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第9話



 畳が敷かれた書斎。室内は伝統的な調度品や現代的な機器が見事に融合を果たしている。

 この頃は寄る年波に悩まされるのか、風間邸の主である風間俊一は和装に老眼鏡を掛けつつデスクトップ前の椅子へ腰掛けながらキーボードをタップしていた。

 いくつかのメールの返信──差出人の大半は現役、或いは退役した米海軍側の将官達だ。彼等も随分と出世したものである。

 メールへの返信だけにとどまらない。彼はデスクトップでの作業を終えると、今度は机上の端へ重ねられた封筒の数々へ手を伸ばす。

 航空便エアメールのそれを摘み取った風間俊一は次いでペーパーナイフを握った。このペーパーナイフの素材は玉鋼──日本刀を鍛える為の素材と同様のそれが用いられている。過度な装飾はされておらず、外見は素朴の一言に尽きた。

 ペーパーナイフの先端を差し入れ、引きながら切り、開封した中身である便箋を彼は広げる。英文で綴られた内容──それを読んだ老人の口角が緩んだ。

 差出人も遂に退役が目前らしい。老後は大勢の孫に囲まれながら余生を過ごすことを楽しみにしている、とのことだ。

 その証拠として差出人は便箋だけでなく、一枚の写真も同封していた。誕生日会の光景なのだろう。すっかり禿頭の白人男性が腰掛けるソファ周りを年齢層が10代から乳児までと幅広い男女の子供達が親しげな様子で囲んでいる。差出人の腕には誕生して半年程度だという赤子が抱かれていた。

 羨ましいことこの上ない。孫のような存在はいるが、血の繋がった孫は果たしていつになったらこの腕に抱けるのやら。

 二人の息子へ口煩く言うつもりは毛頭ないが──老い先短い老人に少しばかりの楽しみを与えてくれても良かろう。

 埒もない想像を膨らませた後、風間俊一は机上へ白紙の便箋を広げ、万年筆を手に取る。

 筆記体で綴られる英文は、久しぶりに近況を報せてくれたばかりか直筆の手紙を頂いた旨へ関する感謝を差出人へ告げていた。

 ついでに利発そうな孫達が大勢いる点を羨ましく思う点も強調して綴るのも忘れなかった。

 万年筆を置き、インクが乾いていると認めた彼は均等に折り畳んだ便箋を封筒へ収める。しっかり封を閉じれば、あとは然るべき場所へ配達を依頼するだけだ。

「──旦那様。そろそろお時間です」

「──あぁ、絹子さんか。ありがとう。準備しよう」

 書斎の扉の向こうで家政婦の絹子が声を掛けて来た。

 機械式腕時計を巻いた左手首で刻まれる時間を見た風間俊一は腰を上げる。出掛ける準備をせねばならない。

 少々乱れていた襟を正し、着替えの為に書斎を出ようとする直前、彼の足が止まる。

 老眼鏡を外した老人──その生涯の半分を海上で過ごし、多数の艦艇や航空機、相当数の人員を指揮し、広大な海原と水平線の彼方を睨み続けた、かつての護衛艦隊司令官の鋭い眼差しが書斎の壁に掛けられた掛け軸に向けられる。



 安而不忘危
 存而不忘亡
 治而不忘乱

 ──安やすくして危あやうきを忘れず

 ──存そんして亡ほろぶるを忘れず

 ──治おさまりて乱みだるるを忘れず



 中国の古典、易経の一説を引用した漢文が墨書きされた掛け軸だ。

 泰平の時であっても戦乱や混乱の危機を忘れず、国家が存続している時も滅亡する事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れない──かなり掻い摘めば、平和な時代が続いたとしても万が一が起こった時を考え、備えを怠ってはならない、という戒めや教えの意味である。

「──忘れなどすまい。決して」

 鋭い眼差しのまま元海将は独り言ちた。

 




 ──それにしても良く食べる。

 風間拓海の食べっぷりにカタリナは感心するやら呆れるやらだ。

 射場で彼とその父は暫く稽古を共にしたが、先に父親である風間俊一は絹子を伴って邸内へ引っ込んだ。

 残されたのは風間拓海とカタリナのみ。蝉の声が振り注ぐ中、彼が矢を射る姿を彼女は飽きることなく眺めていた。勿論、監視を怠っていた訳ではない。風間拓海へ対して掛けられている容疑は晴れていないのだ。

