第9話 若鶏のカラアゲの日と、常連のお婆さんの占い
土曜の昼下がり。「ミチクサ」の厨房には、若鶏の唐揚げの香味ソースの匂いが立ち込めていた。
「鍵城、揚げるの代わるぞ。お前、油はねで絆創膏増やす気か」
「大丈夫です、もう傷なんてないですよ」
「そういう油断が一番危ない」
そんな軽口の最中、カランとドアベルが鳴った。午後三時過ぎ。杖をつく音。
「フルーツソーダを、一つ」
常連お婆さんだった。窓際の一番奥の席に座り、いつものようににっこり微笑む。空がソーダを運ぶと、お婆さんは満足げにストローをくわえ、それから店内をゆっくり見回した。
その視線が、カウンター奥の片桐で止まった。
「......あら」
「はい、なんでしょう」
片桐が布巾で手を拭いて近づくと、お婆さんはじっと片桐の顔を見つめた。そして、いつもの調子でぽつりと言った。
「あんた、死相が出てるよ」
「またですか、お婆さん」
片桐は苦笑した。ジョウたちから話は聞いている。誰にでも言う、口癖のようなものだ。
しかし、お婆さんは続けた。
「違うのよ。あんたはね、ずっと『待ってる』顔をしてる」
片桐の手が止まった。
「三人分の席をね、ずっと空けて待ってる。カウンターの、一番奥の三つ。......あの子たち、いつかちゃんと帰ってくるよ」
「............は?」
店内の空気が、一瞬だけ静止した。
ジョウが、ちょうど運んでいた皿を落としかけて、慌てて持ち直す。空はきょとんと首を傾げていた。
「お婆さん、何の話を――」
「あら、私、何か言ったかしら」
お婆さんはもうストローを咥えて、窓の外を眺めていた。きょとんとした顔で。いつもの、何も分かっていない笑顔で。
「......認知症だからね」空が小声でジョウに耳打ちした。「適当だよ、適当。片桐さん、気にしないで」
「ああ、分かってる」
片桐はそう答えたが、その声は少し掠れていた。
(三人分の席を、空けて待ってる)
確かに、そうだった。カウンターの一番奥の三席だけは、混んでいても最後まで客を通さない癖が、片桐にはあった。何十年も、無意識に。誰にも話したことはない。空も、ジョウも、気づいていないはずだった。
*
閉店間際、お婆さんの娘が迎えに来た。
「すみません、また母が勝手に......ご迷惑をおかけしました」
「いえ、大丈夫ですよ。いつもご贔屓に」
片桐が会計を済ませていると、お婆さんがふと、レジ横に置いてあった古い写真立てに目を留めた。
「あら、綺麗な人」
髪の長い女性が笑っている、あの写真だった。
「莢ちゃん、元気だった?」
片桐の手から、釣り銭が落ちた。小銭が床に散らばる音が、静かな店内に響く。
「......お婆さん、今、なんて」
「なあに? 私、何か言った?」
お婆さんはもう、娘の腕にすがって、ぼんやりと外を見ていた。
娘が慌てて頭を下げる。
「すみません、母、時々変なことを言うんです。若い頃の知り合いの名前を、急に呼んだりして......。昔はね、この辺りで、ちょっと変わったお仕事をしていたらしくて」
「変わった、仕事......?」
「私も詳しくは知らないんです。母は、若い頃のことをあまり話さなくて。ただ、古いアルバムに、母が三人の若者と写っている写真があるんですよ。ここの店の前で」
片桐は、息を止めた。
「その写真、髪の長い女性と、飄々とした男と、生真面目そうな男が......」
「あら、ご存じなんですか?」
「いや......」
片桐は言葉を探して、結局、小さく笑った。
「......常連さんに、似た人たちがいましてね」
車のドアが閉まり、お婆さんが窓越しにこちらへ手を振った。にっこりと、全てを見透かしているようにも、何も分かっていないようにも見える笑顔で。
その唇が、声もなく、動いた気がした。
『――よかったね、マスター』
車が夜の街へ走り去っていく。
「......片桐さん?」
ジョウが心配そうに覗き込んできた。
「どうしたんですか。今日、ちょっと変ですよ」
「......なんでもない。ジョウ、今日の賄い、クリームコロッケだ。多めに揚げとく」
「え、マジですか! やった!」
はしゃぐジョウの横顔を見つめながら、片桐は思った。
あのお婆さんが何者だったのか、本当に何かを知っていたのか。真実は、おそらく永遠に分からない。ただの認知症の戯言かもしれない。それでも。
(待っててよかった、って言われた気がしたな)
片桐は火のついていない煙草を、灰皿の縁にそっと置いた。
カウンターの一番奥、三つの空席。その一つに、今夜は――ジョウが、賄いの皿を持って座っていた。
「片桐さん、これ本当に美味いです!」
「当たり前だ。伊達に何十年も、待ってたわけじゃない」
「え? 何を?」
「なんでもない。冷める前に食え」
窓の外では、夜の街の灯りが、優しく瞬いていた。