ホーム›法鍵士は夕暮れに鳴る・外伝:ミチクサ日和›第5話 何食わぬ顔のナニカ
← 次の話目次前の話 →

第5話 何食わぬ顔のナニカ

その夜、空はいつもより少し遅い時間に「ミチクサ」を出た。
「お疲れー、また明日」
片桐に軽く手を振り、路地を歩き出す。夜風はもう秋の匂いを含んでいて、
頬に触れると少しひんやりした。空はポケットに手を突っ込み、
鼻歌交じりに歩調を緩める。
大学裏の細い通りに差し掛かったところで、
ふと背後に何かの気配を感じた気がした。

「......気のせいかな」

振り返っても、街灯に照らされた誰もいない道があるだけ。空は肩をすくめて、
また前を向いた。
その「気のせい」は、しかし気のせいではなかった。
塀の陰、街路樹の根元の暗がり――そこに、輪郭のはっきりしない、
大型犬ほどの影がじっと蹲っていた。空の後ろ姿を、じっと見つめている。
息遣いのようなものはない。ただ、じわりじわりと、空との距離を詰めようとする、明確な意志だけがそこにあった。

空は、気づかなかった。影が、じりじりと距離を詰める。あと数メートル。
その時。
塀の上から、何かがひらりと降りてきた。
音はしなかった。ただ、空気がほんの少し、揺れただけ。
小さくて丸い、耳のような突起のあるそれが、影と空の間に、
まるで最初からそこにいたかのように、すとんと降り立った。
影が、動きを止めた。丸い塊――モチに向かって、明確な敵意を放つ。
だが、次の瞬間には、その影は、もう存在していなかった。
一瞬だった。モチが、ふよりと一度だけ大きく揺れた――それだけで、
影は輪郭ごと、音もなく霧散した。跡形も残らない。悲鳴すらなかった。

空は、何も気づかなかった。イヤホンから流れる曲のサビに合わせて、
小さく口ずさみながら、変わらぬ足取りで歩き続けている。
モチは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
それから、何事もなかったかのように、ふよふよと宙を漂いながら、
空の隣に並んだ。

「――あ、モチじゃん」

ようやく気づいた空が、嬉しそうに声を上げた。

「珍しいね、外で会うの。いつも店の裏でしか会わないのに」

モチは、答える代わりに、くるんと一回転した。まるで、何事もなかったような、
いつも通りの仕草で。

「明日もお店寄ってく? 賄い、また分けてあげる」

空は当然のようにそう誘い、モチは当然のようにその場を回りながら付いて行く。
空の足取りに、緊張も恐怖もなかった。ただ、いつも通りの夜だった。

*

「あ、もしかしてモチ来てる?」
翌日。裏口の扉を開けたジョウが、空に招かれるまま出てきたモチを見て、
思わず声を上げた。
相変わらず、ジョウの目にはその輪郭がぼんやりとしか見えない。
喉の奥も、鳴らない。異型のはずなのに、明確な脅威として認識されない、
不思議な存在。

「今日はミチクサまで一緒に来たんだよ。珍しいでしょ」
「へー......」

ジョウはモチをじっと見つめた。理屈では説明できない、
なんとも言えない懐かしさが、胸の奥にじんわりと滲む。

(なんだろ、この感じ......)

モチが、ジョウの視線に気づいたのか、くるん、とまた回った。
心なしか、機嫌が良さそうに見えた。

「鍵城くんにも懐いてきたんじゃない?」
「そ、そうかな」

ジョウは苦笑いしながら、なんとなく手を伸ばしてみた。
指先が、ひんやりとした、でもどこか温かい何かに触れる。
感触があるということは、確かにそこに存在している証拠だった。
その瞬間、ジョウの喉の奥が、ほんの微かに――
これまで一度も感じたことのない種類の振動で、小さく震えた。
言葉にならない、けれど確かな何か。
懐かしさとも呼べる、もっと深い場所からの共鳴。