 矢を回収し、弓の手入れ、掃除も済ませた後、彼は道場に足を運んだ。

 疲れないのだろうか、という率直な疑問も脳裏を過ったが、その片鱗すら見せずに風間拓海は板張りの道場の中で真剣を振るい始めた。

 休暇、そして帰省をしている筈なのだが、彼はゆっくりする、或いは息抜きをする、肩の力を抜くということを知らないのかもしれない。

 板張りの床の上で構えを崩さず、刀線刃筋を乱さぬまま振るわれる真剣の鋭い風切り音。

 全神経を集中させながらの稽古を眺めていたカタリナの耳朶を彼が放つ音とは異なる足音や声を拾ったのは、道場に来て1時間が経った頃だろう。

 アイスブルーの瞳が家政婦の真美子、その息子である竜也、そして子供の足元を付いていく柴犬の姿を捉えた。真美子は盆を携え、竜也は薬缶を重そうに両手で提げている。柴犬は──クルンと巻かれた尻尾を左右へ微かに揺らしていた。

 真美子が言うには食事を運んで来たとか。

 道場の中で真剣を振るう風間拓海へ家政婦が声を掛けると、彼は残心を解き、鞘へ静かに刀身を納めて息を吐いていた。道場の上座へ鎮座する刀掛台に真剣を預け、道着の懐から抜き取った手拭いを広げる。

 手拭いで汗を処理した後、道場の縁側へ腰を下ろした彼へ真美子がお絞りを差し出す。それを使って手を拭い──盆の上に置かれた大皿に鎮座する大きな握り飯を風間拓海が掴む。

 一合分はあろうかという程の大ぶりな握り飯には海苔が巻かれているだけ。それを彼は沢庵やきゅうり、カブの漬物と共に食し、竜也が両手で提げて運んで来た銅製の薬缶から湯呑へ麦茶を注いで嚥下する。薬缶の中には氷が詰められており、麦茶は良く冷えていた。

 ひとつを食べ終わったら、その手は二つ目を掴み、またバクバクと──あれだけ動いた後なのに良く腹へ入るとカタリナが考えるのも無理はない。

 体格に背丈も日本人男性の平均を上回っているのだ。相応に食事の量が多いのは、昨日、邸宅の全員で摂った夕食の席でも見ていたが、改めて見ると圧倒されそうだ。

『──食べるかね?』

『──いえ、お気持ちだけ頂きます』

 見詰められていると風間拓海も気になるらしい。カタリナへ英語で──彼女の耳には上流階級へ身を置く人物が放つ発音と響きにも聞こえるそれで問う。

 見ているだけで満腹になる気分なのもあって彼女は断った。

 その遣り取りを傍らで見守っていた真美子は──英語はそこまで分からないが、双方の醸し出す雰囲気で何事かは察せられる。苦笑いの表情を浮かべながら彼女は空いている湯呑へ麦茶を注いでカタリナへ差し出す。

「ありがとうございます」

「いえいえ、とんでもありません。拓海様、間もなく旦那様がお出掛けになられます」

「......あぁ、そんな時間か。ありがとう、真美子さん。竜也、じいさんに欲しい物を強請っておけよ」

「はーい!──あ、おじちゃん!」

「なんだ?」

「おとしだま、ちょーだい!」

「こら竜也!」

「......出港前にやっただろう」

 昨年、彼が米国でのトマホーク搭載の為に出港する直前、帰省した際、新年は共に迎えられないのもあって先払いは済ませているのである。

 風間拓海へ手を差し出しながら告げる竜也が忘れている──訳ではない。風間俊一から、けしかけられたのだろう。あれだけの額では足りないから、もっと寄越せ、と言ってみろ、だろうか。

 子供に何を言わせているのか──自身の父親へ呆れが籠もった溜め息を漏らしながら彼は握り飯を頬張り、漬物を指先に摘んで口に運ぶ。

 母親に叱られた竜也は柴犬を伴って逃げ出した。その後ろ姿へ呆れた眼差しを向けた後、真美子は雇い主の息子である彼へ深く頭を下げて謝罪する。

 気にしてはいない。機転が利いて実に結構──と風間拓海は返し、一刻も早く息子への教育的指導を行いたそうな真美子を送り出した。

 その配慮に再度、頭を下げ、今度は感謝を示した彼女が踵を返し、早足で竜也と柴犬が去った方角へ向かうのをカタリナや風間拓海は見送る。

『──真美子さんと竜也くんは風間1佐の奥様やお子様かと思いました』

『結婚はしていない。調べはついているだろうが、私は独り身だ。念の為に言うと婚外子もいない』

 勘違いされる場合もそれなりにあるのだろう。風間拓海は事もなげにカタリナへ返した。

 一般論となるが、彼の年齢であれば妻子がいても不思議はない。独身である点は資料にも明記されていたが、家政婦とその息子を目の当たりにしたカタリナは資料の記述が誤っていたのかと考えた程である。

