第8話
夏の早朝に響く蝉時雨は格別だ。
板張りの道場──胴着と袴は上下共に藍染めのそれを纏った風間拓海は、正座しつつ上座へ向かって深く一礼を済ませる。
深い一礼をする彼の右手側には一振りの日本刀が置かれていた。真剣である。
一礼から直り、風間拓海は日本刀を鞘毎、帯の間へ差し込みつつ腰を上げた。
道場の板張りの床を素足で踏み締めながら下がり、帯びた日本刀の鯉口を切る。柄へ掛けられた右手が鞘から刀身を露わにした。
刃長は二尺四寸──72.7cmといったところだ。身幅が広く、力強い大鋒の豪壮とも形容できる姿。
力強さに反して刃文は美しいの一言だ。直刃を基調として、下部にわずかに小乱が交わる静かな刃取り。青黒く冴えた落ち着きのある地鉄は柔らかさや奥ゆかしさを感じさせる。
風間拓海は備前長船とも称される刀工の一派、五箇伝の内、備前伝に属する刀剣を好んでいる。好んでいる、というよりもそう育ったが正しい表現だろう。
彼の父、祖父、曾祖父──いずれも同様に好んでいるのだ。
蝉時雨の響きが道場の中にも届く中、構えられた真剣の鋭い風切音が鳴る。
真剣を振るのは久々のことだ。長く留守にしていたこともあり、管理や手入れは父親の風間俊一へ任せていたが問題はこれを振るう彼本人の技量が落ちていないかである。
身体へ染み付いた一通りの型を振り、どれほど自分自身が鈍っているかを確かめる必要がある。
やはり──というべきだろうか。10分もしない内に彼は己自身の技量が鈍っていることを自覚した。
何処が、と余人は思うだろう。鋭く、迷いの存在しない太刀筋にしか見えない。
だが、しかし、鈍っているか否かは彼自身が誰よりも理解してしまう。
最後の一振り──全神経を集中し、刀線刃筋を通す意識のまま袈裟懸けに振り下ろされた一太刀。寸分の狂いなく止められた刀身の鋭さ。
まだ周囲に残敵が潜んでいるかの如き挙動と雰囲気を纏わせ──当然だが、この場に敵は存在しない。あくまでも物理的には。
残心を解き、腰へ帯びた鞘を左手で引き出す。納刀の瞬間も周囲へ気を配りながら──やがて鞘から迎えに行く格好で真剣が納められた。
細く、息を吐く。たった十数分間に及んだ一通りの型を確認するだけの稽古にも関わらず、彼は多量の汗を掻いていた。運動不足が原因などではない。それだけ集中力を要したということだ。
やはり──鈍っている。
無理もない。なるべく技量を維持したいところだが、職業上、護衛艦に真剣は持ち込めない。渡米するとなれば尚更だ。現地でも技量を維持する為に稽古は欠かさなかったが、木刀や竹刀等とは異なる、正真正銘の真剣でしか得られない感覚は存在する。
鈍っている、というなら研ぎ直す他ない。
彼は再び最初の位置まで戻ると、同様の動きで稽古を再開した。
風間親子への事情聴取、そして監視──その名目で風間邸へ宿泊したカタリナの目覚めは良かった。
むしろここ数年で久々に熟睡できた、と感じる程である。なにか一服盛られたのでは、と一瞬だが考えてしまったのは秘密だ。
起床し、身支度を終えて客室を出る。直ぐに家政婦が彼女を認め、朝食の用意が整っていると告げた。
案内された居間には朝食が揃えられており、彼女は有り難く頂くことになる。念の為にフォークやスプーンと言ったカトラリーも家政婦達は用意してくれていたが、カタリナも日本に勤務して数年が経つ。箸は使えるようになっていた。
まぁ、流石にネイティブレベルの箸使いは難しいが──明確なタブーやマナー違反とされる行為は決してしないだけのレベルには達している。
給仕として世話を焼く家政婦──五十路手前だろう年頃の小柄でふくよかな体格の女性、絹子が米のおかわりは如何かと問う。
頷いて所望し、茶碗を差し出す。それに絹子は飯櫃から掬い取った白米を盛り付けて彼女へ手渡した。
飯櫃の大きさは旅館等で見る機会のあるそれと比較しても大きめだ。居住する全員分の食事を賄う為の米の量からしても容量が多くなるのは当然だろうが──それにしても大きい。
「......何合分が入るのですか?」
「一升ぐらい、でしょうかね」
「......一升瓶の一升、ですよね?もしかして、これで1日分?」
「いいえ。一食分ですよ」
とんでもない食事量だ。普段は家政婦の絹子、その娘、就学前の子供、家主の風間俊一しか屋敷には住んでいないと昨日は聞いたが、たった一食でそんなに食べるのだろうか。米が主食の国柄とはいえ、随分と多い。
まぁ、流石に相撲部屋とは比較にならないだろうが──そもそも比較してはならない筈だ。
食後の緑茶──宇治茶だというそれも馳走になり、一息吐く。
ここ最近は横須賀海軍施設でピザやホットドッグばかりの食生活が続いていた。不摂生の極みという自覚こそあるが、勤務は多忙だ。運動は勿論している。しかし度重なる食生活が将来どのような影響を及ぼすか分かったものではない。
手軽に食べられて、しかも保証された味──代わり映えしない味とも表現できるが、合理的な食事ではあるのだ。ただし、塩分やカロリー過多である。
こうして栄養のバランスを考えられた食事が摂れるのは随分と贅沢なことなのだと、彼女は改めて思い知る。
食器が片付けられる中、カタリナはふと尋ねる。風間俊一と風間拓海は何処にいるのか、と。
すると問われた絹子はあっさりと答えた。
「──旦那様方なら射場にいらっしゃいますよ」
風間邸の敷地は広い。敷地内には道場、そして弓の稽古へ用いる射場があるとは彼女も聞き及んでいた。
とはいえ──と彼女は腕時計で現在の時刻を確認する。7時を回ったところだ。聞けば既に風間親子は朝食を済ませているとか。
随分と早い起床をしているらしい。
見学しても問題はないかと、絹子へ問えば彼女は頷いた。
食器の片付けは娘に任せ、家政婦がカタリナを伴って玄関を出る。
向かう先は屋敷の裏手──道場の佇まいを感じさせる建屋、そして弓道の射場が並び立つ場所へ案内された。
靴を脱ぎ、板張りの射場へ足を踏み入れるなり、絹子は上座にある神棚へ向かって深く一礼し、それに釣られてカタリナも頭を下げる。
屋内となる射場。確かに風間親子の姿がある。間隔を空けて並び立つ両者は共に胴着と袴を纏い、和弓を握っている。
射場は天井が高く、安土が盛られた的場に向かって開口している──非常に伝統的な構成だった。
その射場で風間親子は順繰りに矢を放っているのだろう。
安土が盛られた的場に差し立てられた複数の的の内のふたつ。それらには既に数本の矢が突き刺さっているようだ。射場から的場までは──ざっと30m。正確には28mの距離が設けられていた。
日本文化の教育プログラムでも弓道を始めとした諸々の体験的な実習は存在したが、本格的なそれを間近で目の当たりにする機会は生憎となかった。
絹子が用意した座布団へ──脚を崩して構わないと囁かれ、カタリナは脚を揃える格好で腰を下ろす。正座はいまだに慣れないのだ。
射法の一連動作を踏み──親子が同様の八つに区分されているが、一連の動作間が分離・断絶しない動きのまま矢を順に放つ。
一矢ずつが鋭く、的確に命中する。
カタリナ、そして絹子に彼等親子の眼差しは当然ながら見えない。
もし正面から捉える機会があれば、彼女達はゾッとするだろう。
あまりにも鋭い眼差し──本来の、人間を殺傷する為に鍛えられた鏃と同様の鋭さを放つ双眸が、安土に差し立てられた的を睨み続けているのだ。
目標捕捉、追尾を続けるシステムの具現化──それを彷彿とさせる雰囲気のまま、彼等は矢を放ち続けた。