「......ん?」

ジョウは首を傾げた。モチはすでに手を離れ、いつも通り空の足元へと戻っている。空は不思議そうにジョウを見た。

「どうしたの、鍵城くん」
「いや......なんでもない」

ジョウはそれ以上、うまく言葉にできなかった。ただ、モチの正体について、
これまで感じていた「危険かもしれない」という漠然とした不安が、
今この瞬間、静かに――別の何かに変わっていくのを感じていた。

*

その夜遅く、片桐は店じまいをしながら、
裏口の外に佇むモチの姿をそっと見つめていた。

「......お前、やっぱりそうか」

呟きに、モチが答えることはなかった。ただ、片桐の方をゆっくりと向いて、
ほんの一瞬だけ、動きを止めた。

「随分と、腕を上げたんだな」

片桐は苦笑した。三十年前、まだ小さかったその丸い塊が、
以前の仲間の足元でくるくると転がっていたのを覚えている。
あの頃はまだ、大した力もない、ただの愛らしい塊でしかなかった。
今は違う。

「あいつを、ずっと見守ってたのか?一体どうして?」

モチは答えない。ただ、いつものように、ふよりと一度揺れただけだった。
片桐はそれを、肯定と受け取ることにした。

「......そうか」

それ以上、片桐は何も聞かなかった。ただ、静かに頷き、
エプロンの紐をほどきながら、店の奥へと戻っていった。
モチは、しばらくその場に留まっていた。それから、何事もなかったかのように、
暗がりへと、ふわりと溶けるように消えていった。
明日もまた、空の元へ。そして、ジョウの傍へ。
誰にも気づかれないまま、静かに、確かに。
シェア
前の話 →
第4話 ピザトーストとナモナキ影
← 次の話
第6話 新プリン、はじめました
法鍵士は夕暮れに鳴る・外伝:ミチクサ日和作者:福天六(ふくたむ)
目次を見る
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません
ホーム›法鍵士は夕暮れに鳴る・外伝:ミチクサ日和›第5話 何食わぬ顔のナニカ
← 前の話目次次の話 →

第5話 何食わぬ顔のナニカ

その夜、空はいつもより少し遅い時間に「ミチクサ」を出た。
「お疲れー、また明日」
片桐に軽く手を振り、路地を歩き出す。夜風はもう秋の匂いを含んでいて、
頬に触れると少しひんやりした。空はポケットに手を突っ込み、
鼻歌交じりに歩調を緩める。
大学裏の細い通りに差し掛かったところで、
ふと背後に何かの気配を感じた気がした。

「......気のせいかな」

振り返っても、街灯に照らされた誰もいない道があるだけ。空は肩をすくめて、
また前を向いた。
その「気のせい」は、しかし気のせいではなかった。
塀の陰、街路樹の根元の暗がり――そこに、輪郭のはっきりしない、
大型犬ほどの影がじっと蹲っていた。空の後ろ姿を、じっと見つめている。
息遣いのようなものはない。ただ、じわりじわりと、空との距離を詰めようとする、明確な意志だけがそこにあった。

空は、気づかなかった。影が、じりじりと距離を詰める。あと数メートル。
その時。
塀の上から、何かがひらりと降りてきた。
音はしなかった。ただ、空気がほんの少し、揺れただけ。
小さくて丸い、耳のような突起のあるそれが、影と空の間に、
まるで最初からそこにいたかのように、すとんと降り立った。
影が、動きを止めた。丸い塊――モチに向かって、明確な敵意を放つ。
だが、次の瞬間には、その影は、もう存在していなかった。
一瞬だった。モチが、ふよりと一度だけ大きく揺れた――それだけで、
影は輪郭ごと、音もなく霧散した。跡形も残らない。悲鳴すらなかった。

