第10話 情報屋とフライパンの誓い
閉店後の「ミチクサ」。片桐が最後の戸締りを終え、
裏口の鍵を締めようとした時だった。
「――また同じ時間ですね、片桐さん」
軽やかな声が、路地の暗がりから滲むように響いた。
振り返るまでもなかった。皮膚の表面がざわつく、あの感覚。
片桐は鍵を持ったまま、ゆっくりと振り向いた。
黒い外套の男が、以前と変わらぬ佇まいで立っていた。
輪郭の曖昧な顔に、底の見えない笑み。
「懲りない奴だな」
「懲りるも何も、私はまだ何も終えていませんので」
片桐は溜息をついた。エプロンの紐に手をかけかけて、しかしその手を止める。
「そんな変装をしなくても分かるぞ。お前、解放派の者だろう」
男の笑みが、わずかに揺れた。愉快そうに、けれど少し驚いたように。
「......お気づきでしたか」
「三十年も向こう側にいれば、匂いくらい覚えてる。お前の歩き方、間の取り方――封印派の連中とは違う」
男は外套の裾を軽く払い、小さく一礼するような仕草を見せた。
「ご名答です。まあ、今は個人で便利屋をしております。あちこち嗅ぎ回って、価値のある情報を、価値のある相手に届ける」
「で、今夜は何を嗅ぎに来た」
「一つは、あの坊やのことです」
男の視線が、店の窓へと流れた。灯りの落ちた厨房。
ジョウが数時間前まで立っていた場所。
「正直に申し上げますとね、片桐さん。私、あの子のことが個人的に気に入っているんですよ」
「......なんだと」
「あの若さで、一人で喉から声紋鍵を出し、一人で影と渡り合う。技術は粗削りですが、芯があります。それに――怖がりながらも、逃げない目をしている。ああいう目は、久しぶりに見ました」
男の口調に、これまでのような嘲るような響きはなかった。むしろ、どこか懐かしむような、しみじみとした調子だった。片桐はそれを黙って聞いていた。
「ですが、今夜の本題は、あの子のことではありません」
男の目が、片桐に据わった。
「片桐さん、あなたにも、用があります」
「俺に?」
「解放派に、戻って来る予定はありませんか」
夜の空気が、一段と重くなった気がした。片桐は何も答えなかった。
男は構わず続けた。
「首領様が、お呼び掛かっています。三十年前、あなたが解放派から姿を消してから――いえ、あなたが姿を消した経緯を思えば、複雑な感情もおありでしょう。ですが、首領様は今でも、あなたの喉を高く評価しておられる。トレブルの遣い手は、そう多くありません」
「......」
「封印派との均衡も、近頃また崩れ始めています。あなたほどの経験者が、必要とされる場面は、これから増えていくでしょう。......お戻りいただければ、それ相応の地位を約束すると」
片桐は、しばらく黙っていた。夜風が、路地の隅に溜まった落ち葉を小さく鳴らした。
「――解放派の首領が何処のどいつか分からんが断る」
短く、迷いのない声だった。
「それにまだ解放派と封印派が、いつまでもいがみ合ってる。そんな世界には戻らない」
「片桐さん」
「解放派の言い分も、封印派の言い分も、聞き飽きるほど聞いた。どっちが正しいとか、そんなことはもうどうでもいい。あの頃の俺は、それに命を懸けてた。......だが、もう懸けたくない」
片桐は、エプロンの紐に触れた。今度は、ほどかなかった。
「俺はフライパンを握ってる方が、幸せなんだよ」
男は、しばらく片桐の顔を見つめていた。値踏みするようでも、揶揄するようでもない、静かな眼差しだった。
「......ナポリタン、でしたか。店の看板メニューは」
「そうだが」
「今度、味わってみたいものですね。もちろん、店の表からきちんと」
「客として来るなら、いくらでも歓迎してやる」
片桐がそう言うと、男は珍しく、声を立てて小さく笑った。
「面白い方だ。首領様には、そのままお伝えしておきます。――『あの狸は、フライパンを選んだ』と」
「好きに伝えろ」
男の輪郭が、夜の闇に溶けるように薄れていく。消える間際、その声だけが、路地に微かに残った。
「片桐さん。あの坊やのことは、これからも見ています。......悪いようにはしませんよ、多分」
「多分、はやめろ」
片桐が言い返した時には、もう誰の気配もなかった。ただ、静かな路地に、片桐一人が立っているだけだった。
*
「......フライパンの方が幸せ、か」
呟いた声は、自分でも少し照れくさかった。だが、それは紛れもない本心だった。
片桐は空を見上げた。雲の切れ間に、頼りない月が浮かんでいる。
「あの三人なら、なんて言うかね、こういう時」
答える声は、もちろんなかった。ただ、遠くの街灯が一つ、ふっと瞬いただけだった。
片桐は小さく息を吐き、鍵を締め直すと、静かな足取りで自宅への道を歩き出した。明日もまた、いつも通りの顔で、いつも通りに店を開けるために。