 ひとつで一合分の米が使われた握り飯を合計三個──三合分のそれを平らげ、沢庵や漬物も腹へ収めた風間拓海は薬缶の取っ手を握り、手酌で自身の湯呑へ麦茶を注ぎ、続けてカタリナが細い指先で包んだ湯呑に濃い茶色の瞳を向ける。

 中身がほとんど残っていない様子を認め、彼は腕を伸ばして薬缶の注ぎ口を彼女の湯呑へ向かわせた。

 カタリナは軽く頭を下げ──妙に日本人めいた仕草を取りながら彼からの酌を受ける。薬缶が傾けられ、中へ詰められた氷がガランと鳴った。

 冷えた麦茶が注がれた湯呑の縁へ彼女は少し厚めの潤った唇を当て、一口を静かに嚥下する。

『──真美子さんと竜也については......少しばかり複雑な事情がある』

 聡明かつ察しの良い軍人──とカタリナを内心で評価している風間拓海は、彼が言うところの少しばかり複雑な事情を語った。

 真美子の交際相手だった警察官──との間に授かったのが竜也なのだが、その交際相手は職務中に殉職したのだとか。

 妊娠が発覚したのは交際相手の殉職から数ヶ月が経ってからだ。

 交際相手の実家は非常に厳格かつ頑固な家庭と両親だったらしく、亡くなった恋人との間に授かった子供が腹にいることを告げても信用されなかった。

 その娘の境遇に接していた母親の絹子のただならぬ様子に主人である風間俊一が真意を問うたところ、彼は真美子や生まれてくる子供の生活と面倒も引き受ける旨を即答したという。

『──......そして、現在に至る、ということですか』

『そういうことになる。......まぁ、声高に宣伝するような話でもないし、境遇や出生の事情よりもどう生きていくかの方が問題だ』

 そちらの方が余程、健全かつ建設的である──と言わんばかりに風間拓海は湯呑を傾け、冷えた麦茶を嚥下すると腰を下ろしていた縁側から立ち上がった。

 刀掛台へ預けていた真剣を回収し、彼は道場を後にするが、その寸前に上座へ向かって深く頭を下げてから雪駄を履いて外に出る。

 真剣を携えたまま彼はカタリナと共に移動し、風間邸の正面玄関へ向かう。

 ちょうど邸宅の主人である風間俊一が背広姿で出て来た所だ。

「──あぁ、拓海」

「──懇親会、だったか」

 都内で催される多数の海自OBや国防族と称される国会議員数名も含めた懇親会へ招待されており、その出席の為に今から風間俊一は出掛けるのだ。

「精々、昔話に花を咲かせて来るとしよう。──少佐、大したお構いも出来ませんが、どうぞごゆっくり」

「恐縮です、風間海将」

 頭を下げたカタリナへ風間俊一は鷹揚に頷いた。良く磨かれた革靴の具合を確かめる老人の傍らへクルマの鍵を持つ真美子、そして竜也が寄り添った。

 駅まで真美子が送り届ける手筈であるようだ。竜也は──おそらく暇潰しに同行するのだろうが、道中で風間俊一に買ってきて欲しい諸々を強請るつもりなのかもしれない。

 最後に玄関から絹子が、そして駆け寄って来た柴犬が集まる。

 支度が整ったことを認めた風間俊一は全員を──自宅へ残る絹子や息子、そして客人に柴犬へ視線を向けて一言を告げる。

「──行ってきます」

「──あぁ。いってらっしゃい」

「──お気を付けて」

 息子である風間拓海は頷く程度に頭を下げ、絹子は深い一礼で踵を返して漆喰が塗られた長屋門に向かって玉砂利が敷き詰められた歩道を進み始める風間俊一を見送る。

 老人は傍らを進む竜也と手を握り、送迎を買って出た真美子と共に歩む。

 その姿を風間拓海と絹子は見送った。

 この家に於ける見送りの儀式──めいたものなのかもしれないが、カタリナの目には登舷礼のようにも映った。

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 畳が敷かれた書斎。室内は伝統的な調度品や現代的な機器が見事に融合を果たしている。