空は、何も気づかなかった。イヤホンから流れる曲のサビに合わせて、
小さく口ずさみながら、変わらぬ足取りで歩き続けている。
モチは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
それから、何事もなかったかのように、ふよふよと宙を漂いながら、
空の隣に並んだ。

「――あ、モチじゃん」

ようやく気づいた空が、嬉しそうに声を上げた。

「珍しいね、外で会うの。いつも店の裏でしか会わないのに」

モチは、答える代わりに、くるんと一回転した。まるで、何事もなかったような、
いつも通りの仕草で。

「明日もお店寄ってく? 賄い、また分けてあげる」

空は当然のようにそう誘い、モチは当然のようにその場を回りながら付いて行く。
空の足取りに、緊張も恐怖もなかった。ただ、いつも通りの夜だった。

*

「あ、もしかしてモチ来てる?」
翌日。裏口の扉を開けたジョウが、空に招かれるまま出てきたモチを見て、
思わず声を上げた。
相変わらず、ジョウの目にはその輪郭がぼんやりとしか見えない。
喉の奥も、鳴らない。異型のはずなのに、明確な脅威として認識されない、
不思議な存在。

「今日はミチクサまで一緒に来たんだよ。珍しいでしょ」
「へー......」

ジョウはモチをじっと見つめた。理屈では説明できない、
なんとも言えない懐かしさが、胸の奥にじんわりと滲む。

(なんだろ、この感じ......)

モチが、ジョウの視線に気づいたのか、くるん、とまた回った。
心なしか、機嫌が良さそうに見えた。

「鍵城くんにも懐いてきたんじゃない?」
「そ、そうかな」

ジョウは苦笑いしながら、なんとなく手を伸ばしてみた。
指先が、ひんやりとした、でもどこか温かい何かに触れる。
感触があるということは、確かにそこに存在している証拠だった。
その瞬間、ジョウの喉の奥が、ほんの微かに――
これまで一度も感じたことのない種類の振動で、小さく震えた。
言葉にならない、けれど確かな何か。
懐かしさとも呼べる、もっと深い場所からの共鳴。

「......ん?」

ジョウは首を傾げた。モチはすでに手を離れ、いつも通り空の足元へと戻っている。空は不思議そうにジョウを見た。

「どうしたの、鍵城くん」
「いや......なんでもない」

ジョウはそれ以上、うまく言葉にできなかった。ただ、モチの正体について、
これまで感じていた「危険かもしれない」という漠然とした不安が、
今この瞬間、静かに――別の何かに変わっていくのを感じていた。

*

その夜遅く、片桐は店じまいをしながら、
裏口の外に佇むモチの姿をそっと見つめていた。

「......お前、やっぱりそうか」

呟きに、モチが答えることはなかった。ただ、片桐の方をゆっくりと向いて、
ほんの一瞬だけ、動きを止めた。

「随分と、腕を上げたんだな」

片桐は苦笑した。三十年前、まだ小さかったその丸い塊が、
以前の仲間の足元でくるくると転がっていたのを覚えている。
あの頃はまだ、大した力もない、ただの愛らしい塊でしかなかった。
今は違う。

「あいつを、ずっと見守ってたのか?一体どうして?」

モチは答えない。ただ、いつものように、ふよりと一度揺れただけだった。
片桐はそれを、肯定と受け取ることにした。

「......そうか」

それ以上、片桐は何も聞かなかった。ただ、静かに頷き、
エプロンの紐をほどきながら、店の奥へと戻っていった。
モチは、しばらくその場に留まっていた。それから、何事もなかったかのように、
暗がりへと、ふわりと溶けるように消えていった。
明日もまた、空の元へ。そして、ジョウの傍へ。
誰にも気づかれないまま、静かに、確かに。
シェア
← 前の話
第4話 ピザトーストとナモナキ影
次の話 →
第6話 新プリン、はじめました
法鍵士は夕暮れに鳴る・外伝:ミチクサ日和作者:福天六(ふくたむ)
目次
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません