Episode 5 — Consequence
その子供は神童と呼ばれた。
ある程度成長した後からは天才と呼ばれ続けた。
まだ幼いとさえ言える十代の頃に、国直属の研究所から招集を受けたのは、ノアにとって幸運だった。
同世代の子供達とはまるで話が噛み合わない異端児。
国中から集められた優れた頭脳を持つ大人達と、その子供は対等に議論を交わしてみせた。
そこに至って初めて、ノアの内に望みというものが生まれた。
この場所で認められたい。
迷いはなかった。
求められるままに研究を重ね、人によく似た兵器を作り出した頃には既に成人を迎えていた。
ようやく本格的に計画が始動する直前で、開戦間近と言われていた隣国との冷戦状態に突入したことだけが、唯一の誤算だったと言えるだろう。
その隙を突いたように、ある勢力から圧力が掛かる。
第八計画はあまりに非人道的すぎると。
戦の中で人道などあるものか。
兵士や民が死ぬよりはずっといい。
ノアはそう叫び続けた。その通りだと同調する者も多くいた。
理屈だけならば、そう間違ってもいなかっただろう。
だが実際のところ、この計画を完遂させなければ自分を認めさせられないという焦りによるものだったことは、今となっては自分が一番よく理解している。
結局、紆余曲折を経て第八計画は凍結となり、眠りにつかせていた被検体は全て破棄された。
天才と呼ばれ続けた人生で初めての、そして唯一の挫折だった。
――それでも更に数年が経つ頃には、ノアの心境に変化が訪れていた。
あの計画は凍結されて良かったのだと、そう思えた矢先の出来事だった。
*
「......あり得ない、第八の被検体は全て破棄したと......」
「破棄?」
「いや......全て、殺――」
ノアの喉の奥で不自然に声が詰まった。
目の前の人物を兵器だと認識するのであれば、破棄という単語が正解だろう。
だが人として扱うのであれば、かつて自分が造り上げたものに対して違う言葉を選ばなければならない。
当時はまだ若かった。幼かった。
命の重さなど理解出来なかった。
そう言い訳出来れば、どれほど楽だっただろうか。
動揺に息を震わせて黙り込み項垂れたノアの頬を、拘束されたままのエイトの両手が包む。
そうして顔を上げさせられた先で、静かな金の瞳と目が合った。
あまりに近すぎる、鼻先が触れそうなほどの距離だった。
「待っ――」
まずい、と思った時にはもう呼吸が重なった。
舌先が触れた瞬間、指先にまで貫くような痺れが走り、反射的にシーツを掴む。
「ッ、ん......!」
自分の喉の奥から聞き覚えのない音が漏れた。
だが、それを恥じる余裕もない。
ノアの脳裏ではあの頃の研究の風景が繰り返し再生されていた。
どれだけ効率的に獲物から栄養を摂取出来るか。
獲物から抵抗という手段を奪うにはどのように造ったらいいのか。
その身を自ら差し出すように仕向けられれば効率がいいはずだ。
全て計算していた。卓上で。計算式を解くように。
それが誰にどのような結末を招くかなど、気にも留めず。
その結果がこれだ。
身体中の血液が沸騰したのではと思うほどに体温が上昇する。
頬を強く固定されているわけでもないのに、顔を背けて逃げることが出来ない。
一瞬、唇が僅かに離れた距離を自分で追って埋めた自覚さえあった。
自分の身体が自分のものでなくなっていく感覚。
当然だ。
この国において幼い頃から天才と呼ばれた自分が、そう造ったのだ。
設計に狂いなどあるはずもない。
力の抜けた身体が倒れ、背中がシーツの上に落ちたと気付くのにすら数秒の時間を要した。
濡れた唇も知らぬ間に離れ、ノアを真上から見下ろすエイトの指先が黒縁の眼鏡を奪う。
「......なに、してる」
整わない呼吸の中、ようやく口に出来た言葉はそれだった。
腰を跨ぐように圧し掛かられているというのに、やめろとも、退けとも命じることが出来ない。
「ノア、さっき俺に聞いただろ。腹減ってないかって」
今度こそ背筋が凍った。
だが身体は僅かに身動ぎをしただけだった。
両手を手錠で拘束されたまま、それを鬱陶しそうにもせず、エイトはノアの襟元からネクタイを抜き取る。
シャツのボタンも外され、いとも簡単に首筋が外気に触れた。
「――いいよね」
確認のつもりなのか、短い問いが降る。
何も返せないうちに獣のものに似た鋭利な牙が皮膚に触れた。
咄嗟に手錠の嵌まってない方の腕を伸ばすが、それが身体を押し退けるよりも早く皮膚が裂けた。
鋭い牙が肉に突き立てられる感覚が生々しく伝わり、本来襲うはずの痛みの代わりに、先ほどの接吻の比ではない甘く鮮やかな痺れが全身を隅々まで駆け抜ける。
力を逃がす先を失った靴底が床を蹴るものの、抵抗と呼ぶには程遠い。
伸ばした腕は知らぬ間にエイトの背中へと回り、縋るようにそこにある布を握り締めていた。
手錠で繋がった方の手は伸ばすことさえ出来ない。
震えたその手を押さえ付けるようにエイトの指が重なる。
耳元で体液を飲み下す音が響き、反射で喉が反った。
「っ......う、ぁ......!」
傷口から溢れる血を吸い上げられ、エイトの喉が音を鳴らす度に膝が震え、理由もなく自分の口から声が零れ落ちる。
唇を噛んだところでそれは籠った音に変わるだけだった。
吸血鬼の唾液には特殊な効果がある。
獲物の抵抗の意志を削るだけではない。
恐怖心を遠ざけ、代わりに快楽に似たものだと脳を洗脳し、錯覚させる。
そして、やがて思考さえも鈍らせていく。
あの頃の自分にとっては慈悲のつもりだったのかもしれない。
あるいは、人道的だと言わしめるための手段だったかもしれない。
まさかそれが自分に向く日が来るなどとは夢にも思わずに。
「......、クソ......」
誰に向けたのかも分からない声が熱い吐息に混ざった。
エイトの指先がノアの指へと絡み、穿たれた小さな二つの傷へ唇が触れる。
その意味さえも理解しきれないまま、ノアは仄暗い部屋の中でも輝くような色をした金の髪を見上げていた。