 この頃は寄る年波に悩まされるのか、風間邸の主である風間俊一は和装に老眼鏡を掛けつつデスクトップ前の椅子へ腰掛けながらキーボードをタップしていた。

 いくつかのメールの返信──差出人の大半は現役、或いは退役した米海軍側の将官達だ。彼等も随分と出世したものである。

 メールへの返信だけにとどまらない。彼はデスクトップでの作業を終えると、今度は机上の端へ重ねられた封筒の数々へ手を伸ばす。

 航空便エアメールのそれを摘み取った風間俊一は次いでペーパーナイフを握った。このペーパーナイフの素材は玉鋼──日本刀を鍛える為の素材と同様のそれが用いられている。過度な装飾はされておらず、外見は素朴の一言に尽きた。

 ペーパーナイフの先端を差し入れ、引きながら切り、開封した中身である便箋を彼は広げる。英文で綴られた内容──それを読んだ老人の口角が緩んだ。

 差出人も遂に退役が目前らしい。老後は大勢の孫に囲まれながら余生を過ごすことを楽しみにしている、とのことだ。

 その証拠として差出人は便箋だけでなく、一枚の写真も同封していた。誕生日会の光景なのだろう。すっかり禿頭の白人男性が腰掛けるソファ周りを年齢層が10代から乳児までと幅広い男女の子供達が親しげな様子で囲んでいる。差出人の腕には誕生して半年程度だという赤子が抱かれていた。

 羨ましいことこの上ない。孫のような存在はいるが、血の繋がった孫は果たしていつになったらこの腕に抱けるのやら。

 二人の息子へ口煩く言うつもりは毛頭ないが──老い先短い老人に少しばかりの楽しみを与えてくれても良かろう。

 埒もない想像を膨らませた後、風間俊一は机上へ白紙の便箋を広げ、万年筆を手に取る。

 筆記体で綴られる英文は、久しぶりに近況を報せてくれたばかりか直筆の手紙を頂いた旨へ関する感謝を差出人へ告げていた。

 ついでに利発そうな孫達が大勢いる点を羨ましく思う点も強調して綴るのも忘れなかった。

 万年筆を置き、インクが乾いていると認めた彼は均等に折り畳んだ便箋を封筒へ収める。しっかり封を閉じれば、あとは然るべき場所へ配達を依頼するだけだ。

「──旦那様。そろそろお時間です」

「──あぁ、絹子さんか。ありがとう。準備しよう」

 書斎の扉の向こうで家政婦の絹子が声を掛けて来た。

 機械式腕時計を巻いた左手首で刻まれる時間を見た風間俊一は腰を上げる。出掛ける準備をせねばならない。

 少々乱れていた襟を正し、着替えの為に書斎を出ようとする直前、彼の足が止まる。

 老眼鏡を外した老人──その生涯の半分を海上で過ごし、多数の艦艇や航空機、相当数の人員を指揮し、広大な海原と水平線の彼方を睨み続けた、かつての護衛艦隊司令官の鋭い眼差しが書斎の壁に掛けられた掛け軸に向けられる。



 安而不忘危
 存而不忘亡
 治而不忘乱

 ──安やすくして危あやうきを忘れず

 ──存そんして亡ほろぶるを忘れず

 ──治おさまりて乱みだるるを忘れず



 中国の古典、易経の一説を引用した漢文が墨書きされた掛け軸だ。

 泰平の時であっても戦乱や混乱の危機を忘れず、国家が存続している時も滅亡する事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れない──かなり掻い摘めば、平和な時代が続いたとしても万が一が起こった時を考え、備えを怠ってはならない、という戒めや教えの意味である。

「──忘れなどすまい。決して」

 鋭い眼差しのまま元海将は独り言ちた。

 




 ──それにしても良く食べる。

 風間拓海の食べっぷりにカタリナは感心するやら呆れるやらだ。

 射場で彼とその父は暫く稽古を共にしたが、先に父親である風間俊一は絹子を伴って邸内へ引っ込んだ。

 残されたのは風間拓海とカタリナのみ。蝉の声が振り注ぐ中、彼が矢を射る姿を彼女は飽きることなく眺めていた。勿論、監視を怠っていた訳ではない。風間拓海へ対して掛けられている容疑は晴れていないのだ。

