第8話 三人分のオムライスと、夢の中の手当て
閉店後の「ミチクサ」は、換気扇の低い唸りだけが響いていた。
片桐はカウンターの奥で最後の洗い物を終え、エプロンで手を拭った。今日は珍しく客足が途切れず、腰の奥に鈍い疲れが居座っている。
「......歳だな」
苦笑しながら、カウンターの隅の椅子に腰を下ろす。火のついていない煙草を灰皿の縁に置き、写真立てにちらりと目をやった。
(鍵城のやつ、今日も手の甲を気にしてたな)
そう思ったのが最後だった。まぶたが重くなり、店内の灯りが遠のいていった。
*
「マスター、オムライス三人分で!」
弾むような声に、片桐は顔を上げた。
カウンター席が三つだけの、狭い店。まだ先代の看板が古びた木の匂いを残している頃の「ミチクサ」だった。三十代の片桐は、エプロンの紐を締め直しながら、
見慣れた顔ぶれに目をやる。
長い髪を揺らして笑う女性――莢。その隣で長椅子代わりにカウンターへ突っ伏している飄々とした男が来縁。そして少し離れて、生真面目に背筋を伸ばして座る宝璽。
「莢さん、いつものオムライス三つですね」
「うん、お願い。今日は来縁の行きつけって言ったのに、結局ここなんだよね」
「僕の行きつけはここだよ。宝璽が嫌がらない唯一の店だからね」
「......静かだからだ」
「ほら、褒めてる」
来縁が笑い、宝璽が小さく舌打ちをする。莢がそれを見て肩を揺らした。
片桐はそのやり取りを聞きながら、鉄板の上でチキンライスを返した。ケチャップの甘酸っぱい匂いが、狭い店内に広がっていく。
三人が何者なのかは、片桐はもう知っていた。
ある夜、閉店間際に店の裏で見てしまったのだ。声を鍵に変えて、黒い影と戦う三人の姿を。翌日、何食わぬ顔で三人分のオムライスを出した片桐に、莢は一瞬目を丸くして、それから困ったように笑った。
『......見ちゃった?』
『何も見てませんよ。オムライス、冷めますよ』
それきり、誰も何も言わなかった。それが、この店の流儀になった。
*
それからある夜のことだった。
裏口の扉が乱暴に開いて、莢が転がり込んできた。
「ごめん、マスター、ちょっとだけ......」
左の二の腕から血が滴っていた。浅くはない。皮膚の縁が、微かに変色している。
「座って。すぐ救急箱持ってきます」
「大丈夫大丈夫、かすり傷だから」
「かすり傷の出血量じゃないでしょう」
片桐は有無を言わせず莢を椅子に座らせ、袖をまくった。傷口を見て、眉を寄せる。
「......これ、普通の刃物じゃないですね」
「あはは、分かる?」
「治り方が違う。外側から内側に、変な捻れ方をしてる」
自分でも、なぜそんなことが分かるのか不思議だった。ただ、この数ヶ月、三人の傷を手当てするうちに、いつの間にか目が覚えていたのだ。
消毒液を塗ると、莢が小さく息を詰めた。
「痛かったら言ってください。我慢するのが偉いわけじゃない」
「......マスター、優しいね」
「うちの常連が、店の前で倒れたら困るだけです」
「またそうやって照れる」
莢は笑った。血の気の引いた顔で、それでも屈託なく。
片桐は新しい絆創膏を丁寧に貼り、莢の腕をそっと離した。
「あのね、マスター」
「はい」
「私にね、子供ができたの」
片桐の手が止まった。
「まだ、宝璽にも来縁にも言ってない。でもね、この子が大きくなった時、ちゃんと笑える世界にしたいなって思うの」
莢は自分の腹にそっと手を当てた。その仕草が、あまりにも穏やかで、あまりにも真っ直ぐで。
「......そうですか」
それだけしか、片桐には言えなかった。
「男の子でも女の子でも、いつかここに連れてくるよ。マスターのナポリタン、食べさせたいから」
「その時は、クリームコロッケも付けますよ」
「あ、それ絶対喜ぶやつ!」
莢がまた、声を上げて笑った。
*
気づくと、店内は暗かった。
換気扇の低い唸りだけが響いている。カウンターの隅で、片桐は椅子に座ったまま目を開けた。
「......夢、か」
灰皿の縁の煙草が、置いたままの位置にあった。壁の時計は、閉店から十分と経っていない。
片桐はしばらく動けなかった。手のひらに、まだ莢の腕の温度が残っているような気がした。
(あの傷の手当て......)
この間の昼、ジョウの左手を取った時の感触が、夢の中の莢の腕と重なる。妙な捻れ方をして治ろうとする傷。慣れた手つきで消毒をした自分の指先。
そして、傷を隠そうとして目を逸らさなかった、あの真っ直ぐな目。
「......まさかな」
呟いて、片桐は首を振った。
鍵城。苗字が「鍵」の字を持つ人間なんて、探せばいくらでもいる。
手の甲に貼られた絆創膏も、笑った時の目尻の形も――全部、ただの偶然だ。
あの子が莢の子だなんて、そんな都合のいい話があるわけがない。
そう思いながら、片桐は火のついていない煙草を指先で挟み直した。
写真立ての中で、髪の長い女性が笑っている。
「......なあ、莢ちゃん」
誰にも届かない低さで、片桐は写真に向かって言った。
「あんたの言ってたクリームコロッケ、食わせてやれる子が、うちに居るんだよ」
答えはなかった。当然だった。
それでも片桐は、少しだけ口元を緩めた。
明日の日替わりは、オムライスにしよう。それと、賄いには唐揚げとクリームコロッケを。ジョウが好きなやつを、多めに。
片桐は灯りを落とし、店を後にした。
窓の外の夜の街は、いつもと変わらず静かに瞬いていた。
(――もう少しだけ、遠くから見ててやるか)
その呟きは、今夜は少しだけ、あたたかかった。