ち着けて、傍らに佇んだままのエイトへと視線を向ける。
「......いや、やるべきことは単純だ。まずは囚人を軍に引き渡す。だが、それはお前が逃げ出さなきゃ――の話だ」
そう言いながらノアは白衣の下から手錠を引っ張り出す。
エイトの手首に既に巻かれている物と同じ構造だ。
それの片方をエイトの左手首に重ねて嵌め、反対側は自分の右手首に嵌める。
二人の手首の上に青い光の線が走った。正常に拘束出来ている証拠の色。
当然、ノアの制御一つで解錠は自由だ。
「いいか? これでお前は逃げられない。俺をブラ下げて引きずったまま走り回るわけにもいかねえだろ。大人しくしてろ」
「俺は逃げない。そう言っただろ」
「............」
あまりに迷いのないエイトの言葉にノアは眉根を寄せる。
何故、と問おうとして一度口を噤んだ。
その理由は今必要なものではない。
何より、どうにも胡散臭いこの囚人から受け取る情報は僅かでも少ない方が我が身のためだ。
ノアは自身のこめかみに指を当て、脳機接続端子を通して直接軍の本部への通信を試みる。
だが、普段はすぐに繋がるはずの通信は何度掛けても応答しなかった。
脳機接続端子の故障を疑うものの、車も、そして手錠も正常に反応している。
僅かに首を傾げた後、ノアはエイトへと繋がる手錠を引いた。
するとエイトは何の躊躇いもなく半歩ノアへと距離を詰める。
瞬間、鼻先を掠めた匂いにノアは双眸を瞬かせた。
「待て。お前、これ――」
エイトの上着を掴み、鼻先を近付ける。
崖から車両が転がり落ちている間、自分を抱えた何かの記憶が今更に蘇った。
あちこちに身体を打つ間、この匂いが自分を包んでいたことも。
顔を上げると、ノアよりも少し低い位置にある金の瞳が、興味深そうな色を湛えてノアを見ていた。
「あの事故の中、俺を庇ってたのか?」
そう口にして、自分で馬鹿馬鹿しいと思った。
受け身一つ取れない衝撃の中で、他人を庇うなど出来るはずもない。
ましてやエイトにとってノアは命を奪いに来たも同然の人物だ。
救う理由すら見当たらない。
だが、他の軍人は皆息絶えた中で自分は多少手足を打ち付けただけ。
エイトに至っては傷一つ作っていない。
馬鹿馬鹿しい説が妙な生々しさをもって、目の前にあった。
そして目の前の青年もまた、それを否定しなかった。
「あんたに死なれると困る」
ノアの問いに僅かに首を傾けた後、エイトはそうとだけ答える。
返す答えを見失ってノアが目を丸くしている間も何も言わず、むしろなぜ疑問に思うのかとでも尋ねたそうに。
そんなことが可能なのか。
なぜ俺を庇った。
その言葉の理由は。
事故の直前、お前は何に気付いていた。
詰問すべきことはいくらでもある。
だが、見上げた空は既に日が陰り始めていた。
まもなく夜がやってくる。
まだ山奥と呼んでも差し支えないようなこの場所で夜を迎えるつもりは更々無かった。
麓の方へと目を向ければ、多少距離はあるが街の明かりが見える。
ひとまず目的地は定まった。
「......行くぞ。黙って付いて来い」
そう一言告げると、エイトは浅く頷くだけで何の抵抗もせずに半歩後ろを歩き出す。
自らの足で、自分の命が断たれるその場所へ向かう道へと、躊躇いもなく踏み出していた。