 矢を回収し、弓の手入れ、掃除も済ませた後、彼は道場に足を運んだ。

 疲れないのだろうか、という率直な疑問も脳裏を過ったが、その片鱗すら見せずに風間拓海は板張りの道場の中で真剣を振るい始めた。

 休暇、そして帰省をしている筈なのだが、彼はゆっくりする、或いは息抜きをする、肩の力を抜くということを知らないのかもしれない。

 板張りの床の上で構えを崩さず、刀線刃筋を乱さぬまま振るわれる真剣の鋭い風切り音。

 全神経を集中させながらの稽古を眺めていたカタリナの耳朶を彼が放つ音とは異なる足音や声を拾ったのは、道場に来て1時間が経った頃だろう。

 アイスブルーの瞳が家政婦の真美子、その息子である竜也、そして子供の足元を付いていく柴犬の姿を捉えた。真美子は盆を携え、竜也は薬缶を重そうに両手で提げている。柴犬は──クルンと巻かれた尻尾を左右へ微かに揺らしていた。

 真美子が言うには食事を運んで来たとか。

 道場の中で真剣を振るう風間拓海へ家政婦が声を掛けると、彼は残心を解き、鞘へ静かに刀身を納めて息を吐いていた。道場の上座へ鎮座する刀掛台に真剣を預け、道着の懐から抜き取った手拭いを広げる。

 手拭いで汗を処理した後、道場の縁側へ腰を下ろした彼へ真美子がお絞りを差し出す。それを使って手を拭い──盆の上に置かれた大皿に鎮座する大きな握り飯を風間拓海が掴む。

 一合分はあろうかという程の大ぶりな握り飯には海苔が巻かれているだけ。それを彼は沢庵やきゅうり、カブの漬物と共に食し、竜也が両手で提げて運んで来た銅製の薬缶から湯呑へ麦茶を注いで嚥下する。薬缶の中には氷が詰められており、麦茶は良く冷えていた。

 ひとつを食べ終わったら、その手は二つ目を掴み、またバクバクと──あれだけ動いた後なのに良く腹へ入るとカタリナが考えるのも無理はない。

 体格に背丈も日本人男性の平均を上回っているのだ。相応に食事の量が多いのは、昨日、邸宅の全員で摂った夕食の席でも見ていたが、改めて見ると圧倒されそうだ。

『──食べるかね?』

『──いえ、お気持ちだけ頂きます』

 見詰められていると風間拓海も気になるらしい。カタリナへ英語で──彼女の耳には上流階級へ身を置く人物が放つ発音と響きにも聞こえるそれで問う。

 見ているだけで満腹になる気分なのもあって彼女は断った。

 その遣り取りを傍らで見守っていた真美子は──英語はそこまで分からないが、双方の醸し出す雰囲気で何事かは察せられる。苦笑いの表情を浮かべながら彼女は空いている湯呑へ麦茶を注いでカタリナへ差し出す。

「ありがとうございます」

「いえいえ、とんでもありません。拓海様、間もなく旦那様がお出掛けになられます」

「......あぁ、そんな時間か。ありがとう、真美子さん。竜也、じいさんに欲しい物を強請っておけよ」

「はーい!──あ、おじちゃん!」

「なんだ?」

「おとしだま、ちょーだい!」

「こら竜也!」

「......出港前にやっただろう」

 昨年、彼が米国でのトマホーク搭載の為に出港する直前、帰省した際、新年は共に迎えられないのもあって先払いは済ませているのである。

 風間拓海へ手を差し出しながら告げる竜也が忘れている──訳ではない。風間俊一から、けしかけられたのだろう。あれだけの額では足りないから、もっと寄越せ、と言ってみろ、だろうか。

 子供に何を言わせているのか──自身の父親へ呆れが籠もった溜め息を漏らしながら彼は握り飯を頬張り、漬物を指先に摘んで口に運ぶ。

 母親に叱られた竜也は柴犬を伴って逃げ出した。その後ろ姿へ呆れた眼差しを向けた後、真美子は雇い主の息子である彼へ深く頭を下げて謝罪する。

 気にしてはいない。機転が利いて実に結構──と風間拓海は返し、一刻も早く息子への教育的指導を行いたそうな真美子を送り出した。

 その配慮に再度、頭を下げ、今度は感謝を示した彼女が踵を返し、早足で竜也と柴犬が去った方角へ向かうのをカタリナや風間拓海は見送る。

『──真美子さんと竜也くんは風間1佐の奥様やお子様かと思いました』

『結婚はしていない。調べはついているだろうが、私は独り身だ。念の為に言うと婚外子もいない』

 勘違いされる場合もそれなりにあるのだろう。風間拓海は事もなげにカタリナへ返した。

 一般論となるが、彼の年齢であれば妻子がいても不思議はない。独身である点は資料にも明記されていたが、家政婦とその息子を目の当たりにしたカタリナは資料の記述が誤っていたのかと考えた程である。

