第7話 フルーツソーダ運勢の行方
そのお婆さんは、いつも同じ時間に現れた。
午後三時過ぎ、客足が落ち着く頃合いに、
杖をつきながらゆっくりと店に入ってきては、
決まって同じ席――窓際の一番奥のテーブルに座る。
そして、決まって同じものを注文した。
「フルーツソーダを、一つ」
しゃがれた、けれどどこか品のある声。
小柄な体に、上品な花柄のワンピースをきちんと着こなし、
白髪をきっちりとまとめている。もう何度も通っている常連だったが、
名前は誰も知らなかった。
「はい、フルーツソーダお待たせしました」
ジョウがグラスを運ぶと、お婆さんはいつものように、にっこりと微笑んで受け取った。
「ありがとうねぇ、坊や」
坊や呼ばわりされることに、ジョウはもう慣れていた。むしろ、その響きにどこか懐かしさすら覚えていた。
その日も、お婆さんはストローに口をつけ、ゆっくりとソーダを味わっていた。
ジョウが伝票を渡そうと近づいた、その時。
お婆さんが、ふいにジョウの顔をじっと見つめた。
「......坊や」
「は、はい?」
「あんた、死相が出てるよ」
「――え?」
ジョウの動きが、ピタリと止まった。
「顔色がねぇ、悪い。目の下に、黒い影がかかってる。近いうちに、大変なことになるよ」
淡々とした口調が、逆に不気味だった。ジョウは思わず自分の頬に触れる。
「そ、そうですか......気をつけます」
「気をつけて、どうにかなるもんでもないけどねぇ」
お婆さんはそう言うと、また何事もなかったかのようにストローを咥え、
ソーダをすすり始めた。ジョウは曖昧に笑いながら、その場を離れた。
(な、なんだったんだ、今の......)
正直、気味が悪かった。だが同時に、深く気にも留めなかった。
ただの世間話のような、老人特有の思いつき発言だろう、と自分に言い聞かせた。
*
その夜。
いつもの巡回で、封印空間の歪みを察知したジョウを含め三人は、
そこに潜んでいた予想外の数の異型と鉢合わせた。
数体程度だろうという事前の見立てが甘かった。
実際には十体近い群れが、崩れかけた建物の陰で息を潜めていたのだ。
「多い......!」
ジョウが叫んだ瞬間、包囲するように群れが動いた。
二人の仲間がそれぞれ半数を引き受けたが、残る数体が、
まるで狙いすましたようにジョウ一人へと殺到した。
「ぐっ......!」
一体の爪を辛うじて弾いたが、直後、死角から放たれた別の一体の一撃が、
防御の隙間を正確に抉った。視界が一瞬、真っ白に染まる。
(――やられ、る......!)
「ジョウッ!!」
低声の仲間の怒声と共に、群青の光が割り込んだ。
重い一撃が、ジョウを狙っていた影を強引に弾き飛ばす。
同時に、高声の仲間が放った白銀の閃光が、背後からもう一体の輪郭を切り裂いた。
「......っ、ありがとう......!」
ジョウは尻もちをついたまま、荒い息を吐いた。
あと一歩、二人の反応が遅ければ、確実に致命傷を負っていた。
九死に一生とは、まさにこのことだった。
「油断するな」
低声の仲間が短く言う。ジョウは頷きながらも、
ふと、昼間の言葉を思い出していた。
(......死相って、これのことだったのか?)
背筋が、ぞくりとした。
*
翌日、バイトに出たジョウは、どこかそわそわとした様子で接客をこなしていた。
空にも「今日、変な顔してるよ」と指摘される始末だったが、
理由を話すわけにもいかず、曖昧に笑って誤魔化した。
午後三時、いつも通りお婆さんが現れた。
「フルーツソーダを、一つ」
「は、はい......!」
いつもより素早く駆け寄って注文を取ったジョウを、
お婆さんは不思議そうに見上げた。
「あの、昨日、死相って仰いましたよね......」
「そうだったかねぇ」
お婆さんは、あっさりとそう返した。ジョウはやや拍子抜けしながらも、
続きを待った。
「......坊や、今日は顔つきがまるで違うねぇ」
お婆さんが、目を細めてジョウをじっと見つめる。
「良相が出ていますよ。これから、運が良くなる」
「ほ、本当ですか!?」
思わず声が弾んだ。あの後、間一髪で命拾いした自分にとって、
その言葉はあまりにもしっくりときた。
「まさか、占い師とかだったんですか、おばあさん」
「占い師ねぇ......さぁ、どうだったかしらねぇ」
お婆さんは曖昧に微笑んで、ソーダをすすった。ジョウはすっかり感心してしまい、その日一日、どこか浮ついた気分で仕事を続けた。
*
閉店間際、お婆さんが会計を済ませて店を出ると、
店の外にはすでに、迎えの車と、疲れた表情の娘らしき中年女性が待っていた。
「お母さん、また勝手に出歩いて......ほんとに心配したんだから」
「あら、あんた誰?」
「私よ、娘の美津子。もう、毎回同じこと言わないでよ」
娘がため息交じりに、お婆さんの肩をそっと支える。お婆さんはその手を振り払うでもなく、ただぼんやりと娘の顔を見上げた。
そして、ふいに――さっきジョウに向けた時と、全く同じ調子で言った。
「あんた、死相が出てるよ」
「はいはい、また始まった」
娘はもう慣れきった様子で、軽く受け流す。
「あんたはねぇ、明日、死ぬよ」
「はいはい、分かりました分かりました。お母さん、帰りますよ」
娘はさっさとお婆さんの背中を押し、迎えの車の方へと促した。
店の窓越しにその光景を偶然目にしていたジョウは、思わず固まった。
(え......? 今、娘さんにも同じこと......)
ガラス越しに、ジョウの視線に気づいたのか、
お婆さんが最後にちらりとこちらを振り返った。
にっこりと微笑み、小さく手を振る。全てを見透かしているようにも、
何も分かっていないようにも見える、不思議な笑顔だった。
車のドアが閉まり、そのまま夜の街へと走り去っていく。
ジョウはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「......鍵城くん、どうしたの? 幽霊でも見た?」
いつの間にか隣に来ていた空が、怪訝そうに首を傾げる。
「いや......あのお婆さん、実は占い師だったのかなって思ってたんだけど」
「あー、あの常連さんね。占い師じゃないよ」
空があっさりと言った。
「前に、迎えに来た娘さんと話したことあるもん。あの人、ちょっと認知症が進んでて、時々家から一人で出ちゃうんだって。だから、いつも心配して迎えに来てるみたい」
「......え」
ジョウの中で、昨日の「死相」と今日の「良相」、そして娘への「明日死ぬ」という言葉が、一気に一つの結論へと収束していった。
(じゃあ、あれ......全部、適当だったってこと......?)
「なんかいつも、誰にでも死相がどうとか言ってるらしいよ。娘さんも慣れてるみたいで、全然気にしてなかった」
空は笑いながら、テーブルを片付け始めた。
ジョウはしばらく、放心したような顔でその場に立ち尽くしていた。
昨夜、九死に一生を得たのは、紛れもない事実だった。
仲間の助けがなければ、確かに危なかった。それは間違いない。
だが、あの言葉が本当に何かを見抜いていたのか、
それとも――ただの、偶然の一致だったのか。
「......まあ、いっか」
ジョウは小さく笑って、頭を切り替えることにした。
真実がどうであれ、あの日、仲間に助けられたことも、
こうして無事に日常を過ごせていることも、変わらない事実なのだから。
*
厨房の奥で、片桐がその一部始終を、洗い物をしながらこっそりと聞いていた。
「......占い師、ねぇ」
片桐は小さく鼻を鳴らして笑った。
「まあ、当たるも八卦、当たらぬも八卦ってやつだな」
呟きながら、片桐はふと、窓の外に目をやった。
夕暮れの空が、いつも通り、オレンジから紫へと色を変えていく。
まるでフルーツソーダの様なグラデーションを綺麗に流していた。
何気ない、けれど確かな日常の色だった。