 ひとつで一合分の米が使われた握り飯を合計三個──三合分のそれを平らげ、沢庵や漬物も腹へ収めた風間拓海は薬缶の取っ手を握り、手酌で自身の湯呑へ麦茶を注ぎ、続けてカタリナが細い指先で包んだ湯呑に濃い茶色の瞳を向ける。

 中身がほとんど残っていない様子を認め、彼は腕を伸ばして薬缶の注ぎ口を彼女の湯呑へ向かわせた。

 カタリナは軽く頭を下げ──妙に日本人めいた仕草を取りながら彼からの酌を受ける。薬缶が傾けられ、中へ詰められた氷がガランと鳴った。

 冷えた麦茶が注がれた湯呑の縁へ彼女は少し厚めの潤った唇を当て、一口を静かに嚥下する。

『──真美子さんと竜也については......少しばかり複雑な事情がある』

 聡明かつ察しの良い軍人──とカタリナを内心で評価している風間拓海は、彼が言うところの少しばかり複雑な事情を語った。

 真美子の交際相手だった警察官──との間に授かったのが竜也なのだが、その交際相手は職務中に殉職したのだとか。

 妊娠が発覚したのは交際相手の殉職から数ヶ月が経ってからだ。

 交際相手の実家は非常に厳格かつ頑固な家庭と両親だったらしく、亡くなった恋人との間に授かった子供が腹にいることを告げても信用されなかった。

 その娘の境遇に接していた母親の絹子のただならぬ様子に主人である風間俊一が真意を問うたところ、彼は真美子や生まれてくる子供の生活と面倒も引き受ける旨を即答したという。

『──......そして、現在に至る、ということですか』

『そういうことになる。......まぁ、声高に宣伝するような話でもないし、境遇や出生の事情よりもどう生きていくかの方が問題だ』

 そちらの方が余程、健全かつ建設的である──と言わんばかりに風間拓海は湯呑を傾け、冷えた麦茶を嚥下すると腰を下ろしていた縁側から立ち上がった。

 刀掛台へ預けていた真剣を回収し、彼は道場を後にするが、その寸前に上座へ向かって深く頭を下げてから雪駄を履いて外に出る。

 真剣を携えたまま彼はカタリナと共に移動し、風間邸の正面玄関へ向かう。

 ちょうど邸宅の主人である風間俊一が背広姿で出て来た所だ。

「──あぁ、拓海」

「──懇親会、だったか」

 都内で催される多数の海自OBや国防族と称される国会議員数名も含めた懇親会へ招待されており、その出席の為に今から風間俊一は出掛けるのだ。

「精々、昔話に花を咲かせて来るとしよう。──少佐、大したお構いも出来ませんが、どうぞごゆっくり」

「恐縮です、風間海将」

 頭を下げたカタリナへ風間俊一は鷹揚に頷いた。良く磨かれた革靴の具合を確かめる老人の傍らへクルマの鍵を持つ真美子、そして竜也が寄り添った。

 駅まで真美子が送り届ける手筈であるようだ。竜也は──おそらく暇潰しに同行するのだろうが、道中で風間俊一に買ってきて欲しい諸々を強請るつもりなのかもしれない。

 最後に玄関から絹子が、そして駆け寄って来た柴犬が集まる。

 支度が整ったことを認めた風間俊一は全員を──自宅へ残る絹子や息子、そして客人に柴犬へ視線を向けて一言を告げる。

「──行ってきます」

「──あぁ。いってらっしゃい」

「──お気を付けて」

 息子である風間拓海は頷く程度に頭を下げ、絹子は深い一礼で踵を返して漆喰が塗られた長屋門に向かって玉砂利が敷き詰められた歩道を進み始める風間俊一を見送る。

 老人は傍らを進む竜也と手を握り、送迎を買って出た真美子と共に歩む。

 その姿を風間拓海と絹子は見送った。

 この家に於ける見送りの儀式──めいたものなのかもしれないが、カタリナの目には登舷礼のようにも映った。

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